2009/07/27

浅羽通明著『昭和三十年代主義』書評

■文芸春秋 「諸君!」 2008年9月号

浅羽通明著『昭和三十年代主義』書評 酒井信

昭和の時代を24時間に換算すれば、昭和52年生まれの私は19時50分頃に生まれた計算になる。仕事を終えて帰宅し、食事も平らげて一休みしている頃と言えるだろうか。私が過ごした幼年期は、オイルショックから経済が復調へと向かい始めた「安定成長期」で、夕食後のひと時のように穏やかな時代であった。私の「昭和」の記憶は、このような穏やかな時代にはじまり、未曾有の繁栄を遂げたバブル経済の最中で幕を閉じる。平成元年度に小学校を卒業し、中高大の計十年間を「日本経済の失われた十年」の中で過ごしてきた私にとって、「昭和」の時代の記憶は遠く朧気であるが、懐かしく良いものである。
著者によれば「昭和三十年代」はすでに十年来のブームで、現在では若い世代ですらこの時代を「懐かしい」と感じているという。「バブルの頃は良かった」「今はもう政治もダメ、経済もダメ、若者もダメ」という類の話を、大人たちから聞かされながら育ってきた人たちにとって、「昭和」は「平成」よりも受け入れやすいのかもしれない。
著者は「昭和三十年代」ブームをことささらに肯定したり否定したりするのではなく、すでに若い世代がそうしているように、このような「懐古」を必要としている現実をそのまま受け入れている。そして著者は、年配の読者に阿るのでもなく、また若い読者に迎合するのでもなく、「昭和三十年代」ブームについて冷静に分析しながら、そのブームを必要としている現代の社会について分析を深めていく。著者によれば現代の日本の社会は次のようなものである。「誰もが絶えず秀でた者をひきずり下ろそうと妬んでいる社会。誰もが絶えず何かを消費して自己を確認しないと不安な社会。言い換えればそれは、全ての人が現在の自分に自足できないで、常に不満を抱いている『不満社会』なのです。足るを知らないのだから、不満は永遠に満たされず、従って欲望には際限がなくなります」と。
この論旨は多くの人が同意できるものであろう。ただ興味深いのは、著者がこのような「不満社会」の現状を打破すべく、「昭和三十年代」ブームを援用するときの考え方である。
「古代や中世では、エデンの園とか堯舜の世とか神武天皇とか、世の始原なる過去にこそユートピアは存在し、以後は堕落した末世だと批判するのが、社会思想のむしろ定番でした。
そんなユートピアが史実として確認できない以上、これは明らかに「過去の捏造」です。
 だがそのユートピアが、世の中のあるべき姿を巧に示し、現在を批判し、あるいは改革する基準を提供するものならば、それが捏造か史実かは大して問題ではありません。<中略>
 理想を基に捏造された「ユートピア過去」ならば、それは、あるべき未来像の一つが記述の技法上の都合で仮に過去へ託されて提示されたのと変わらないでしょう。そう。「過去の捏造」とは即、「未来の構想」にほかならないのです。」
 つまり著者は、ただ「昭和三十年代」を復古するのではなく、「過去に遡りながら未来を切り開く方法論」を復古しようとしている。だとすれば、なぜ著者にとって、このような復古の対象が「昭和三十年代」でなければならないのだろうか。
この本が扱っている「昭和三十年代」は、昭和の時代を24時間に換算すれば、11時25分頃から14時50分頃の真昼の時間にあたる。そしてこの時代は、まだまだ貧しくはあったが真昼の太陽に照らし出されたような明るさに充ち、人々には希望があふれ、人情に事欠かない時代、と理想化される。ただ、このような理想化されたイメージは、著者も指摘しているように「豊かで便利で無臭の平成」が作り出したテーマパークのような幻想であり、「昭和三十年代ごろの切実な生活感」を欠いている。著者の言葉を借りれば「昭和三十年代」は「本当に、汚く、不便で、貧しく、粗野ないじめが蔓延り、人情のしがらみが濃い鬱陶しい時代」であり、また「金馬銀歯を光らせた大人たちは、何かといえば、戦時中や終戦直後の苦労話をふりかざしては、『おまえたちは恵まれている』と小うるさい説教を垂れ」ていた時代でもあったという。ただ、著者はこのような批判を踏まえた上でも「昭和三十年代」には残る魅力があると考え、論を展開している。
 中でも印象的なのは、福田恒存の「消費ブームを論ず」を踏まえた考察である。この短文で福田恒存は「消費ブーム」の兆しが見え始めた昭和36年当時の社会を「おたがひに相手に附合ふ切掛けもよすがも失つてしまつた」社会であると評している。そして「人間は生産を通じてでなければ附会えない。消費は人を孤独に陥れる」と述べている。著者はこのような福田の批評を踏まえながら、現代社会の問題を「おたがひに相手に附合ふ切掛けもよすがも失つてしまつた」人間の「孤独」の問題として捉えている。そしてさほど成長の見込めない日本の社会は、貧しくなってでも「互いを『必要』とする『生産』の協働体」を構想することで、現代人の「孤独」と向き合う必要があると唱えるのである。
「希望」や「人情」ではなく「必要の絆」がなくなったことを現代の特徴と考える著者の視点はユニークである。確かに、一般には「希望」や「人情」が昭和三十年代にあり、現代にはないと考えられるが、平成の現代の方が、際限・分限を欠いた「希望」はあふれ、メールをマメに返信して友達関係に気を遣うような「人情」にも事欠かない。この点については私も「平成人(フラット・アダルト)」という著書で考察したのでよく分る。現代社会を生きる私たちは、「必要の絆」がなくとも生活できる便利さを手に入れた反面、「おたがひに相手に附合ふ切掛けもよすがも失つてしまつた」のであり、誰にも「必要」とされない「孤独」を社会の宿痾にしてしまったのである。
私たちは「必要の絆」を軸にして社会を再構築することで、多くの問題を解決できるのかもしれない。「昭和」の時代の記憶が遠く朧気な私でも、「必要の絆」による変革を信じさせるに十分な一冊であった。