2018/01/29

映画監督・沢島忠

東映の全盛期を支えた映画監督、沢島忠が91歳で亡くなった。沢島の映画はスピード感があり、ダイナミックな展開に時代を描く深みがあった。私は黒澤明や小津安二郎と並べても遜色ない、戦後日本を代表する映画監督の一人だったと思う。

沢島の代表作として中村錦之助や美空ひばりの初期の映画が紹介されることが多い。しかし私にとっては何と言っても鶴田浩二、佐久間良子の『人生劇場』シリーズである。
特に、後に『仁義なき戦い』シリーズで世に知られる笠原和夫が脚本を書いた『人生劇場 新飛車角』(1964年)が素晴らしい。

この作品は戦中・戦後の平仮名の「やくざ」を巡る状況の変化を描いた作品として出色であり、尾崎士郎の原作を切り詰め、映画らしい表現へと昇華させている。

『人生劇場 新飛車角』は未だにDVD化されていないが、戦後日本を代表する映画として、私は「メディア史」に関する授業で必ずVHSで取り上げている。
冒頭の戦中のシーンからラストの戦後の荒廃まで、スピーディーな展開は見事という他なく、鶴田や佐久間の視線で、時代の奔流をその渦中で描いていく。

鶴田浩二、佐久間良子もこの時期が役者として全盛期だろう。未だ映画がメディア産業の中心だった時代に、才能ある監督と脚本家と役者が、三位一体で築いた不屈の名作である。

脚本家の笠原和夫の脚本については、以前に扶桑社のen-taxiに、「実録・共産党」と『日本暗殺秘録』について解説を書いた。
笠原は『仁義なき戦い』のようなヤクザ映画の脚本家として広く世に知られるが、『人生劇場 新飛車角』や『日本暗殺秘録』のような戦前・戦後を舞台にした庶民目線の作品にも深い味わいがある。
https://makotsky.blogspot.jp/2009/10/blog-post.html

沢島忠監督の『人生劇場 新飛車角』は、笠原和夫を育てた作品であったと思う。この一作を観るだけでも、沢島の映画監督としての資質の高さと、笠原の映画脚本家としての輝く才能が感じられる。

沢島忠は1970年代に入ると、ほとんど映画を撮る機会に恵まれず、舞台を中心としたキャリアとなる。最後の監督作が1977年の『巨人軍物語 進め!!栄光へ』で、主演が王貞治、長島茂雄である。

才能溢れるこの監督の作品をもっと観たかった、というのが訃報を聞いて、真っ先に思い浮かぶ感想である。特に晩年に計画していたという沢島版の「忠臣蔵」を観たかった。

才能ある人をフェアに評価する批評が、まともに機能してほしいと思う今日この頃である。



2018/01/22

西部邁先生の思い出

西部邁先生の訃報に実感が湧かない。入水された多摩川の水の冷たさが、先生の酒場での暖かな雰囲気に似つかわしくないと思う。身近な人のことを深く思い遣る方だったので、先生なりの考えと強い決意を持って入水されたのだと思う。しかし、それにしても、と思ってしまう。

西部先生と最後にお会いしたのは、15年近くも前の大学院生の頃である。大学院でお世話になっていた福田和也先生のお供で「発言者」の対談を見学させてもらい、その後、ゴールデン街の店に連れて行って頂くのが常だった。

「発言者」の対談で、西部先生は自分の言いたいことを言うという感じではなかった。「発言者」という雑誌を通して西部先生は、持論を世に広めたいというよりは、福田和也や佐伯啓思、スガ秀実など脂の乗った一流の書き手と議論することを、心から楽しんでいるように見えた。

いわゆる保守の論客のイメージは、お会いした西部先生の姿にはそれほど感じられなかった。父権的な強さよりも、父権的な優しさの方が際立って見えた。「三国志」に出てくる武将のようだ、と思った。

政治的には反米保守、経済的にはアンチ新自由主義で、ケインズ主義者、社会的には、家族関係に根ざしたコミュニティ支持者、という印象で、右翼・左翼という区分で言えば、双方の思想性を包含する立場の方だった。

最初に西部邁先生にお会いしたのは、早稲田大学の4年生の時である。私は4年の春学期に慶應大学の大学院への進学が決まっていたので、福田先生の授業を聴講していた。
1999年のことで、この年の夏に、江藤淳先生は66歳で自裁された。西部先生が今回の入水に際して、江藤先生のことを考えなかった、ということはないと思う。

この年に初めて受けた福田和也先生の授業は、厳しいものだった。一コマの授業で毎週、数冊の本を読み、長々としたレジュメを書かないと、出席すら認められない。授業が進むに連れて履修者がどんどん減っていく。本を読まずに出席した学生を怒鳴って教室から追い出している福田先生の姿が、昨日のことのように目に浮かぶ。福田先生も40歳前後でカロリーが高く、若かった。この年の授業が、その後の大学院時代の授業の標準となった。

学期の後半になると、学生が教室に寄りつかなくなり、授業はほとんどマンツーマンになっていた。その頃にようやく私は名前を覚えられ、「西部邁先生のゲスト講義に来ないか?」と声を掛けられた。宗教の勧誘のようだ、と思った。

当時、私はポストモダン思想にかぶれ、生意気だった。私はいつものノリで、西部先生の道徳のあり方や戦後日本についての意見に、柄谷行人の著作を引きながら、反論してしまった。その結果、私は飲み会の時間めいっぱい、他の学生のことなどお構いなしで論駁され、人生の厳しさを思い知らされた。

福田先生はその論駁を、ニヤニヤしながら、見て見ぬふりをしていた。性根の悪そうな人だと思った。飲み会の終わり際に、「初戦としてはよかったんじゃない」と脂の乗った顔で笑っていた。何が「初戦」なのか、その時はよく分からなかった。

当時、私は茶髪で、柄谷行人に限らず、ポスト構造主義の哲学書や福田和也や宮台真司の著作を好んで読んでいた。おそらく外見の上でも、思想の上でも、西部先生にとって私は格好の「酒のつまみ」だったのだと思う。西部先生は茶髪が嫌いで、地に足の着かない、ポストモダン風の概念を振り回す議論が嫌いだった。

しかし西部先生は、一度論駁した相手に優しかった。見込みがあるから論駁するんだ、とも言ってくださった。先生は私のようなただの大学院生に対しても礼儀正しく、高圧的ではなかった。東大出身で、東大でも教鞭を執っていたのに、それを鼻に掛けるようなことがなかった。60年安保闘争の中心にいた方なのに、学生運動を美化し、自慢するようなこともなかった。

ゴールデン街の店でも、個人レッスンをするように、「なあ、酒井君、『良識』とは何か考えているか」という具合に、議論の相手になってくださった。同じことが大学教員となった今、私が若い院生に対してできるかと言えば、全く自信がない。私が地方出身だったこともあってか、生まれ育った北海道でのご苦労について多く話してくださった。

その後、中野の方で定期的に開催されていた「発言者」の勉強会にお声がけを頂いた。この頃、私は一人で本を読む方が好きだったので、勉強会には数回しか出席しなかった。ただこの頃の西部先生の話は、大衆社会の批判や、ポピュリズムの批判を中心とした「治者の哲学」とでも言えるもので、IT革命以後の時代でも色褪せない、思想的な深みが感じられた。

後期博士課程に進む時、西部先生から推薦状を頂いた。しかしその後、些細なことで、西部先生と福田先生の間に溝ができてしまい、それが修復されないまま時間が流れてしまった。その後、書評などで二人の間にはやり取りはあったと思うが、溝が埋まっていたのかどうか、私はよく分からない。長い時間、対談や酒席を共にした二人にとっては、その溝はいつでも容易に飛び越えられる程度のものだったのかも知れない。

その後、私は論壇誌や文芸誌に原稿を書くようになったが、西部先生とお会いする機会には恵まれなかった。2007年から3年間、西部先生が学頭を務める秀明大学で、「メディア論」と「情報社会論」を担当させて頂いた。西部先生の弟子筋の安岡直先生にお気遣いや励ましを頂いた。当時、私は任期制の助教で、共同通信とのニュース解析の研究が慌ただしく、週に1日、秀明大学に授業に行くのは、いい気分転換だった。
この時も西部先生とお会いする機会はなかったが、間接的な形でお気遣いを頂いていたのだと思う。

私にとって西部邁先生の記憶は15年前で止まったままである。西部先生の訃報に接しても「『死』とはね、つまりこういうことなんですよ、酒井君・・」といつもの調子の話を、またどこかで聞けるような気がしてしまう。福田先生がよく、「西部先生ほど、話すのが上手く、頭脳明晰な方にお会いしたことはない」と言っていたが、その通りだったと思う。

西部先生は社交的な方だったので、弟子筋の方々や酒席を共にされた方々は数多くいらっしゃると思う。著作も多岐にわたり、『知性の構造』や『ケインズ』などの著作は、これからもっと再評価がなされると思う。

ただ私にとって西部邁先生の思想は、「発言者」の終わり頃、9・11以後の対テロ戦争の時代に、西部事務所で見学した、当時の脂の乗った書き手達との、左右の思想が入り交じった、快活なやり取りの中にこそある。幅広い知見を網羅した議論に接し、「知識人」と呼ばれる人々が、確かに存在するのだと実地で学んだ。


『テロルと国家』福田和也、佐伯啓思、スガ秀実、西部邁著 2002年・・左右の主義・信条を超えた豪華メンバーによる共著。

西部邁先生のご冥福を心よりお祈りいたします。

2018/01/04

ニューメキシコ州とコロラド州でのフィールドワーク

年末に「負の歴史遺産」の実地調査の一環で、アメリカ大陸の先住民の遺跡に関するフィールドワークを、ニューメキシコ州とコロラド州で行ってきました。個人的には、比較文化論への関心が高いので、こういうフィールドワークが研究活動で一番楽しいです。

日本では、インディアンではなく、ネイティブ・アメリカンという言葉が使われる傾向にありますが、厳密に言うとネイティブ・アメリカンという言葉には、アラスカ・エスキモーやハワイ、サモアなどの先住民も含まれます。アメリカで「インディアン」という名称はそれほど差別的なものではなく、むしろ先住民の一定の部族を指す名称として、一般的に使われています。

今回私が訪れたのは、世界文化遺産にも登録されている下の3箇所です。何れもデンバーやアルバカーキといった大きめの街から、車で半日ぐらいかけて移動しないと辿り着かない場所にあります。そういう交通の便の悪さも、途中の自然を楽しむと思えば、心地よく、ここ最近、ロッキー山脈周辺の町が魅力的なので、その歴史について調べるのに、はまりつつあります。

そういう中で最初に向かったのは、西暦1000前後の遺跡が点在し、広大な公園内を、車で見て回る感じのChaco Culture国立歴史公園。



ここのアクセスが一番大変で、途中で道路が雨で流されて途切れている感じのところがあり、タイヤが砂に沈んで車が前に進まなかったときは、少し焦りました。

とはいえ、そういう交通の便の悪さは、手つかずの自然が保全されていることの裏返しでもあるので、先住民の遺跡がナチュラルに展示されている雰囲気を楽しむことができました。

次に向かったのはSanta Fe近くの同時期にプエブロ部族が建設した集落Taos Puebloです。
先住民のアパートという感じの建物で、土と木と水で作ったことを考えれば、高度な建築と言えると思います。メキシコシティの展示に、「アメリカ大陸の先住民は、メキシコシティ近辺まで辿り着いて高度な文明を築いた」といった内容の説明がありましたが、それはメキシコ贔屓というもので、プエブロ文化の遺跡を見る限り、ニューメキシコ州のプエブロの先住民の文明も、だいぶ高度なものであることが分かります。

Taos Puebloでは現在も先住民が住みながら補修し、現地の素材を継ぎ足しながら、往時の集落の面影を保全しています。こういう今でも人が住んで手入れしている感じの遺跡は、居心地がいいです。

最後に向かったのがMesa Verde国立公園です。ここも敷地がとんでもなく広く、入り口から崖の下に作られた遺跡まで、車で1時間ぐらいかかりました。
現地の白人のおばさんがプエブロの人たちを、「バスケット・メーカー」という呼び方をしていたのが印象的でした。実際にプエブロの籠作りも有名で、お土産が売っていたりしたのですが、1000年前後のプエブロ文化はそれよりも発達したものだったようです。ガイドへの質疑応答で、普通に話していると感じの良い年配の白人の方が、先住民に関しては、よく聞くと差別的なことを言ってたりして、驚かされました。


あとアメリカの田舎を車で走って改めて面白いと思ったのは、車検がないので色々な車が走っていることでした。
ニューメキシコ州でも車のホイールに50センチぐらいの棘の突き出た車が走ってるのを見かけたのですが、完全にマッド・マックスの世界です。
ただそういう運転手も、通りすがりに「面白い車だねー」とか言うと、「どういたしましてー楽しんでねー」という感じで、笑いながら汽笛のようなクラクションを鳴らしてくれます。
こういうサービス精神の良さに触れると、やっぱアメリカの田舎は感じいいなあ、と思ってしまいます。確実にトランプに投票してそうな人たちだけど。

先住民の人々も、外見がアジアの人々と相対的に近いこともあってか、概して優しく、こちらの細かな質問にも長々と丁寧に答えてくれて、助かりました。

近年、ゲノム調査でY染色体を調べてルーツを探る、といった研究が盛んで、本になったものも面白く、私も科学的な文明論と言語グループの関係について、関心を持っているのですが、
その一方でバーガー食べて、巨大なサイズのコーラやビール飲んで、燃費の悪い面白い車に乗って、週末にフットボール観るみたいな生活は、アメリカの田舎で見る限り、どのルーツのアメリカ人も「概ね同じ」という感じで、そういう均質さを促す現代文明の力の方も、面白なあと思います。