2022/01/31

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第193回 米澤穂信『氷菓』

 「現代ブンガク風土記」(第193回 2022年1月30日)では、米澤穂信の『氷菓』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「伝統的景観生かし青春描く」です。

 青春小説はなぜ人々を魅了するのでしょうか。一つの答えを示せば、多くの人が若い時期に、その後の人生を左右する「取り換えのきかない時間」を経験するためだと思います。言い換えれば、読書を通して「他にあり得たかも知れない人生」を感じるのに「青春時代」ほど相応しいものはない、と考えることもできます。

 本作は、岐阜県高山市にあると思しき「神山高校」の「古典部」にまつわる様々な事件を描いた青春小説です。神山高校は、米澤穂信が通った岐阜県立斐太高等学校をモデルにしています。米澤は金沢大学在学中からウェブ・サイトで小説を発表し、卒業後は高山市の三洋堂書店で働く傍ら、この作品でデビューしました。「氷菓」は2012年にアニメ化されて高い人気を獲得し、高山市は「アニメツーリズム」の有名な成功事例となりました。伝統校を舞台に、青春の甘さと苦さを同時に体感させる、サービス精神に満ちたデビュー作です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/869427/

米澤穂信『氷菓』あらすじ

 第166回直木賞を「黒牢城」で獲得した米澤穂信のデビュー作。小説の内容は「青春学園ミステリ」とでも言うべきもので、米澤の出身地である岐阜県高山市の神山高校を舞台に展開される。「古典部」で33年前から発行されてきた「氷菓」にまつわる謎とは何か。アニメ版も有名な人気シリーズの第一作。

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 今週もKansas CityとLAでのNFLのChampionshipを楽しみに仕事に励みました。日本だとMisandryというかMan-Hater的な議論が「リベラル」と見なされがちで、フットボール文化そのものが否定されそうで恐ろしいですが、NFLはNon-Profit Organizationの代表的な成功例で、地域振興、マイノリティの支援という点でも重要な役割を果たしています。放送権の販売やシーズンチケットによる集客、グッズ販売、自前のメディア配信、オンラインのサブスクの何れも好調で、(年17試合+プレイオフで)労働分配率も高く、今週も8万人規模のスタジアムで満員の開催でした。

 バロウ君のCincinati Bengalsが33年ぶりのスーパーボウル出場。今年はカレッジもCincinatiは良いチームでした。北新宿に住んでた時、中華の出前の人がいつもBengalsのヘルメットを被っていて「(いい意味で)やばい」と思ってましたが、バロウ君の活躍で、Bengalsのメットを堂々と被れる時代が来た気がします。Cincinatiは一度行きましたが、中西部らしくフレンドリーな人が多く、いい街でした。

 基本的に弱いチームのupsetを観るのが好きなので、今年のスーパーボウルの組み合わせは好みです。デトロイトを出た、33歳のスタッフォードがLA RAMSからスーパーボウルに出るなんて予想外でした。セントルイス時代のRAMSで、37歳でスーパーボウルに出た、(スーパーマーケットで時給5ドル50セントで働きながらプロになった)カート・ワーナーを思い出します。ワーナーはNFLのGAME DAYの解説で、Arrowhead Stadiumの空気を読まず、Bengalsを推してましたが、その通りの結果となりました。

NFL Mic'd Up Championship Week "WE GOING TO THE SUPER BOWL!"

https://www.youtube.com/watch?v=0I7Vs3RPNBc

 同い年のブレディは、先週、引退っぽい発言をしてビッグニュースになりましたが、その後、2月1日に公式に引退表明。マホームズ×ブレディの18歳差のマッチアップを観たかった人は多いと思いますが、40代半ばで続けるには、きつい仕事だったのは確か(ドラフト6巡199番目の指名になったのも、skinnyな体格だったからでした)。Bostonを舞台にした「ted 2」でtedをいい感じのスパイラルで投げたのも、キャリアのハイライトです。NYとBostonでピーク時に観戦できて良かったです。2月はスーパーボウルとブレイディ関連の報道を味わいつつ、そこそこ仕事に取組んでいきたいと思います。


Thank you, Tom Brady | Celebrating the Greatest of All Time
Thank You, Tom Brady | QB Announces Retirement
Top 10 Greatest Tom Brady Moments of All Time

2022/01/24

毎日新聞「コロナ感染巡る報道 個の死、伝えた米英/日本は「匿名志向」」

 毎日新聞に新型コロナ禍の海外メディア報道に関するインタビュー記事が掲載されました。ニューヨーク・タイムズの英字テキストの定量分析と、アメリカの大学生がメンタル・ヘルスの危機を訴えている報道を踏まえた内容です。通常の新聞取材よりも長い時間、お話をしました。毎日新聞の青島さんに要点を上手くまとめて頂きました。専修大学文学部ジャーナリズム学科の澤康臣先生の談話と同時掲載です。

「コロナ感染巡る報道 個の死、伝えた米英/日本は「匿名志向」」毎日新聞(22年1月24日朝刊)

https://mainichi.jp/articles/20220124/ddm/004/040/051000c

 この原稿を入稿した後も、東大の殺傷事件などが起きています。様々な報道がありましたが、一部の報道で出ている自傷行為など予兆があった点が重要だと思います。

 極端化する世論形成の問題も同様ですが、メンタル・ヘルスについても個人と行政の間が大事で、心療内科医やカウンセラー、家族、友人、NPOが予兆の段階で果たす役割が重要だと思います。特に自傷行為や、その代替行為は未然に防ぐ必要があります。(「NPO メンタル」で検索すると、全国各地で様々な団体が無料相談に応じていることが分かります)。

 私は臨床心理学は大学2年次までしか学んでいませんが、依然としてメンタル・ヘルスの問題は、多くの人に潜在する問題としては、理解されていないと思います。症状には強弱や波がありますが、論理的・数理的思考力や、特定分野を掘り下げる力、瞬時の判断力や素直な感情表現の良さなど、ポジティブな側面を伴うこともあります。自覚していない人にも、その心的傾向があることも珍しくありません。ハイデガーが「不安」という概念を起点として『存在と時間』を記したように、「不安」や「妄想」が、世界や社会に対する存在論的な思考の条件だとも言えます。文芸の歴史に名を残した多くの作家たちが、心的な病を抱えていたことは自明です。

 メンタル・ヘルスの問題にはグラデーションがあり、再発しやすいものでも、投薬と生活習慣の改善で緩和され、支障が出にくいものもあります。生活習慣の改善(特に食事と睡眠と運動)やコミュニケーションの学び(礼節、ネット依存対策、情報リテラシーなどを含む)も重要だと思います。症状が重くなる場合は、日本では雇用義務・雇用率も明示されていますので(2018年よりメンタル・ヘルスの問題も適用)、上手く準備をすれば、安定したキャリアを形成することも可能です。私が過去に担当した演習・卒論の履修者で、この雇用枠で国家公務員に採用された人もいます。

 文筆業や公務員など、一部の業界ではよくある話ですので、冷静に役立つ情報を集め、理解のある身近な人や、心療内科やカウンセラー、NPOの窓口などに相談しながら、自分に合った問題の緩和の仕方を、「気長に」見つけることが大事だと思います。私自身も新型コロナ禍を機に、文芸批評やメディア研究に、ゆるゆると心理学の知見を取り入れていきたいと考えています。

2022/01/23

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第192回 米澤穂信『満願』

 「現代ブンガク風土記」(第192回 2022年1月23日)では、米澤穂信の『満願』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「『心の死』めぐるミステリ」です。第166回直木賞は、西田藍さんとの対談で挙げた2作が受賞でした。何れも出版不況を潜り抜けてきた作家らしい骨太の歴史小説で、読み応えがあり、嬉しく感じました。

 太宰治の小編に「満願」という作品がありますが、関係は薄く、米澤穂信の『満願』はいわゆる「イヤミス(読後に嫌な気持ちになるミステリ)」です。予想外の方向に物語が転がり、落語の人情噺のように「感情に訴えかけるような落ち」のある展開が魅力的な作品です。八溝山地にある「死人宿」など「いわくつきの場所」の描写も上手いです。

 収録されている6つの作品は、別々の土地を舞台にした、異なる物語ですが、何れも人間の「心の死」を中心的なテーマに据えている点で共通しています。人間は体が健康な状態でも、心が死の危機に瀕することがある、という現実感を生々しく伝えています。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/865901/

米澤穂信『満願』あらすじ

 交番勤務の巡査ながら、二階級特進で名誉の死を遂げたとされる巡査の職務の実態を描いた「夜警」。女性を魅了する佐原成海の妻と二人の娘の複雑な関係を描いた「柘榴」など、6つの短編から成るミステリ小説。文藝春秋、早川書房、宝島社のミステリーランキングで一位となる三冠を達成。山本周五郎賞受賞作。

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 単行本や雑誌原稿も含め、今月の締め切りの仕事がひと段落し、先々の仕事の準備で、全集本を70巻ほど発注しました。付箋を貼り、情報を整理する必要があるため、断捨離の時代に逆行しますが、ライフワークと覚悟し、購入。2年前の移籍時に千冊ぐらい本を捨て、業務用3列本棚を設置したので、収納はできますが、鈍器本約70冊はさすがに嵩張りそう。全集の値段が下落しているのも理解できます。古書店文化を守ることには、日頃、貢献しているつもりですが、新しく刊行される全集については、検索もできますし、電子版が相応しいと思います。

 NFLのプレイオフは、満員のスタジアムで好ゲームが続いています。Kansas Cityが残り13秒からの際どい逆転劇で、スタジアムから湯気が出る熱狂でした。QBのマホームズ君は父親がベイスターズのピッチャーで、横浜市にも住んでいたので応援したくなりますね(Do it KELCEが流行語になってました)。バロウ君のCincinnatiとのChampionshipはかなり楽しみ。Green Bayが毎年恒例のロシア級悪天候で、なぜか温暖なサンフランシスコに敗れ、Tampa Bayは同い年のブレディがメンタル不調っぽく、ラスト4秒での敗戦。

NFL Mic'd Up Divisional Round "I Almost Popped a Blood Vessel"

https://www.youtube.com/watch?v=5AjkZ5RL4BA

 今年のスーパーボウルは珍しくLA開催(新しいSoFi Studiam)で、ハーフタイムショーはエミネム、スヌープ・ドッグ、メアリー・J・ブライジ、ケンドリック・ラマー、ドクター・ドレで、なかなか豪華です(全くファミリー向けではない人選)。昨年のシャキーラ&ジェニファー・ロペスが中南米ノリで攻めたパフォーマンスだったので、今年も視聴者数で世界一の音楽ショーに相応しく、新しい時代を牽引する15分のステージを観たいです。

The Call | Pepsi Super Bowl LVI Halftime Show OFFICIAL TRAILER

https://www.youtube.com/watch?v=KJ2MbmrxVzg

 早く平和にアメリカをドライブしながらショービズを楽しみたいものです。体調に気を配りながら、何とか春先までの仕事を乗り切って行きたいと思います。

2022/01/18

第166回直木賞展望(西田藍さんとの対談)

 第166回直木賞の候補作について、文芸アイドルで書評家の西田藍さんと対談した記事が掲載されました。今回の対談は、明治大学国際日本学部のゼミ生に公開の上、実施しました。今村翔吾『塞王の楯』や米澤穂信『黒牢城』など今回も良い候補作が挙がっていますので、ご関心を頂ければ幸いです。

「第166回直木賞展望 直木賞はどの作品に」

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/863131/


 私が推した2作品についての対談用の評は下記です。

今村翔吾『塞王の楯』 さいおうのたて
 近江国穴太で石垣造りを生業とする穴太衆の視点を通して、関ケ原の戦いの前哨戦となった大津城の戦いを描く。戦国時代の中心は関西であり、興味深い人生を送った武将たちの城跡が多く残る。滋賀在住の作家らしく土地の描写が上手い。矛と楯だと、「矛」に重点を置いた歴史小説が多いが、「楯」に着目し、石垣が長い時をかけて物語る歴史に目を向けている。
 親族の女性たちの七光りで出世したため「蛍大名」と言われた京極高次が、家臣や領民の犠牲を避けるために心を砕く優しい側面を持つなど、人物描写に奥行きがある。終盤で描かれる鉄砲や大砲を作る国友衆との「矛楯合戦」は、小説らしい「イリュージョン」と言える表現で、見事という他ない。
 籠城戦に注目した二作品が候補になったのは、新型コロナ禍で自宅への「籠城」を強いられてきた世相に符合しているように思える。

米澤穂信『黒牢城』 こくろうじょう
 織田信長に謀反した戦国時代の大名・荒木村重の有岡城の戦い描く。尼崎の北、兵庫県伊丹市が舞台。ミステリー仕立てのエピソードを通して、死の気配が漂う戦乱の世を様々な角度から描く。名探偵役として有岡城に捕えられた黒田官兵衛を登場させ、信長に攻められ将兵が次々と寝返っていく「心理戦」が展開される。
 若き侍の謎めいた死をめぐる詮議、戦から首実検に至る城内の駆け引き、村重や官兵衛の秘めた思いも巧みにミステリー化している。「人は城」という言葉が、様々な思惑が交錯する籠城戦を通して血肉化されている。信長の逆を為すことを決めた村重の「治者」らしい内面描写が面白く、登場人物の多彩さ、道具立て、物語の構築の上手さ、戦国時代の大名の「宿命」の動きも上手く捉えられている。
 黒田官兵衛の息子で福岡藩の初代藩主・長政も、幼名の松寿丸として登場する。黒田父子の結び付きの深さと、その後の福岡の街の繁栄をもたらした史実が、終盤にかけて浮き彫りにされていて、面白い。


2022/01/16

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第191回 高樹のぶ子『マイマイ新子』

 「現代ブンガク風土記」(第191回 2022年1月16日)では、高樹のぶ子の自伝的な代表作『マイマイ新子』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「子供の感情通し描く『戦後』」です。

 子供の感情(大人が抱く子供のような感情も含む)は現代文学や現代思想にとって重要なものです。例えばドゥルーズ=ガタリが『アンチ・オイディプス』で、幼児性と資本主義社会の関係について、ベケットの遊戯的な短編や、アルトーの「器官なき身体」や、フロイトの「口唇期」の概念を引きながら、現代小説のような対話(哲学)を展開しました。ただ、生身の存在者である「私」を括弧に入れ、双数的に「私」と社会を地続きにとらえるポスト構造主義的な手法には限界もあります(この手法を先どった良作としてジョイスの『若い芸術家の肖像』などもありますが)。高樹のぶ子は自伝的な物語と歴史性を程よく融合し、長く読まれ得る「寓話」として本作を成立させています。

『マイマイ新子』はかつて周防の国の都だった国衙(現・山口県防府市)を舞台に、9歳の新子の成長を描いた作品です。北に多々良の山を擁し、南に穏やかな瀬戸内海を有する国衙には史跡が残り、かつて都だった時代の繫栄の跡が残ります。小説で描かれる時代は「もはや戦後ではない」と言われた昭和30年で、洞穴で暮らす満州帰りの傷痍軍人の生活や、ガダルカナル島から戻って来た遺骨、原爆症を患う叔母の姿など、戦争の影が社会の隅々に色濃く残っています。出来たばかりの広島の平和記念資料館、空手チョップに「冒険王」「鞍馬天狗」など、当時の社会風俗を感じさせる描写も読み所です。

 この作品は日本版の「赤毛のアン」を企図して書かれた作品らしいです。被爆した広島を訪れた新子が「戦争が悪いって言うけど、原爆落としたのはアメリカだし、どうしてみんな、アメリカに文句を言わないんだろう」と子供らしく思う一節が、当時の大人たちが押し殺してきた思いを代弁しています。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/862280/

高樹のぶ子『マイマイ新子』あらすじ

 昭和三十年の時代を背景に、著者の分身である9歳の新子の成長を描く。周防の国衙で生まれ育った新子は、単身赴任の大学教員の父を持ち、祖父母と母親の長子、妹の光子と暮らしている。戦争を経験し、復興の途上にある日本を逞しく生きる人々の姿を、子どもの視点を通して描いた高樹のぶ子の代表作。

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  新型コロナ禍ですが、「研究活動のリハビリ」のため、先週は広島に滞在していました。個人的な意見ですが、新型コロナ禍であっても、平和記念資料館は閉めないでほしかったです(近年は毎年来ていますが、リニューアルされた展示を、少人数でじっくり見るいい機会だったと考えることもできます)。長崎も含めて原爆資料館は「元旦も閉めない」というのが基本方針です。

 今週は火曜にも西田藍さんとの直木賞対談の記事が出ます(とても楽しい対談でした)。先日受けた取材記事は、来週の月曜の掲載予定です。

 あと西日本新聞とも関係の深い、東京新聞の連載:吉田戦車「かわうそセブン」が、新型コロナ禍で「伝染るんです。」の続編というお洒落な企画で、楽しんで読んでいます。かわうそがSDGsを皮肉る回など、ビゴーのように、時事的な風刺の効いた回が面白いです。

2022/01/10

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第190回 森博嗣『工学部・水柿助教授の日常』

  本年もよろしくお願いいたします。引き続き毎週日曜日に、西日本新聞朝刊とオンライン版で現代日本を代表する著者の小説について論じていきます。今週の「現代ブンガク風土記」(第190回 2022年1月9日)では、森博嗣『工学部・水柿助教授の日常』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「理工大描くミステリ私小説」です。

 森博嗣は『スカイ・クロラ』などの作品で売れっ子となりましたが、名古屋大学工学部で「生コン」の研究を行い、助教授のまま作家となった異色の経歴を持ちます。本作は、森博嗣の「私小説」と言える自伝的な作品で、森の分身と言える「水柿君」が三重大学と思しき大学の助手に採用され、名古屋大学と思しき大学の工学部に助教授として赴任する30代前半までを描いています。

 ミステリ小説に登場する饒舌な探偵について「犯人なんかよりもずっと不自然ではないか」などと批判している点も森博嗣らしくて面白いです。筒井康隆の『文学部唯野教授』や奥泉光の『桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活』のように、大学の世界の裏側を描いた系譜の小説です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/858949/

森博嗣『工学部・水柿助教授の日常』あらすじ

 のちに作家となった、33歳のN大学工学部助教授・水柿小次郎の日常を描いた作品。「奈良の大仏が立ち上がって近鉄電車で通っているのではないか」と思わせる妙な先輩のエピソードなど、風変わりな理系の研究者を描く。ミステリ小説とは何かを考えさせる森博嗣の自伝的小説。

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 年のはじめに米国のメディア分析を少々。日本ではオミクロン株への不安が高まっていますが、アメリカではフットボールシーズンの真っ只中です。NCAAのOrange BowlやCotton Bowl、NFLのSuper Bowlを視野に入れた終盤戦が、(寒い中)8万人規模のスタジアムを満員にして行われています。年末のNew York Timesの国際版に「Colleges fear a mental health crisis」という記事が掲載されていましたが、大学教員として悲しくなる記事で、下のオンライン版の写真の「YOU don't have to be perfect to be AMAZING」という言葉が印象に残ります。マーチングバンドの音楽や観客の声援と共にBowl Gamesで躍動する学生たちの姿は、新型コロナ禍で孤独を感じている他の学生たちの心の支えになったと思います(客席のマスク着用は義務付けてほしいですが)。

https://www.nytimes.com/2021/12/22/us/covid-college-mental-health-suicide.html

 こういう状況下で行われたBowl Gamesについて、相対的に安全な側から分かりやすい批判をすることは容易です。ただNCAAやNFLはその程度の批判は織り込んでるわけで、各大学がキャンパスを有する、地域に根差したフットボール文化を守り、「コミュニティを回す」ことを優先し、学生を勇気付けることを優先したわけです。日本のメディア(翻訳報道も含む)がアメリカの大衆文化が反映する価値観をフォローできていない点については、2016年に中西部に2週間ほど滞在し、トランプの当選を事前予想した「新潮45」の原稿でも書きました。トランプの支持・不支持に関係なく「悪を引き受けて大義を成す」ことを選好したがる価値観が「他者としてのアメリカ」にあることが、日本ではほとんど理解されていません。アメリカに限らず、良い意味では山本周五郎の名作『樅ノ木は残った』や江藤淳の『成熟と喪失』にも通じる価値観です。

 新型コロナ禍で、日本でもメンタルの不調に起因する(と思われる)事件が頻発しています。しかし当事者をコミュニティに包摂し、痛ましい事件を未然に防ぐ方途に関する議論は脆弱で、「現場任せの対応」か「お役所対応」に留まっているのが現状です。私は1996年に、当時としては珍しかった臨床心理学を専攻できる学科に入学していますが(卒業は社会系)、臨床心理学者の東畑開人さんが書かれているとおり、「心の問題」は平成年間を通して一般にほとんど理解されず(その兆候が看過され続け)、新型コロナ禍の時代に深刻化したという印象が拭えません。

 近年はプロのフットボールの世界でもカレッジ時代に、精神的に苦労し、その後飛躍したQBの活躍が顕著です。ドラフト6巡199番目から這い上がり、20年近くトップ選手として踏ん張っている、同い年のトム・ブレディや、Ohio StateでスターターになれずLSUに転校して全勝優勝し、ドラフト1巡1位で入団したジョー・バロウ、ADHDを克服し、マイナーなブリガム・ヤング大(BYU)から、NYJにドラフト1巡2位の評価を受けたザック・ウィルソンなど、努力して才能を開花させたQBの繊細なプレイが光ります。

 個人的にオールタイムで最も好きなQBはスティーブ・ヤング(ブリガム・ヤングの子孫で、クイズ番組でも難問を即答するなど、瞬時の判断に秀でる)で、BYU=モルモン教系のQBの「修業感」のある我慢強いフットボールが好みです。ヤングは長い間、ジョー・モンタナの控えでしたが、彼のキャリアに目を向けると、どんな状況下でもプロとしての矜持を保ち、どのチーム・コーチの下でも通用する力を磨くことの重要性を教えてくれます。BYUはアメリカの大学で突出して学費が安い大学としても有名です。

 BYUといえば、モルモン教の首都=ソルトレイクシティを起点とした「ブック・オブ・モルモン」が近年のトニー賞で一番面白かったです。5年ぐらい前にソルトレイクに立ち寄った時、空港のレンタカー屋の受付のマダムに、この作品とスティーブ・ヤングのBYU時代の話をしたら、トヨタのYarisをFordの高級SUVに無料アップグレードしてくれたのが、いい思い出です。禁欲的な現代のモルモン教への批判は色々ありますが、米国の6大宗派ながら公然と原爆投下を批判していますし(ユタ州はトリニティ実験が行われたニューメキシコ州に近い)、ソルトレイクシティは街中でも路上生活者に優しく声をかけたり、食べ物や小銭を渡す人が多く、クリスチャンが多い長崎やナポリに雰囲気が似ています。

「ソーシャル・ディスタンス」という言葉が未だに使われ、紋切り型の正義が日本的な価値観やメディア報道に根差していますが、「コミュニティを回す」「埋もれた才能を引き出す」という観点からは不味い部分が多いと思います。新型コロナ禍が続いていますが、不確かな情報や極端な意見、他人や自身の「盛られた自己像」に踊らされず、また炎上やクレーム、キャンセル・カルチャー、マウンティングなど、「村社会的ないじめの変種」に加担して溜飲を下げるのでもなく、オープンなマインドで「コミュニティを回す」ことを心がけたいものです。この点は今週の新聞取材でも触れます。「(時間性を伴う)配慮的な気遣い(ハイデガー)」を忘れないようにしたいものです。

 今週は秋学期の教育活動の締めくくりとして、西日本新聞の直木賞対談(西田藍さんとの対談)を、学生に公開の上、明治大学中野キャンパスで実施します。今回の直木賞の候補作にも、出版不況を潜り抜けてきた、実力ある書き手の光る作品があります。