2018/01/22

西部邁先生の思い出

西部邁先生の訃報に実感が湧かない。入水された多摩川の水の冷たさが、先生の酒場での暖かな雰囲気に似つかわしくないと思う。身近な人のことを深く思い遣る方だったので、先生なりの考えと強い決意を持って入水されたのだと思う。しかし、それにしても、と思ってしまう。

西部先生と最後にお会いしたのは、15年近くも前の大学院生の頃である。大学院でお世話になっていた福田和也先生のお供で「発言者」の対談を見学させてもらい、その後、ゴールデン街の店に連れて行って頂くのが常だった。

「発言者」の対談で、西部先生は自分の言いたいことを言うという感じではなかった。「発言者」という雑誌を通して西部先生は、持論を世に広めたいというよりは、福田和也や佐伯啓思、スガ秀実など脂の乗った一流の書き手と議論することを、心から楽しんでいるように見えた。

いわゆる保守の論客のイメージは、お会いした西部先生の姿にはそれほど感じられなかった。父権的な強さよりも、父権的な優しさの方が際立って見えた。「三国志」に出てくる武将のようだ、と思った。

政治的には反米保守、経済的にはアンチ新自由主義で、ケインズ主義者、社会的には、家族関係に根ざしたコミュニティ支持者、という印象で、右翼・左翼という区分で言えば、双方の思想性を包含する立場の方だった。

最初に西部邁先生にお会いしたのは、早稲田大学の4年生の時である。私は4年の春学期に慶應大学の大学院への進学が決まっていたので、福田先生の授業を聴講していた。
1999年のことで、この年の夏に、江藤淳先生は66歳で自裁された。西部先生が今回の入水に際して、江藤先生のことを考えなかった、ということはないと思う。

この年に初めて受けた福田和也先生の授業は、厳しいものだった。一コマの授業で毎週、数冊の本を読み、長々としたレジュメを書かないと、出席すら認められない。授業が進むに連れて履修者がどんどん減っていく。本を読まずに出席した学生を怒鳴って教室から追い出している福田先生の姿が、昨日のことのように目に浮かぶ。福田先生も40歳前後でカロリーが高く、若かった。この年の授業が、その後の大学院時代の授業の標準となった。

学期の後半になると、学生が教室に寄りつかなくなり、授業はほとんどマンツーマンになっていた。その頃にようやく私は名前を覚えられ、「西部邁先生のゲスト講義に来ないか?」と声を掛けられた。宗教の勧誘のようだ、と思った。

当時、私はポストモダン思想にかぶれ、生意気だった。私はいつものノリで、西部先生の道徳のあり方や戦後日本についての意見に、柄谷行人の著作を引きながら、反論してしまった。その結果、私は飲み会の時間めいっぱい、他の学生のことなどお構いなしで論駁され、人生の厳しさを思い知らされた。

福田先生はその論駁を、ニヤニヤしながら、見て見ぬふりをしていた。性根の悪そうな人だと思った。飲み会の終わり際に、「初戦としてはよかったんじゃない」と脂の乗った顔で笑っていた。何が「初戦」なのか、その時はよく分からなかった。

当時、私は茶髪で、柄谷行人に限らず、ポスト構造主義の哲学書や福田和也や宮台真司の著作を好んで読んでいた。おそらく外見の上でも、思想の上でも、西部先生にとって私は格好の「酒のつまみ」だったのだと思う。西部先生は茶髪が嫌いで、地に足の着かない、ポストモダン風の概念を振り回す議論が嫌いだった。

しかし西部先生は、一度論駁した相手に優しかった。見込みがあるから論駁するんだ、とも言ってくださった。先生は私のようなただの大学院生に対しても礼儀正しく、高圧的ではなかった。東大出身で、東大でも教鞭を執っていたのに、それを鼻に掛けるようなことがなかった。60年安保闘争の中心にいた方なのに、学生運動を美化し、自慢するようなこともなかった。

ゴールデン街の店でも、個人レッスンをするように、「なあ、酒井君、『良識』とは何か考えているか」という具合に、議論の相手になってくださった。同じことが大学教員となった今、私が若い院生に対してできるかと言えば、全く自信がない。私が地方出身だったこともあってか、生まれ育った北海道でのご苦労について多く話してくださった。

その後、中野の方で定期的に開催されていた「発言者」の勉強会にお声がけを頂いた。この頃、私は一人で本を読む方が好きだったので、勉強会には数回しか出席しなかった。ただこの頃の西部先生の話は、大衆社会の批判や、ポピュリズムの批判を中心とした「治者の哲学」とでも言えるもので、IT革命以後の時代でも色褪せない、思想的な深みが感じられた。

後期博士課程に進む時、西部先生から推薦状を頂いた。しかしその後、些細なことで、西部先生と福田先生の間に溝ができてしまい、それが修復されないまま時間が流れてしまった。その後、書評などで二人の間にはやり取りはあったと思うが、溝が埋まっていたのかどうか、私はよく分からない。長い時間、対談や酒席を共にした二人にとっては、その溝はいつでも容易に飛び越えられる程度のものだったのかも知れない。

その後、私は論壇誌や文芸誌に原稿を書くようになったが、西部先生とお会いする機会には恵まれなかった。2007年から3年間、西部先生が学頭を務める秀明大学で、「メディア論」と「情報社会論」を担当させて頂いた。西部先生の弟子筋の安岡直先生にお気遣いや励ましを頂いた。当時、私は任期制の助教で、共同通信とのニュース解析の研究が慌ただしく、週に1日、秀明大学に授業に行くのは、いい気分転換だった。
この時も西部先生とお会いする機会はなかったが、間接的な形でお気遣いを頂いていたのだと思う。

私にとって西部邁先生の記憶は15年前で止まったままである。西部先生の訃報に接しても「『死』とはね、つまりこういうことなんですよ、酒井君・・」といつもの調子の話を、またどこかで聞けるような気がしてしまう。福田先生がよく、「西部先生ほど、話すのが上手く、頭脳明晰な方にお会いしたことはない」と言っていたが、その通りだったと思う。

西部先生は社交的な方だったので、弟子筋の方々や酒席を共にされた方々は数多くいらっしゃると思う。著作も多岐にわたり、『知性の構造』や『ケインズ』などの著作は、これからもっと再評価がなされると思う。

ただ私にとって西部邁先生の思想は、「発言者」の終わり頃、9・11以後の対テロ戦争の時代に、西部事務所で見学した、当時の脂の乗った書き手達との、左右の思想が入り交じった、快活なやり取りの中にこそある。幅広い知見を網羅した議論に接し、「知識人」と呼ばれる人々が、確かに存在するのだと実地で学んだ。


『テロルと国家』福田和也、佐伯啓思、スガ秀実、西部邁著 2002年・・左右の主義・信条を超えた豪華メンバーによる共著。

西部邁先生のご冥福を心よりお祈りいたします。