2020/12/23

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第139回 柴崎友香『春の庭』

 西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第139回 2020年12月20日)は、柴崎友香の芥川賞受賞作『春の庭』を取り上げています。表題は「田舎のような都会の風景」です。年内の連載はこの回が最後で、年明けの掲載で第140回です。

 東急世田谷線の近くの高級住宅地に建つ風変わりなアパートを舞台にした芥川賞受賞作です。世田谷線の終点の下高井戸は世田谷区の北東部の街で、江戸時代には甲州街道の第一宿場町「高井戸宿」として栄え、関東大震災後に多くの人々が移住してきた歴史を有し、近隣に明治大学和泉キャンパスや日大文理学部があるため「学生街」としても賑わっています。

 この小説は都心の喧騒から離れた場所を、ゆっくりとした速度で走る世田谷線のように、穏やかな時間を感じさせる作品です。「一人で静かな道を歩いていると、今暮らしているこの街の風景と、記憶にある生まれ育った街の風景とが、建物の規模や隙間との関係も人の密度もあまりにも違うので、記憶の中の街のほうが遠く、他人のもののように思えた」という太郎の叙述は、世田谷の風景に対する不思議な感情を代弁していると思います。

柴崎友香『春の庭』あらすじ

 東京都世田谷区にあるアパート・ビューバレスサエキⅢを舞台にした大阪出身の太郎と、漫画家の西さんの日常生活を描いた作品。隣には「春の庭」と題された写真集の撮影場所となった有名な「水色の家」が建つ。アパートは取り壊しが決まっており、部屋番号の代わりに干支記された昭和の雰囲気の部屋が並ぶ。服飾の専門学校で縫製を教えていた「巳」など、変わった経歴を持つ人々との交流を描く。第151回芥川賞受賞作。


2020/12/16

BBC「スー・パーキンスとさぐる現代日本の多様な文化」(丸善出版)の監訳

 BBCのドキュメンタリー「スー・パーキンスとさぐる現代日本の多様な文化」前篇・後篇を監訳しました。発売は丸善出版です。授業利用や図書館貸出、館内上映が可能な作品のため、高めの価格設定になっていますが、ぜひお近くの図書館への配架をリクエストして頂ければ幸いです! サンプルムービーも下のサイトで視聴可能です。

BBC スー・パーキンスとさぐる現代日本の多様な文化 [Japan With Sue Perkins] 前編

https://www.maruzen-publishing.co.jp/item/b304097.html

BBC スー・パーキンスとさぐる現代日本の多様な文化 [Japan With Sue Perkins] 後編

https://www.maruzen-publishing.co.jp/item/b304098.html


監修のことば 酒井信
イギリスのBBCが制作した「現代日本の文化的・経済的な成功の謎」に迫るドキュメンタリーです。ナビゲーターのスー・パーキンスはBBCの番組に数多く出演するケンブリッジ大学卒のコメディアンで、ユーモアを交えながら日本社会の表裏の問題に鋭く切り込んでいます。ポップカルチャーから伝統産業まで日本の魅力と問題点について深く考えさせられる内容です。社会学、国際文化学、観光学、英語学、日本語教育の教材としてお勧めできます。

著者名 酒井 信 監訳

制作元 BBC

発売   丸善出版株式会社

発売/発行年月 2020年12月

媒体 DVD

時間 各50分

音声/字幕 英語 / 英語、日本語

ジャンル 地理・地誌・紀行 >  世界地理・紀行

館内視聴 館外個人貸出 館外団体貸出

館内無償上映 学外貸出 授業利用

シリーズ紹介

英国でコメディアン、女優、作家として活躍するスー・パーキンスが東京、京都、伊勢、広島などを旅して、日本の様々な文化を紹介する。テクノロジーとサブカルチャーが発達した未来都市でありながら、古き良き伝統を重んじる国でもある日本の“いま”を英国人の視点で紹介する。

内容紹介

紹介する現代日本の文化事象

前編

女子相撲チーム

ロボットと暮らす家族

地獄のビジネススクール

ソロ・ウェディング

ポップアイドルとオタク

癒しと巡礼


後編

薄れゆく芸妓文化

伊勢志摩の海女

原爆の記憶

レンタル家族

メイドカフェ

婚活パーティー

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第138回 宮下奈都『羊と鋼の森』

 西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第138回 2020年12月13日)は、宮下奈都の本屋大賞の大賞受賞作『羊と鋼の森』を取り上げています。表題は「若い調律師の成長物語」です。

 ピアノとは精巧に作られた木製の「弦楽器」で、18世紀の初頭にチェンバロを改良して生まれた近代の産物です。本文中の言葉を借りれば、「いい草を食べて育ったいい羊のいい毛」を贅沢に使ったフェルトのハンマーが、鋼鉄で作られた弦を叩き、その振動がエゾマツの木を主な原料とした響板に伝わり、響板が空気を振動させることで豊かな音が生まれます。現代でもピアノのハンマーは羊の毛で作られ、響板は木で作られており、多くの演奏会がアナログ(生音)で行われています。

 この小説は北海道の山の集落で育った主人公の外村がピアノの調律師として成長していく物語です。調律師の仕事は「精密な楽器」であるピアノを、各パーツの素材の特性を理解しながら、気温や湿度に応じて調整することにあります。綿羊牧場の近くで育った外村が、音楽の素養を持たず、徒手空拳で「羊と鋼の森」が奏でる音を求めて成長していくプロセスには、ピアノ版の「羊をめぐる冒険」という趣きが感じられます。

 恩田陸の「蜜蜂と遠雷」のようにピアニストを題材とし、音楽を様々な喩えを駆使して表現した優れた現代小説も存在します。ただ過疎化の進む開拓地で育った調律師の視点から、自然の音の記憶を辿りつつ「目指す音」を追求する本作もオリジナリティが高く、面白い作品です。


宮下奈都『羊と鋼の森』あらすじ

北海道の山の集落で生まれ育ち、高校卒業後にピアノの調律師となることを決意した外村は、専門学校で教育を受けたのち、地元に近い江藤楽器店に就職する。天才的な調律師の板鳥に憧れつつ、先輩の柳や秋野に見守られながら、外村は調律師として成長していく。2016年に第13回本屋大賞で1位を獲得。


2020/12/09

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第137回 藤沢周『ブエノスアイレス午前零時』

 西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第137回 2020年12月6日)は、藤沢周の芥川賞受賞作『ブエノスアイレス午前零時』を取り上げています。表題は「湯上り 上気した時間と記憶」です。

 温泉は日本を象徴する観光地として国内外の観光客で賑わっています。ただジョン・アーリ『観光のまなざし』によると、イギリスでは健康の効能が疑わしいと見なされて19世紀に廃れた歴史があります。確かに温泉と一口に言ってもその成分は多様で、効能も高血圧や動脈硬化、糖尿病が治るなど、にわかには信じがたい内容が記されています。

 イギリスで温泉地として知られるのは、英語で浴場を意味するBathの名を冠するイングランド南部のバースぐらいです。私もバースを訪れて驚きましたが、世界文化遺産に登録されている温泉地でありながら、入浴できる場所はごくわずかしかありません。ローマン・バスなどの有名な観光地も、緑色に輝く水面やローマ時代の遺跡などを見学させる場所に過ぎないのです。イギリス人の風呂嫌いが筋金入りであることは、温泉地の観光地としての価値の低さからも分かると思います。

 藤沢周の「ブエノスアイレス午前零時」は、日本の温泉地らしい「上気した雰囲気」を伝える現代小説です。藤沢周は新潟県西蒲原郡の出身で、父親が定宿にしていた新潟県阿賀町のきりん山温泉の旅館をモデルに、この作品を記したそうです。




藤沢周『ブエノスアイレス午前零時』あらすじ

 ダンスホール目当ての客とスキー客でにぎわう雪深い温泉町のホテルを舞台にした作品。「ブエノスアイレス午前零時」という表題はピアソラの曲に由来する。都会の広告代理店を辞め、実家のある街に戻って来た若者と、梅毒を患った元売春婦と噂される老婆の交流を描いた抒情的な作品。表題作は第119回芥川賞を受賞。


2020/12/01

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第136回 柳美里『JR上野駅公園口』

 西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第136回 2020年11月29日)は、柳美里の全米図書賞(翻訳部門)受賞作『JR上野駅公園口』を取り上げています。表題は「東北の出稼ぎ通し描く戦後史」です。

東日本大震災で被災地となった福島県南相馬市の海沿いの集落で生まれ育ち、東京に出稼ぎに出た男の人生を描いた作品です。作者の柳美里は平成27年に神奈川県から南相馬市に移住し、自作から採った屋号を持つ書店「フルハウス」を開業しています。表題は男が出稼ぎで家族を養ったのち、上野公園でホームレスになったことによるものです。本作によると「上野恩賜公園のホームレスは、東北出身者が多い」らしいです。

「突然いなくなって、すみません。おじいさんは東京へ行きます。この家にはもう戻りません。探さないでください」という孫娘への書置きが切なく、孫娘に迷惑をかけたくないという不器用な思いの強さに、出稼ぎの苦労を味わった労働者らしい矜持=感情の訛りが感じられます。ホームレスとなった男の人生を通して、上野恩賜公園の特異な歴史に迫る筆致も興味深いです。

 本作を記した動機について柳美里はあとがきで次のように記しています。「家を津波で流されたり、「警戒区域」内に家があるために避難生活を余儀なくされている方々の痛苦と、出稼ぎで郷里を離れているうちに帰るべき家を失くしてしまったホームレスの方々の痛苦がわたしの中で相対し、二者の痛苦を繋げる蝶番のような小説を書きたい――、と思いました」と。「JR上野駅公園口」は、福島県の浜通り出身の男の人生を、当地に住む作家らしい視点から戦後史を交えて丹念に描いた「故郷喪失」の物語です。



柳美里『JR上野駅公園口』あらすじ

1963年、東京オリンピックの前年に、男は福島の浜通りから上京し、出稼ぎで家族を養う。苦しい生活を立て直すことに成功したが、家族との死別を経験し、孫娘に迷惑をかけたくないという思いで、上野恩賜公園でホームレスとなる。福島出身の男の人生を通して、日本の戦後史を描く。2020年全米図書賞(翻訳部門)受賞。