2010/08/10

文藝春秋9月号に「理想の政界再編は石破新党VS勝間和代新党だ」という評論を書きました。原題は「民主主義の危機」というものですが、「自分と被った内容で変わったタイトルの文章を書いてる人がいるなあ」と思ったら自分の原稿だったりするのが論壇誌ですので、タイトルに躓く人にも読んでほしいです。内容は、「既存の政党の政治的な立場が時代の変化に対応できていないのでは?」という問題意識から、四つの新党の可能性について論じたものです。これまで書いた論壇誌と発行部数の桁が違うので、いつも以上に挑発的な内容かも。

http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/76

具体的には、次の人たちが幹部を務める新党による政界再編の可能性について、論じています。石破茂、東国原英夫、福田衣里子、勝間和代、橋下徹、湯浅誠、堀江貴文、東浩紀…。今の二大政党制のあり方や、第三の政党の政治的な立場に「何だかなあ」と思っている人にこそ読んでほしい内容です。

詳細は本文に譲るとして、そもそも「政治的な立場」とは何なのでしょうか。例えば政治学者のローティは、次のように言っています。「政治的な立場は、その政治的な立場が訴えている原理によるというより、その政治的な立場がもたらす結果によって正当化することができる」と。つまり政治的な立場というのは、どこかで聞いたことのあるような理念や、口当たりのいい公約によって定まるのではなく、妥協を強いられた理念や公約を「後付けで正当化」する力によって定まるものなのだ、と。
具体的に考えてみます。例えば先の参議院選挙で民主党が大敗したのは、菅首相が「消費税10%」に言及したためと言われます。ただ、そもそも消費税10%というのは自民党が打ち出した選挙公約です。菅首相も「自民党が提案している10%を一つの参考にしたい」と口にしています。この直後にカナダでのG8サミットが控えていたため、「ギリシアとは違って、日本が財政改革に前向きなこと」をアピールする必要に迫られていたらしいです。
だとすれば、なぜ自民党と比べ物にならないほど、菅首相が批判を浴びせられ、民主党は選挙で議席を失う結果になったのでしょうか。先のローティの言葉を踏まえれば、菅首相が有権者に対して、自らの「政治的な立場」を後付けで正当化することに失敗したからだということになります。多くの有権者にとって、菅首相の「消費税10%」への言及は、自民党の物真似に思えたのだと思います。そして菅首相の発言の内容そのものよりも、彼の「政治的な立場」に疑問符が付いたのだと思います。
 そもそも前首相の鳩山由紀夫が支持を失ったのも、高速道路の無料化、普天間基地の移転、公務員制度改革、暫定税率の廃止などの公約の実行に失敗したからではないと思うのです。鳩山由紀夫の「政治的な立場」が小沢一郎にコントロールされていると多くの有権者が感じていたからでしょう。近年の日本の首相は、理念や公約に妥協が強いられた時、「政治的な立場」を後付けで説得する力が欠けている。だから「政治的な立場」があやふやに見えるのだと思います。

 だとすれば現代の社会変化に対応した「政治的な立場」とはどのようなものなのでしょうか。そして、その立場を後付けで正当化しうる政治家の力量とはどのようなものなのでしょうか。

この原稿は、その解答の一つとして書いたものです。この原稿を叩き台に、長期的な視野の下で、各政党・各政治家の「政治的な立場」をめぐる論議が起こればいいなあと思います。異論にも期待しています。分量の都合で掲載できなかった議論(例えば移民の受け入れや、現代日本版のコミュニタリアニズム、リバタリアニズムの問題)については、機会が得られれば、別の誌面で書きたいと思います。先の吉田修一論のような文壇での仕事だけではなく、この原稿のような論壇での仕事にも、今後ともご期待下さい。


2010/08/07

文学界9月号に吉田修一論を書きました

8月7日発売の文藝春秋の文学界9月号に「吉田修一論 都市小説の訛りについて」というタイトルの批評文を書きました。芥川賞特集の下の方、「10年代の入り口で 文学界2010」のところに載っています。30ページぐらいの分量です。

http://www.bunshun.co.jp/mag/bungakukai/

吉田修一さんは、長崎南高校の先輩にあたる人で、実家も「同じ山の斜面」にあるので、文化圏というか、言語圏が同じです。「water」で描かれているプールで泳いでましたし、「長崎乱楽坂」の雰囲気は、私が生まれ育った町の雰囲気でもあります。なので今回の批評文は、「吉田作品の訛り」について「ネイティブ」らしい視点から展開しています。もちろん吉田作品に馴染みがなくとも、作品から独立した作品として読めますので、ぜひ手にとってみてください。

吉田作品で実家として描かれる「酒屋」の前の道は、高校の通学路の一つでした。「一つ」というのは、吉田修一さんと私が通った高校は、ちょうど長崎港が見渡せる小山の山頂近くにあったので、私は行きはバスを使って、帰りは気まぐれに路地を選びながら山を下りていたわけです。小説でも描かれていますが、長崎南高校のある山から見渡す長崎港の景色は、「東京に行くのを止めようか」と思うほど美しいです。

思えば、あの酒屋でジュースやビールを買った記憶もあります。一休みするのに、ちょうどいい感じの場所にあるのです。長崎の酒屋では、仕事上がりの職人がつまみを買って飲んでるので、時間によっては酔っ払いに絡まれることもありますが、それはそれでよい勉強になります。その下には龍馬伝で舞台になっている丸山(旧遊郭街)がありますが、あのあたりには成人映画のポスターが各電柱に貼られていたので、それもまたよい勉強になりました。あと長崎は平地が少ないので、路地の中に急に墓場が現れてきますが、毎日の下校が肝試しみたいになるので、お得です。たまに墓から変質者も出てくるので、スリル満点です。

そういう話は本論と関係ないですが、長崎の人らしい「訛り」にも着目した「吉田修一論」をぜひ読んでみてください。柳田国男とか漱石とかフロイトとかルカーチとか江藤淳とかも出てきますが、文芸批評に馴染みのない人にも読みやすい文になっていると思います。

この批評文を皮切りに、文芸誌では現代の日本の小説について批評文を書いていきます。現代版の「成熟と喪失」をやります。江藤淳の「成熟と喪失」は、その概念を借用してあれこれ言う類の作品ではなく、実践する類の作品だと思うので。同時代の小説と向き合いながら、現代の文芸批評の基準を示していきます。