2021/07/26

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第168回 乗代雄介『旅する練習』

 「現代ブンガク風土記」(第168回 2021年7月25日)は、乗代雄介の三島由紀夫賞受賞作『旅する練習』を取り上げています。表題は「ポスト・コロナの「鹿島立ち」」です。写真はカシマスタジアムを走る「サッカーの神様」ジーコの写真を採用頂きました。

 長崎でサッカーを6年間やっていたこともあり、Jリーグ開幕の頃を思い出し、この小説が所々で描く「鹿島の神としてのジーコ神話」を懐かしさと共に味わいました。アルゼンチン出身のマラドーナがSSCナポリで「神」となったように、クラブチームの英雄は国境を越えて「神」となりますね。

『旅する練習』は安孫子市から利根川に沿って、ドリブルやリフティングなどサッカーの練習をしながら、鹿島神宮へ向かう、作家の私とその姪っ子の亜美の旅路を描いた作品です。新型コロナウイルスの感染拡大を背景とした作品で、小学校の休校期間を利用して二人は、鹿島の合宿所に文庫本を返すという名目で徒歩旅行へ出ます。

 鹿嶋市は工業地帯ということもあり、全国から移住してきた工場労働者とその家族の結束を強めるために、サッカーを推奨してきた歴史を持ちます。NFLのピッツバーグ・スティーラーズが鉄鋼業の町を本拠地として、労働者の熱烈な支持を得たのと同様に、鹿島アントラーズは、日本製鉄の拠点である鹿島臨海工業地帯で働く人々に熱狂的に愛されるチームとなりました。ポルトガル語で「やせっぽち」を意味する「ジーコ」が鹿島の英雄となるに至る物語は、神話のような趣があり、不在の神と対話するように綴られる利根川沿いの風景描写にも味わいがある作品です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/775356/

乗代雄介『旅する練習』あらすじ

 中学受験をしたサッカー少女の亜美と作家の私の安孫子から鹿島神宮への旅路を描く。利根川沿いで出会った大学生のみどりとの近すぎず、遠すぎない距離の交流を通して、旅する理由について考えさせる。鹿島アントラーズのホームタウンであることを誇る看板が見えるまでに、3人がいかに心の成長を遂げていくのか。第34回三島由紀夫賞受賞作。


2021/07/19

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第167回 佐藤究『テスカトリポカ』

 「現代ブンガク風土記」(第167回 2021年7月18日)は、佐藤究の第165回直木賞受賞作『テスカトリポカ』を取り上げています。表題は「増える移民 川崎の新現実」です。西田藍さんとの対談「第165回直木賞展望 直木賞はどの作品に」でも時間をかけて議論した作品です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/770167/

 前作の『Ank:a mirroring ape』(吉川英治文学新人賞・大藪春彦賞)も人間の「原始の本能」である「ミラーリング」に着目し、「京都暴動」を描いたいい作品でしたが、やや純文学色(とゾンビ系小説色)が強めだったので、世界的な視野とエンターテイメント性が増した本作が直木賞に相応しいと感じました。

『テスカトリポカ』は「いつまで待っても国連軍が介入してこないようなタイプ」のマフィアやヤクザや半グレたちの現代的な抗争を描いた作品です。コカインや「氷」の俗称で知られるメタンフェタミン(ヒロポン)の密輸や臓器売買に着目しつつ、国際的なスケールで表現することに成功しています。小説の中心に据えられるのは、川崎市で生まれ育った土方コシモの成長物語で、作中に度々登場する「川崎市民の歌(好きです かわさき 愛の街)」の歌詞が、血に塗れた抗争と対照的で味わい深いです。

 本作は海外からの移民が増えた川崎の新しい現実感を、メキシコ系日本人のコシモが成長していく姿を通して描いた、山本周五郎賞と直木三十五賞のW受賞に相応しい大作だと思います。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/772239/

佐藤究『テスカトリポカ』あらすじ

 メキシコの麻薬カルテル「ロス・カサソラス」の幹部・バルミロと、ジャカルタの臓器密売コーディーネーター・末永は、川崎を拠点として臓器売買のビジネスに着手する。川崎のヤクザや東京の半グレ組織に対抗すべく、川崎の自動車解体場で、メキシコの流儀で殺し屋が育成され、川崎生まれでメキシコ人の母を持つ土方コシモは、父と慕うバルミロに見出され、その才能を開花させていく。


2021/07/14

第165回直木賞対談

第165回直木賞の候補作に関する西田藍さん(文芸アイドル、書評家)との対談を、西日本新聞の朝刊とオンライン版にご掲載頂きました。今回も良い候補作が挙がっていますので、お時間のある時にでもご一読を頂ければ幸いです。

「第165回直木賞展望 直木賞はどの作品に」

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/770167/



2021/07/12

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第166回 筒井康隆『文学部唯野教授』

  「現代ブンガク風土記」(第166回 2021年7月11日)は、筒井康隆の『文学部唯野教授』を取り上げています。今週は直木賞予想の対談も、西日本新聞に掲載予定です。

 表題は「文芸批評が「花形」だった時代」です。早治大学、立智大学、明教大学など実在の大学を想起させる場所を舞台にした、唯野教授を主人公とする「アカデミック・コメディ」です。作中に江戸川公園が登場するため、作品の舞台は早稲田大学に近いのかも知れません。

 唯野教授の現代批評論の小説内講義も楽しめます。内容は英国の批評家テリー・イーグルトンの『文学とは何か』を下地にしたもので、唯野がジョークを交えて説明する「構造主義」や「ポスト構造主義」の講義は、分かりやすくて面白いです。1980年代に流行した学際的な思想潮流=ニューアカデミズムから、文学に関するものをピックアップして、嚙み砕いて説明した「文芸批評入門書」のような風情です。

 1990年に発表された本作は「ニューアカ・ブーム」の後押しもあり、純文学作品としては異例とも言える50万部超えのベストセラーとなりました。猫の例を用いた唯野教授の「記号論」の論争まで起こったことを考えれば、思想や批評に関心を持つ人の多い時代だったのだと思います。文芸批評に関する講義が、大学の文系学部の「花形」だった時代の記憶を現代に伝える筒井康隆らしい「歴史小説」です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/768766/


筒井康隆『文学部唯野教授』あらすじ

 早治大学の文学部で教鞭を執る唯野教授が、大学内の政争に塗れながら、匿名で小説を執筆し、非常勤で働く立智大学で、自分が好きな文芸批評の講義を行う日々を描く。大学の権力と文壇の権力の構造を暴いたスキャンダラスな小説。フランス語にも翻訳され、「ルモンド」や「リベラシオン」で紹介され、筒井康隆の文化勲章(シュバリエ賞)の受賞に繋がった作品。



2021/07/05

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第165回 金原ひとみ『fishy』

 「現代ブンガク風土記」(第165回 2021年7月4日)は、金原ひとみ『fishy』を取り上げています。表題は「「男性社会」から自由な恋愛」です。前便のとおり、本連載は事前に協議の上ピックアップした現代小説に対する批評文ですので(掲載順やその可否、タイトルについてもご担当のデスクによる判断ですので)、特定のトピックに対する個人的な見解を代弁するものではありません。念のため。政治や社会などの個別の問題がどうであれ、普遍的に存在する文学的な問題について論じた批評文です。

 金原ひとみは男女の間に生じる感情の食い違いを、ユーモラスな情感と共に表現するのが上手い作家だと思います。本作は銀座に近い有楽町駅と、ビジネス街として知られる新橋駅の間にある銀座コリドー通りで酒を酌み交わす「fishy(胡散くさそう)」な女性三人の恋心を、心の底から抉り取るように描いています。写真は数か月前に私が撮った銀座のコリドー通りのものです。

 3人は互いに本音で批判をぶつけ合う酒飲み仲間で、定期的にコリドー通りに繰り出しては、世の中の男たちに翻弄されないための「同盟」のような関係を育んでいきます。3人の女性たちの異なる恋愛観や人生観が、酒気を帯びた遠慮のない会話を通して浮き彫りにされる展開が面白いです。この作品はレイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』のように、酒場で親しくなった人々の儚い友情とハードボイルドな人生を浮き彫りにすることに成功しています。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/765232/

金原ひとみ『fishy』あらすじ

 子育てをしながら出版社で編集者として働く弓子。フリーのインテリアデザイナーとして事務所を構える既婚者のユリ。元々は小説家志望でライターの仕事を続ける、独身者の美玖。飲み友達の関係にあった三人は、不倫や離婚、家事の分担やセックスレスなど男女間に生じる様々な問題について語り合ううちに、内に抱える闇を互いに晒していく。