2021/12/20

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第189回 吉田修一『犯罪小説集』

 「現代ブンガク風土記」(第189回 2021年12月19日)では、綾野剛主演・瀬々敬久監督で映画化された吉田修一『犯罪小説集』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「猟奇的事件絡め迫る人間の闇」です。本作の中の2篇を原作とした映画「楽園」のパンフレットにも解説を寄稿しています。上白石萌音さんが歌う「楽園」の主題歌「一縷」も、小説の内容に相応しい素晴らしい楽曲(作詞・作曲: 野田洋次郎さん)です。昔の阿久悠作詞の歌や、中島みゆきやさだまさしの曲など、昭和歌謡(後期)のピーク時のような風格が感じられます。映画もKADOKAWAらしい良作です。

映画「楽園」解説/現代日本を生きる私たちの「こころ」の行く末を問いかける

https://makotsky.blogspot.com/2019/10/blog-post.html

『犯罪小説集』は日本の地方都市を主な舞台とした5つの犯罪事件を、事件そのものというよりは、そのプロセスを関係する人々の内面を通して描いた短編集です。

「青田Y字路」は、北関東連続幼女誘拐事件を想起させる内容ですが、この作品は、誘拐事件を描いたものというよりは、不確かな噂に振り回される人々を描いた作品だと言えます。警察の誤認捜査の結果、風評被害が拡がる「冤罪事件≒大人のいじめ」を描いた作品と考えることもできます。

「曼珠姫午睡」は、同級生の英里子の立場から、ゆう子が関与した「保険金殺人事件」を描いた作品です。裕福な家庭で育ち、幼少時から社交的で友達も多く、東京で弁護士の夫と結婚した英里子の人生は、ゆう子と対照的に一見すると幸福なものに思えますが、安全な場所に居ながら「マウントをとりたがる性格」に潜む闇が、ゆう子よりも深いことが徐々に明かされます。

 吉田修一は「犯罪小説集」の各短編を執筆するにあたり、近松門左衛門の作品を参照していたと考えられます。本作でも「曽根崎心中」「国性爺合戦」「女殺油地獄」など近松の代表作のような「五文字のタイトル」が各短編に採用され、ちょっとした感情の行き違いや思い込みが、登場人物たちの人生を一転させる点など、近松作品の核となるモチーフを継承しています。

 本連載は年内はこれが最後で、2022年1月9日より再開します。来年も現代日本を代表する小説を取り上げていきますので、ご関心を頂ければ幸いです。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/849716/

吉田修一『犯罪小説集』あらすじ

 地方都市や田舎町を主な舞台にして起きた「犯罪」を描いた短編集。立場の異なる様々な人物の視点から、事件に至る経緯が描かれる。犯罪を犯した人間と犯罪を犯さなかった人間の間に横たわる「闇」に迫る内容。吉田修一の新たな代表作。

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 2021年12月18日に、立教大学の福嶋亮大先生、神戸市外国語大学の山本昭宏先生にお越し頂き、明大生を前に「文芸批評」に関する充実した内容のゲスト講義を行って頂きました。明治大学より張競先生、伊藤氏貴先生、講談社「群像」の森川さん、文藝春秋「文學界」の長谷川さん、西日本新聞の佐々木さんにもご参加頂き、質疑応答も含め学生たちと共に密度の濃い、有意義な時間を過ごすことができました。

 山本さんのユーモラスな関西弁の講義に旅情と才覚を感じ、福嶋さんの理知的な話し方の講義に思想とビジョンを感じました。雑誌「批評空間」の認識的な枠組みを超えることが共通テーマとしてあり、色々と刺激を受けました。この日の夕方には、特別招聘教授の上野千鶴子先生の講義も開催されていましたので、フェミニズム批評も含め、国際日本学部・国際日本学研究科の学生にとって、批評について考えるいい一日になったのではと思います。

 新型コロナ禍の中、対面のゲスト講義(オンライン中継も実施)にご理解とご協力を頂き、心より感謝申し上げます。今年の最後に、多くの皆さんと対面で文芸批評の将来について考えることができ、嬉しく思いました。

2021/12/14

2021年ゼミ合宿@明治大学・山中セミナーハウス

 明治大学の山中セミナーハウスでゼミ合宿を実施しました。簡単な発表と、近隣の文学館の見学以外は、山中湖の近くを散歩しながら、雑談をするような時間でしたが、オンラインの世界と適度な距離を置き、清らかな空気を吸い、いいコミュニケーションの場ができていたように思います。将来のある学生たちには、心身の健康を第一に、極端な意見や、自己承認欲求が渦巻くSNSなど、オンライン上のコミュニケーションに囚われず、散歩や対面の会話、オフラインの読書に時間を使い、地に足の着いた想像力を育んでほしいと考えています。

 前任先からゼミ合宿では、移動中に学生一人一人と面談するようにしています。「旅」の開放感も手伝ってか、授業前後に聞けないような話や相談ごとを、学生たちから聴取することが多いです。雑談のような助言になりますが、現実の空間で一緒に移動しながら、美しい景色を眺め、談話することそのものに意味があると思っています。定期的に学生たちに取材する感じで、原稿を書く上でも参考になることもあります。

 明治大学のセミナーハウスは安くて利用しやすく、同じタイミングでゼミ合宿を行っていた他の先生方や学生も含めて、暖かい空気に包まれていたように感じました。天候に恵まれ、美しい冬の富士山に、学生たちが感動して写真を多く撮っていました。次の機会がセッティングできれば、院生や交換留学生も含めて、清里か菅平のセミナーハウスを訪れたいと考えています。



2021/12/13

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第188回 熊谷達也『邂逅の森』

 「現代ブンガク風土記」(第187回 2021年12月12日)では、直木賞と山本周五郎賞をダブル受賞した熊谷達也の『邂逅の森』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「漲る野性味 マタギの全盛期描く」です。

 熊やアオシシ、ニホンザルなどの狩猟を生業とし、アイヌ文化との関りも深い「マタギ」の里・秋田県旧荒瀬村で生まれた富治の物語です。胃腸病や婦人病などの万能薬として重宝される「熊の胆」を得るために、マタギたちは命懸けで熊を追っていました。この作品が描く明治~大正の時代には、熊の胆の一匁が米俵二俵と取引され、敷物として毛皮も人気であったため、一冬に一頭の熊を仕留めれば、数家族が冬を越すことができたらしいです。

 日本の山民=狩猟民の先祖とされる伝説上の人物・磐司磐三郎は、東北地方に多くの逸話を残し、マタギの開祖としても知られます。マタギの頭領は伝統を受け継ぎ、山言葉を用いて呪文を唱え、禁忌を守り、危険な熊の猟に臨んでいきます。マタギと熊との命懸けの戦いの場面がリアルで、マタギたちが時に意表を突かれ、時に生きたまま体を食われたり、顔の一部を引き千切られる描写が生々しいです。

 貴重な「熊の胆」をめぐる商取引の現場も、売り手と買い手の駆け引きに緊張感があります。命を懸けて人々が獲った商品が、互いを騙し合うような取引を通して描かれている点に、狩猟の現場とは異なる、商取引の現場らしい緊張感を覚えます。旅マタギの慣習や独自の信仰、夜這いの風習など、近代化の波に晒されながらも東北地方に残存してきた旧習の描写も読み所です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/846011/

熊谷達也『邂逅の森』あらすじ

 秋田県の山奥のマタギの集落に生まれた富治は、名主の一人娘に夜這いを掛けて村を追い出される。鉱山で働く中で成長し、子分の小太郎の実家のある東北の別の村に移り住み、自らマタギの頭領となり、熊狩りに臨む。戦争の時代を背景に、貧しい人々が高価な薬の原料となる「熊の胆」を巡って命を賭ける姿を描く。直木賞と山本周五郎賞を史上初めて同時受賞した大作。

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 本連載は180回分(加筆・修正で約800枚)で単行本化の準備を進めていますが、2022年も平常通り続きます。まだ取り上げていない優れた作品も多く、例えば田辺聖子『ジョゼと虎と魚たち』や米澤穂信『満願』、古井由吉『仮往生伝試文』など、自由度の高い現代的な表現で、土地の風土や訛りを捉えた現代小説について、その内容に踏み込みながら批評していきます。
 以前にも記しましたが、本連載は、政治や社会をめぐる問題がどうであれ、有限な時空間を生きる、不完全な存在者である人間に、普遍的に付きまとう文学的な問題について論じた批評文です。念のため。

2021/12/06

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第187回 佐藤究『Ank: a mirroring ape』

 「現代ブンガク風土記」(第187回 2021年12月5日)では、佐藤究の吉川英治文学新人賞・大藪春彦賞・W受賞作の『Ank: a mirroring ape』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「『京都暴動』描くパニック小説」です。『テスカトリポカ』の直木賞受賞後に入稿した原稿ですが、「パンデミック小説」といえる内容でもあり、オミクロン株の流行が懸念されるタイミングでの掲載となりました。

 人類発生の起源をめぐる科学小説の趣きを持つ長編で、新型コロナウイルスの感染が拡大する以前の京都の「オーバーツーリズム」を風刺した、「知的なゾンビ映画」のような作品です。物語の軸となるのは、嵐山から京都御所、八坂神社まで「モンスター級の観光都市」を舞台に発生した「京都暴動」とAnk(古代エジプト語で「鏡」の意味)をめぐるミステリです。主人公は30代の霊長類研究者の望で、彼がシンガポールの起業家の出資で、AIが再現できない、人間の知性の謎に迫る研究所を立ち上げます。

 佐藤究は純文学出身ということもあり、人間の存在条件に迫る問いを小説に織り込むのが上手い作家です。直木賞の受賞作『テスカトリポカ』では、人間の物質性をアステカ文明の信仰と臓器売買を通して描き、超資本主義社会が持つ呪術性に迫りました。本作では、鏡に映った自己像を自分であると認識する「自己鏡像認識」の能力に着目し、それをAIが持ち得ない謎に迫ります。

「鏡に映っている像が自分」であると認識する能力は、チンパンジー・ボノボ・ゴリラ・オランウータンの4種と人類のみが持つ能力です。鏡や水面に映った自分の像を、自分自身だと認識することで、人間は進化を遂げました。ジャック・ラカンが「鏡像段階」に着目したように自己像の認識は重要なもので、霊長類研究の新しい成果を取り入れた点も面白く、佐藤究らしい人間の無意識に潜む「原ー暴力性」を浮き彫りにした作品と言えます。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/842272/

佐藤究「Ank:a mirroring ape」あらすじ

 世界的な観光地であり、観光客であふれかえる近未来の京都を舞台に「暴動」の謎に迫る小説。現代的な寓話であり、人間発生の起源をめぐる科学小説の趣きを持つ長編。吉川英治文学新人賞と大藪春彦賞をW受賞。


 

2021/11/29

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第186回 一穂ミチ『スモールワールズ』

「現代ブンガク風土記」(第186回 2021年11月27日)では、「金魚の里」として知られる奈良県大和郡山市を舞台にした一穂ミチの『スモールワールズ』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「マイノリティの『実存』」です。2021年7月14日掲載の直木賞予想対談でも次点に挙げた作品です。

 この作品は、ボーイズラブの作家として知られる一穂ミチが記した「マイノリティ」の人々の内面を綴った純文学色の強い短編集と言えます。「大人のいじめ」のような問題を下地として、「不育症」を抱えたファッション・モデルや、暴力事件を引き起こして甲子園行きを帳消しにした元高校球児、乳児の事故死で「虐待」のレッテルを貼られた祖母など、多様な人物が各短編の「実存的な問題(スモールワールズ)」への「問い」を深めていきます。

 冒頭の「ネオンテトラ」に登場する美和は、「大人になったら、好きなところを好きなふうに走れるよ。きみが望まない人とは交差しないようにだって、できるんだから」と、虐待を受けている中学生の笙一を励ましますが、酔った笙一の母親からは「人んちのガキ構ってボランティアのつもり!?善人気取りか?」と厳しく罵倒されます。

「魔王の帰還」は、身長188センチの真央こと「魔王」を姉(27歳)に持つ、元高校球児・鉄二の青春を描いた作品です。堂々たる体格で、公道を歩けば「総合格闘技(地下プロレスだったかも)」のスカウトを受ける魔王は、リアル『進撃の巨人』と噂されながら、奈良の大和郡山をモデルにした場所で暮らしています。訳ありの問題を抱える魔王と、訳ありの暴力事件を引き起こした鉄二と、訳ありの過去を持つ奈々子が、特訓を重ね「金魚すくい選手権」に出場し、自己の人生を見つめ直す展開が、純文学風のスポコン・ドラマのようで味わい深い内容です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/838542/

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 明治大学の授業はシラバス通りですが、次年度より立教大学でも演習を担当する見込みです。1年前まで社会学部で演習と卒論を担当していましたが、縁あって別の学部での担当です。青山学院大学社会情報学部でも集中講義を継続する予定です。東洋英和の大学院の授業は隔年のため、次年度はお休みです。新型コロナ禍が続いていますが、各大学のキャンパスに、学生たちの明るい声の響き=賑わいが戻り、ここ数日の報道でも注目されている通り、「学生たちの心の問題≒スモールワールズ」が、健やかなコミュニケーションを通して、ケアされることを願っています。

 


2021/11/22

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第185回 原田マハ『でーれーガールズ』

 「現代ブンガク風土記」(第185回 2021年11月21日)では、岡山を舞台にした原田マハの『でーれーガールズ』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「『第二の故郷』への郷土愛」です。

「人間は他の哺乳類よりも植物に似ている」と江藤淳は述べています。新型コロナ禍のような有事が起きると、国境や県境を越えた移動に制限がかかるように、私たち人間は他の動物たちと比べても、それほど自由に移動しながら生活しているわけではありません。ただ私たちは転勤や転校、結婚や移住などを通して、時にそれまで縁もゆかりもなかった土地と関り、そこに愛着を抱くことがあります。

 例えば私にとって「第二の故郷」と言える場所があるとすれば、大学院から助教を経て、文教大学勤務まで19年にわたり関りを持った湘南地区になると思います。三田勤務の時期もSFCで授業を担当していたため、長崎で過ごした18年を上回る年数を湘南で過ごした計算になります。海に近い、開放感のある場所に縁があるのだと思います。 現在の職場のある中野については、近辺を含めればそこそこ長く、早稲田の図書館を利用していたこともあり、北新宿を中心に計8年ほど住んでいました。

 原田マハは東京生まれですが、小学校6年生から高校卒業まで岡山市で育ち、1886年創立の名門女子校として知られる山陽女子高校に通っていました。作中では駅前のメインストリート・桃太郎大通りや岡山一の繁華街・表町商店街など土地の描写が多く、「ひさしぶりじゃのう」「よかったのう」「アイスが食べてえんじゃ」など、「昔話に出てくるようなカンペキなジイさん言葉=オーソドックスな岡山弁」がふんだんに織り込まれています。

「桃太郎」や「空を飛んだきつね」など現在の岡山近辺を舞台にした昔話は多いですが、現代小説は珍しく、この土地で育った原田マハらしい作品といえます。岡山市の市街地から後楽園に向かって架かる鶴見橋での出会いと別れが、読後の印象として強く残る作品です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/835181/


原田マハ『でーれーガールズ』あらすじ

 1980年の岡山の白鷺女子高校を舞台にした作品。親の仕事の都合で東京から引っ越してきた佐々岡鮎子は、「でーれー」という岡山弁を無理して使うため「でーれー佐々岡」と呼ばれている。鮎子が創作した空想上の恋人・ヒデホに、親友の武美がだんだん惹かれるようになり、三角関係のような状態となる。岡山の様々な人々との出会いや、淡い恋心が芽生えた淳君との関係も進展していく。岡山で育った原田マハの青春小説の代表作。

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 2021年11月17日に「寄席の爆笑王」と(一部で)呼ばれていた落語家の川柳川柳が90歳で亡くなりました。義太夫節から軍歌、ジャズを声色を変えて表現する話芸は、立川談志も高く評価していました。学生時代に上野の鈴本で「ガーコン」を聞いて、何かしら自分の仕事に「唄」の要素を取り入れたいと思ったものです。古典をやらない落語家で、個人的には「文七元結」「百年目」「らくだ」など、師匠・圓生の大ネタを継いでほしかったのですが、圓生、小さん、三平、談志など、往年の落語家たちのこぼれ話も面白かったです。圓生の後継者として期待され、笑点のメンバーにもなりかけましたが、寄席に埋もれることを良しとした噺家だったと思います。

 最近は、與那覇潤さんより『知性は死なない』(文春文庫)をご恵投頂いたこともあり、解説を書かれている東畑開人さんの本を読みつつ、「平成」を振り返りながら(『平成史』もお勧めです)、学術的(人間科学的)な初心にかえっています。

2021/11/15

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第184回 有川浩『県庁おもてなし課』

  「現代ブンガク風土記」(第184回 2021年11月14日)では、高知生れで海・川・山とワイルドに触れあいながら育った、有川浩のベストセラー作『県庁おもてなし課』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「高知愛爆発の観光エンタメ」です。

「パンダじゃ、パンダを呼ばなぁいかん」と有川浩の父は晩酌をしながら、高知県の観光の将来について語っていたらしいです。本作は「パンダ誘致論」を唱えた伝説の県庁職員・清遠和政が、県庁を退職しながらも観光コンサルタントとして成功したストーリーを下地に、「おもてなし課」を描いています。パンダに頼らずとも、高知には長い海岸線を持つ海があり、「日本最後の清流」と呼ばれる四万十川があり、西日本最高峰の山があります。私も3年おきぐらいに訪れている好きな土地です。

 高知市から車で2時間ほどの場所にある馬路村は、かつて「馬しか通えぬ」と言われた山間の集落でしたが、現在は「ポン酢しょうゆ」をはじめとする加工品で、村おこしの成功例として全国的に知られています。人口千人にも満たない山間の村が、800年前から自生していた柚子をブランド化し、全国に流通させた功績は大きいと思います。個人的には、馬路村のポン酢しか冬の鍋料理にたらす気が起きません。

「県庁おもてなし課」は、売れっ子の作家となった有川浩が、観光大使を務めた経験をもとに、故郷・高知への愛着と県庁への不満の双方を爆発させ、「高知まるごとレジャーランド化構想」を打ち出した、現代を代表する「観光小説」です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/831702/

有川浩『県庁おもてなし課』あらすじ

 有川浩の出身地である高知に実在する「県庁おもてなし課」を舞台にしたフィクション。若手の県庁職員の掛水は、観光特使に就任した高知出身の売れっ子作家・吉門の助言を受けながら、「パンダ誘致論」で県庁を去った観光コンサルタントの清遠と共に、高知の観光行政に一石を投じる。おもてなし課の奮闘努力と共に、掛水とアルバイトから県庁に入った多紀の恋愛劇がひも解かれる。2013年に映画版も公開され、ヒットを記録した。



2021/11/08

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第183回 中村航『トリガール!』

 「現代ブンガク風土記」(第183回 2021年11月7日)では、毎年、琵琶湖で開催される鳥人間コンテストを題材とした『トリガール!』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「琵琶湖舞台に『リケジョ』描く」です。

 遠い昔に鳥類と枝分かれして進化してきた哺乳類の人間は、飛行願望を持っていると言われます。「重力に逆らうってのはさ、本当は神さまに逆らうことなんだ」と作中で表現されているように、飛ぶことは「神」への反逆であり、極めて近代的な営為と言えます。

 近年、サークルや部活動に入らない大学生が増えています。その一方、この小説の主人公・ゆきなのように「自分のしたいことがわからない」と感じている学生は、今も昔も変わらず多いと思います。作中では次のような助言が記されています。「でも、やりたいことなんて、最初はないんじゃないかな。そういうのって後からわかると思うの。きっかけなんて縁だし。楽しそうって思ったら、好奇心に乗っかってやってみるだけだよ」と。

 飛行機を作ったライト兄弟も、飛行船やハンググライダーの発明に触発され、自転車屋の仕事の傍ら「好奇心」で飛行機を作り、大空へ羽ばたきました。「神」への反逆として近代人がはじめた「飛ぶ」という行為はその後、「立体戦」と呼ばれる戦争の惨禍を招きましたが、世界中の人々の国境を越えた自由な移動も可能にしました。

 ライト兄弟の初飛行が1903年、人間が飛行機を発明してまだ120年にも満たないことを考えれば、未だに人間は「飛ぶ」という営為に不慣れなのかも知れません。本作は「鳥人間コンテスト」にパイロットとして出場することになった女子学生・ゆきなと、飛行機の製作に魅了された人力飛行機サークルの仲間たちの青春を描いた現代小説です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/828054/

中村航『トリガール!』あらすじ

 鳥人間コンテストを目指して人力飛行機を作る大学のサークルに入ったゆきなと、個性的な部員たちの交流を描いた青春小説。右も左も男子学生ばかりの機械工学科で、やりたいことを見出せないゆきなが、元パイロットの坂場先輩と琵琶湖の空に飛び立っていくまでの汗と涙の努力を描く。


2021/11/01

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第182回 さだまさし『眉山』

 「現代ブンガク風土記」(第182回 2021年10月31日)では、徳島県を舞台にした数少ない現代小説の一つ、さだまさしの『眉山』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「「タメ、間、情」の人生」です。書籍化にあたり、年内の原稿は夏休みに入稿していますが、今回の原稿は、ぼんやりと年末の「歌の生放送シーズン」を想定した小説でした。ちょうど年末感の出てくる時期の掲載で、良かったと思います。

 さださんのお母さんの喫茶店が長崎の実家の近所だったこともあり、シンガーソングライター・さだまさしの歌と話芸には、幼少期から親しみを感じてきました。洗練された楽曲と、史上最多の単独ライブの経験で磨かれた心地いいトークで、様々な業績を残してこられた、長崎を代表する文化人だと思います。いい曲が多くありますが、個人的には「道化師のソネット」「風に立つライオン」あたりが好きな曲です。

『眉山』は阿波踊りを中心に据え、音楽的な感性を織り込んだ人情噺です。さだまさしの小説は『精霊流し』や『解夏』など映像化された作品も多く、作家としても成功を収めています。本作は文楽や義太夫節を参照しつつ、「踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら踊らにゃ損々」の一節で知られる徳島県民謡「阿波よしこの」を題材としています。

 さだまさしは3歳からはじめたヴァイオリンの才能を評価されて、中学生から長崎を離れ、上京していますが、クラシック音楽で挫折し、帰郷した過去を持ちます。本作で描かれる母・龍子のように苦労を重ね、長崎で結成したバンド「グレープ」で1973年に全国デビューしています。「精霊流し」や「無縁坂」をヒットさせますが、曲が暗いと批判され、ソロになって「雨やどり」や「関白宣言」などの曲をヒットさせます。1980年の「防人の歌」(夏目雅子の助演、笠原和夫脚本の「二百三高地」主題歌)も大ヒットしますが、翌年公開の映画「長江」の製作で30億円近い借金を背負い、自己破産の寸前まで追い込まれてしまいます。

 さだまさしが本格的に小説を書き始めたのは、借金返済の渦中にあった1991年です。声とギターと話芸で、往時の全日本プロレス並みの公演回数を重ね、苦労して借金を完済したさだまさしらしい、人生の喜怒哀楽が感じられる小説です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/824495/

さだまさし『眉山』あらすじ

 徳島の歓楽街で店を切り盛りする母・龍子に育てられた咲子は、余命数か月と宣告された母を看病するために、徳島に戻ってくる。眉山を望む徳島の市街地と阿波踊りの魅力を描きつつ、存在の定かではない父と、母の人生の謎に迫る。人生の底を舐めた経験を持つさだまさしらしい、女性の逞しさを描いた小説。2007年に松嶋菜々子主演で映画化される。

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 先週は前々から寄稿したいと思っていた雑誌の編集部の方より原稿のご依頼を頂き、久しぶりに明るいニュースで、嬉しく感じました。新型コロナ禍の困難な時期に、温かいご配慮を頂き、ご推薦・ご依頼を頂いた編集委員の先生方に、心より感謝申し上げます。

 授業・校務・原稿・書籍など年末まで色々と予定が詰まっていますが、体調に気を配りながら、何とか乗り切っていきたいと思います。

2021/10/25

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第181回 綿矢りさ『生のみ生のままで』

 「現代ブンガク風土記」(第181回 2021年10月24日)では、秋田県湯沢市のリゾート・ホテルなどを舞台にした綿矢りさ『生のみ生のままで』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「同性との「距離」を愛して」です。京都府出身の綿矢りさの作品も、連載初期から取り上げる予定でしたが、第181回での登場となりました。

 互いの彼氏を通して知り合った女性二人の恋愛を描いた作品です。視覚の情報に依存しない文学作品の特徴が生かされ、同性カップルに対する外見上のバイアスを取り払い、「生のみ生のまま」の心情表現を伝える工夫が施されています。逢衣と彩夏の互いを気遣い、すれ違う恋愛劇を通して、異性間の恋愛を前提とした婚姻制度などの社会秩序のあり方が問われ、対人関係や社会的な関係が見直されていきます。

「私は一緒に暮らしてもどうしても姉妹のようにならない自分と彩夏との、性別は同じであっても性質の違いから生まれる距離を愛した」と表現される「距離」を愛する表現が魅力的な現代小説です。

西日本新聞me

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/820894/

綿矢りさ『生のみ生のままで』あらすじ

 秋田の温泉ホテルで彼氏の紹介で出会った女性二人が、様々な障害を乗り越え、相互の欲求に「生のみ生のまま」率直に生きる姿を描く。互いに愛情を深めながら、彩夏は芸能人として成功することを目指し、逢衣は編集者として周囲に必要とされる人間になることを目指す。表現豊かに女性同士の恋愛を描いた綿矢りさの新しい代表作。


2021/10/18

祝・第180回 西日本新聞「現代ブンガク風土記」 池井戸潤『ルーズヴェルト・ゲーム』

 「現代ブンガク風土記」(第180回 2021年10月16日)では、平成不況下の社会人野球に着目した池井戸潤の『ルーズヴェルト・ゲーム』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「社会人野球通じ平成不況描く」です。連載はまだまだ続きますが、現在は本連載の書籍化の作業に着手しています(表紙のイラストにもご期待ください。詳細は後日)。

 大谷翔平の父・大谷徹は、岩手県生まれの野球選手で、三菱重工横浜の社会人野球チームで主に1、2番を打つ外野手として5年ほどプレーしています。同社でバドミントン部に所属していた後に翔平の母となる加代子と出会い、その後、地元・岩手県の会社に転職してリトルリーグの監督を務めながら、翔平を含む三人の子供を育てています。「二刀流」の選手としてメジャーリーグで活躍する大谷翔平が、走塁にも強いこだわりを持ち、時に外野の守備もこなすのは、外野手だった父の影響だと私は考えています。社会人野球がなければ、大谷翔平の活躍はなかったわけです。

 本作は東京都の府中市に拠点を置く電子部品メーカーの青島製作所の社会人野球チームを描いた作品です。映画版は社会人野球らしく地方色が強められ、愛知県の豊橋市民球場などで撮影されています。リーマンショックを想起させる経済危機を背景として、契約社員の解雇や正社員のリストラが断行される中で、年間3億円の経費がかかる同社の野球部が存続の危機に瀕してしまう、という筋書きが明瞭です。派遣社員として青島製作所に入所した19歳の若者・沖原が、社会人野球のマウンドで才能を開花させていく展開も面白く、時代を風刺する批評性を感じます。

 現実に長引く平成不況下で、日本のアマチュア野球を支え、都市対抗野球に出場してきた多くの有名企業が、野球部を廃止する決定を下し、多くの選手を解雇してきました。プリンスホテルや日産自動車、熊谷組や河合楽器、そして日本最古の社会人野球部(1917年創部)で、私の家族も馴染み深い三菱重工長崎(大谷翔平の父がプレーした旧三菱重工横浜の野球部と統合)など、都市対抗の常連の名門チームが姿を消したことは、平成不況の深刻さを物語っています。

 表題の「ルーズヴェルト・ゲーム」は、野球好きだったルーズヴェルト大統領が、8対7の試合を「野球で最も面白い試合」と述べたことによります。文芸は批評も含めて、着眼点のオリジナリティ、地に足の着いた論理の明晰さ、時代を風刺する力量が生命線だと感じます。直木賞受賞直後に発表された、池井戸潤の代表作です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/817290/


池井戸潤『ルーズヴェルト・ゲーム』あらすじ

 かつて社会人野球の名門として知られた青島製作所野球部は、金融危機後の不況で歴史で廃部の危機に直面する。データ分析を活用する新監督とエース不在の野球部が、いかに年間3億円の維持コストを正当化できるのか。ドラマ化され人気を博した池井戸潤の代表作。


2021/10/14

新規事業立案をテーマとした「社会連携科目D(丸井グループ寄付講座)」を開講

 新型コロナ禍で学生たちが就職活動に苦労しているのを見てきたこともあり、明治大学中野キャンパスから徒歩5分の丸井グループの皆さまにご協力を頂いて、新規事業立案をテーマとした寄付講座を開設しました(寄付講座といってもお金のやり取りはなく、無償で授業を実施して頂く内容です)。将来のある学生たちには、地道な努力の上で、ポジティブに新しい発想を持ち、社会に出ていく上でのヒントを得てもらいたいと考えています。授業は学生5人ほどに一人、丸井グループの社員がメンターとして付き、対面のコミュニケーションを通して新規事業を企画する内容です。最終発表は丸井本社にて、青井浩・丸井グループ代表取締役社長をはじめ、執行役員の前で緊張感をもって行ってもらいます。対面授業の機会が少なかった学生たちの経験値が、本講座を通して高まることを願っています。

明治大学HP(大学TOPページでもご紹介を頂きました)

新規事業立案をテーマとした「社会連携科目D(丸井グループ寄付講座)」を開講

https://www.meiji.ac.jp/nippon/info/2021/6t5h7p00003cy6ec.html

「明治大学広報」掲載の最終発表会の様子

https://www.meiji.ac.jp/koho/meidaikouhou/202201/p06_01.html



2021/10/11

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第179回 池井戸潤『オレたちバブル入行組』

 「現代ブンガク風土記」(第179回 2021年10月10日)では、大阪の大正区や西成区を主な舞台にした池井戸潤の『オレたちバブル入行組』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「パワフルな金融ミステリ」です。池井戸潤の作品は、特徴的な場所を舞台にしたものが多いため、連載初期から取り上げる予定でしたが、第178回、第179回での登場となりました。

 池井戸潤の小説に登場する主人公は、負けに次ぐ負けの中で、状況を好転させるヒントや手掛かりをかき集め、ぬかるみにはまった人生を立て直し、大逆転劇を演じることが多いです。このような物語構造は、著者の人生を反映していると私は考えています。池井戸は慶應義塾大学文学部を卒業した後、同大学の法学部に3年時編入して卒業し、バブル経済の真っ只中の88年に三菱銀行に就職しています。

 その後、バブル経済の崩壊後の「失われた時代」に銀行を辞め、コンサルタント業やビジネス書の執筆を行う傍ら、98年に「果つる底なき」で江戸川乱歩賞を獲ってデビューします。エリート銀行員としてバブル経済の後始末を見届けて、その経験を小説として残すべく、作家となった珍しい人物です。池井戸作品に「企業もの」が多いことを考えると、ミステリ小説の登竜門の乱歩賞でデビューしたことは意外に思えますが、本作は粉飾決算や計画倒産など、元銀行員の作家らしい視点が生きた「金融ミステリ」と言えます。

 池井戸潤の作品については、個人的に最も好きなもう一作を取り上げる予定です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/813837/

池井戸潤『オレたちバブル入行組』あらすじ

 バブル期に産業中央銀行に入行した半沢直樹は、バブル崩壊後に大阪西支店の融資課長となった。ある日、支店長に急かされて無理に5億円を融資した西大阪スチールが倒産し、全責任が半沢に押し付けられる。債権回収を命じられた半沢は、中間管理職としての名誉を回復できるのか。著者の名を世に知らしめた、2004年発表の人気シリーズ第一作。



2021/10/03

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第178回 池井戸潤『下町ロケット』

 「現代ブンガク風土記」(第178回 2021年10月3日)で、鹿児島県の種子島宇宙センターの場面が印象的な池井戸潤『下町ロケット』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「町工場の技術力 底力に光」です。本連載の表題は毎回、明治大学OBの担当デスクの方に付けて頂いていますが(連載の途中で、たまたま明治大学に移籍することになったわけですが)、今回のタイトルも簡潔で上手いです。「下町」育ちの私のゼミからもこのような優秀な新聞記者が出て、「底力に光」が当たるような活躍をしてほしいものです。

 ベストセラー小説として広く知られる「下町ロケット」は、東日本大震災直後の2011年下半期に直木賞を受賞した「震災文学」です。資金繰りに苦しむ町工場が、熟練工に支えられた技術力で、大企業が取り仕切るロケット開発に参入し、カムバックするという内容は、東日本大震災後の暗い世相の中で、多くの人々の支持を集めました。ドラマ化されて高視聴率を記録し、現代日本でも幅広い世代に知られている小説の一つと言ます。

 WOWOW版のドラマでは、原作の佃航平に近い雰囲気の三上博史が主演を務めましたが、TBS版では熱血の中小企業社長という雰囲気の阿部寛が主演を務めています。ドラマ版しか知らない方には、ぜひ原作を手に取って町工場の技術開発や資金繰りの努力など、池井戸潤の小説らしい、人間味が感じられる描写のディテールを味わってほしいです。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/810146/

池井戸潤『下町ロケット』あらすじ

 宇宙開発機構の研究員としてのキャリアを捨て、実家の町工場・佃製作所を継いだ佃航平は、熟練工の技術を生かした精密部品の製造で会社を成長させる。順風満帆に見えた経営であったが、特許侵害で訴えられて風評被害に遭い、資金繰りに行き詰る。生き馬の目を抜く技術革新の競争の中、町工場の経営者としての矜持と技術を守ることができるのか。第145回直木賞受賞作。

2021/09/28

『マス・コミュニケーション研究』第99号 特集「分断される社会」とメディア

 『マス・コミュニケーション研究』第99号の特集「「分断される社会」とメディア」に寄稿した論文がJ-STAGE上で公開されました。表題は「COVID-19と社会的な分断に関する報道分析とその方法論の研究(Research on Media Coverage of the Relationship between COVID-19 and Social Division in U.S.)」です。メディア研究やジャーナリズム研究にご関心がある方は、ぜひご一読頂ければ幸いです。


『マス・コミュニケーション研究』99号(2021年7月)目次

https://www.jmscom.org/back-issues/

J-STAGE論文サイト

https://www.jstage.jst.go.jp/article/mscom/99/0/99_15/_article/-char/ja/

PDF版

https://www.jstage.jst.go.jp/article/mscom/99/0/99_15/_pdf/-char/ja

2021/09/27

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第177回 桜木紫乃『それを愛とは呼ばず』

 「現代ブンガク風土記」(第177回 2021年9月26日)で、新潟県を舞台にした桜木紫乃『それを愛とは呼ばず』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「夢破れた人々 多様な愛」です。新潟を舞台にした代表的な現代小説ということもあり、本作は連載の早い段階で取り上げる予定でしたが、桜木紫乃の作品は北海道(釧路×2、留萌)を舞台にした3作を先に取り上げたため、177回目での登場となりました。桜木さんの地に足の着いた、力強い筆致に、いつも励まされています。

 新潟一の繁華街として知られる古町を拠点にした「いざわコーポレーション」の社長・章子の謎めいた事故をめぐる小説です。文字通り古町は日本海と信濃川に挟まれた「新潟島」の中で最も歴史が古い場所で、江戸初期に築かれた港町・新潟の雰囲気を残しています。この旧市街で飲食店やホテルを経営する章子は、ホテルから美容室まで「土地に合った商売」を行って成功した人物で、新潟に愛着を持ち「地元に残る若い子を育てていきたい」という強い思いを抱いています。

  このような章子の姿には、生まれ育った釧路を拠点として小説を記してきた桜木紫乃自身の姿が重なって見えます。かつて北洋漁業の拠点として賑わった釧路は『ホテルローヤル』や『ラブレス』などの作品で描かれてきたように、中心市街地がシャッター商店街化して久しい場所です。現在の釧路の姿は、日本海側を代表する大都市・新潟の将来の姿でもあり、私の故郷である長崎の姿かも知れません。新潟に「音楽と映画と食事と文房具」を並列した本屋をオープンさせ、若者たちに読書で培った学びを通して、地元に強く根を張って生きてほしいという章子の願いに「切実な響き」が感じられる作品です。新潟と北海道を舞台にした、本連載の核を成す作家の代表作の一つです。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/806480/

桜木紫乃『それを愛とは呼ばず』あらすじ

 54歳の亮介は、10歳年上の新潟の女社長・章子と結婚したことで「いざわコーポレーション」の副社長となるが、章子の交通事故により、会社を追われる。再就職した東京の不動産屋から不良債権化したリゾートマンションの営業部員として送られ、バブル経済の後始末を押し付けられる。もう一人の主人公・釧路出身のタレント・紗希は、30歳を前に芸能事務所を解雇され、本業として働く銀座のキャバレーで亮介と出会い、彼の苦境を生きる姿に惹かれていく。


2021/09/19

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第176回 豊島ミホ『日傘のお兄さん』

 「現代ブンガク風土記」(第176回 2021年9月19日)で、島根県を舞台にした豊島ミホの『日傘のお兄さん』を取り上げました。表題は「どこかに「帰りたい」思い」です。

 近代的な大都市で発展を遂げた小説という文学の一形式は「故郷喪失の形式」を有していると、ジョルジュ・ルカーチは考えています。秋田県湯沢市出身の豊島ミホは、都会で生きる人々が抱える「故郷喪失」の感情に敏感な作家です。「私はいつも、どこかに帰りたい。たったひとつの自分の家にいるのに、それでも別の場所に帰りたい」と、「日傘のお兄さん」の主人公・夏美は感じています。

 彼女は多摩地区に住む中学三年生で、「母子家庭で生活がカツカツ」なため、空気の読めない男の子は「な、な、なつみんちはテレビがモノクロ~♪」と歌を作り、からかっています。一般に小説の登場人物は都会に憧れ、上京することに意味を見出す傾向がありますが、夏美は反対に幼少期を過ごした島根の家に「帰りたい」と感じています。「別の場所に帰りたい」という感情は、都市化が進行すればするほど、湧き上がってくる感情なのかも知れません。

 文庫版のあとがきによると、本作は豊島ミホが早稲田大学に在学時にまとめた「最後の単行本になるかもしれなかった本」だそうです。当時、彼女は「売れない作家」から足を洗い、「社会に必要とされる企業人」になろうと考えていたらしいです。本作は、秋田市で生まれ育った豊島ミホらしい、地方と東京の格差への感度が生きた、人生に迷った大人のための青春小説です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/803140/

豊島ミホ『日傘のお兄さん』あらすじ

「日傘のお兄さん」を中心にした4編の短編集。表題作では、保育園の頃、父母が険悪な関係となり、孤独な時間を共にしてくれたとの再会劇が描かれる。「日傘のお兄さん」はネット上で「ロリコン日傘おとこ」として知られ、突然島根からやってきて「追われているんだ」「でも、君しかいないんだ。他に誰も頼れない」と、夏美の引っ越し先の東京都多摩地区の自宅を訪ねてくる。豊島ミホの青春小説の代表作。

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 今週から新学期です。青山学院の夏季集中講義で準備運動が出来た感じがしていますので、何とか授業や校務、原稿などの仕事に取り組んでいきたいと思います。いくつか大きめの仕事を抱えていますが、仕事については目先の問題にできるだけ囚われず、長期的な視野の下で努力を重ね、信用を築いて行きたいと考えています。


2021/09/12

産経新聞(2021年9月12日)書評

 産経新聞(2021年9月12日)に井上義和著『特攻文学論』の書評を寄稿しました。表題は「感動という劇薬の扱い方」です。ハイデッガー『存在と時間』を参照しつつ、2004年に文藝春秋の「諸君!」に寄稿した「鶴田浩二と三島由紀夫」に関する論考を思い出しながら、オリジナリティの高いこの文学論を読み、論じました。

 個人的には、総力戦をネガティブな側面も含めて分析した『零式戦闘機』や『戦艦武蔵』など、吉村昭の「記録文学」の方が読み返されるべきだと思いますが、著者が指摘するように特攻文学は「特攻の悲劇を正しく伝えて反戦平和思想を育む」という左派の思想からも、「特攻の悲劇を美化して戦争肯定思想を植え付ける」という右派の思想からも関心を持たれてきた、特筆すべき文芸メディアなのだと思います。

 青木奈緒氏、鳥羽一郎氏、阿川尚之先生の書評と一緒にご掲載を頂きました。

 https://www.sankei.com/article/20210912-GEFXILBGGFKBDEUK5WKQOPYOAA/



西日本新聞「現代ブンガク風土記」第175回 有栖川有栖『孤島パズル』

 「現代ブンガク風土記」(第175回 2021年9月12日)で、奄美大島近海を舞台にした有栖川有栖の『孤島パズル』を取り上げました。表題は「架空の南島舞台 放蕩ミステリ」です。

 この小説は「閉じた場所」を舞台にしたクローズド・サークルと呼ばれる小説の系譜の作品です。大西洋を横断する豪華客船を舞台にしたモーリス・ルブランの「アルセーヌ・ルパンの逮捕」や、アメリカ北部の山荘を舞台にしたエラリイ・クイーン『シャム双生児の謎』、イスタンブール発の夜行列車を舞台にしたアガサ・クリスティーの『オリエント急行殺人事件』が、同ジャンルの小説の代表作として知られています。

 本作は有栖川有栖の二作目の小説で、著者があとがきに記している通り「二十代最後に書いた」「特別な思い入れ」がある作品らしいです。二作目の小説は初めて編集者の依頼を受けて書いたもので、「人は誰でも一作だけなら小説を書ける」と言われるため、二作目こそ作家の力量が問われると著者は考えています。本作には、松本清張の「点と線」への対抗意識が感じられ、孤島で展開されるパズルが点から線へ、面から立体へと発展していく複雑な仕掛けが読み所です。

「本を読むという行為自体が非生産的で胡散臭いものなのに、その上探偵小説を選んで読み耽るなどとなれば、これはもう放蕩、放埓の極みじゃないか」と記されている通り、本作は海外ミステリを貪欲に消化したバブル世代の作家たちが生み出した「本格ミステリ」という名の「放蕩文学」の代表作だと思います。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/799669/

有栖川有栖『孤島パズル』あらすじ

 架空の孤島・嘉敷島に集まった13人の男女は、文房具メーカー「アリマ」の創設者が残した5億円相当のダイヤモンドの隠し場所をめぐるパズルに挑む。台風が接近する不穏な雰囲気の中で殺人事件が起こり、ダイヤを巡る謎解きと犯人捜しのミステリが同時展開される。1989年に発表された有栖川有栖の二作目の作品。


2021/09/05

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第174回 桜庭一樹『赤朽葉家の伝説』

 「現代ブンガク風土記」(第174回 2021年9月5日)は、桜庭一樹の故郷の山陰地方を舞台にした『赤朽葉家の伝説』を取り上げています。表題は「山陰の製鉄守る女性三代」です。

 桜庭一樹は島根県の生まれで、鳥取県米子市で育った作家です。米子市は島根県に隣接していて、境港市や松江市にも近いです。本作は直木賞を受賞した「私の男」の前年に発表された、故郷を舞台にした長編小説で、鳥取を代表する現代小説と言えます。境港を想起させる「錦港」など、細かな地名に修正は加えられていますが、鳥取にアパートを借り、本作を記したという経緯から、この作品に著者が強い思いを持っていることが伺えます。写真は私が米子城跡(素晴らしい眺望の場所です)に登って撮った写真です。

 本作はたたら場の歴史を継承した製鉄の村の戦後史を描いた「全体小説」です。全体小説とは、私小説とは異なって、家族や地域や国家の歴史や盛衰を記しつつ、登場人物たちの成長や恋愛や冒険を描くような、総合的な小説を意味します。主人公は民俗学者が「サンカ」と呼ぶ「辺境の人」たちの捨て子・万葉です。出雲大社を擁し、世界文化遺産も含む多くのたたら場が点在し、製鉄業や造船業など重工業の発展にも寄与してきた山陰地方の歴史を踏まえた内容が味わい深い大作です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/796142/

桜庭一樹『赤朽葉家の伝説』あらすじ

 終戦から間もない頃、鳥取のたたら場の村に、山の民が「千里眼」の力を持つ赤子・万葉が置き去りにされる。やがて彼女は村で製鉄業を営む赤朽葉家に、跡継ぎの息子の嫁として迎えられ、「千里眼」の力を発揮して、一家が戦後に直面する危機を乗り切っていく。万葉の孫のわたしの視点から、祖母の万葉、少女漫画家の母の毛鞠の人生と、鳥取の製鉄の村の戦後史がひも解かれる。


2021/08/29

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第173回 吉田修一『続 横道世之介』

 「現代ブンガク風土記」(第173回 2021年8月29日)は、吉田修一のベストセラーシリーズの2作目『続 横道世之介』を取り上げています。表題は「苦境の中で輝く友情」です。

 東京で開催されるパラリンピックを題材とした数少ない現代小説です。都会で善良に生きることの価値を問う、訛りを帯びた心情描写が光ります。ベストセラーとなった青春小説「横道世之介」の続編で、長崎出身の主人公・世之介が19歳になる一年を描いた前作から5年後の物語です。

 世之介は子分肌の性格もあって、元ヤンキーのシングルマザーの日吉桜子と恋仲になり、彼女とその家族に気に入られながら、後に東京オリンピックの選手となる日吉亮太を育てていきます。家事や房事や子育てには熱心だが、外に出て働く意欲に乏しい「ヒモ体質」の主人公の造形は、デビュー作「最後の息子」以来の吉田修一作品の特徴です。

 この作品には「人生のダメな時期、万歳」「人生のスランプ、万々歳」という明確なメッセージが込められています。オリンピックを題材としつつ、後にプロカメラマンとなる横道世之介の修業時代を描いた本作は、新型コロナ禍で苦境に立たされている人々にとっても示唆に富む内面描写に満ちています。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/792547/

吉田修一『続 横道世之介』あらすじ

 一年の留年を経て経営学部を卒業し、バブル最後の売り手市場に乗り遅れた横道世之介の24歳から25歳になる一年を描く。バイトとパチンコでどうにか食いつなぎながら、寿司職人を目指す女性・浜ちゃんや、証券会社を退職して人生に迷っている友人・コモロンなど、「ダメな時期」に出会った人々との交流が描かれる。ベストセラー「横道世之介」シリーズの第二作。

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 今週は青山学院大学社会情報学部で集中講義「ジャーナリズム」を3日間担当します。秋学期は明治大学の授業の他に、東洋英和女学院の大学院・国際協力研究科で「国際メディア特論」を担当します。様々な大学の雰囲気を楽しむことが好きなこともあり、本務に支障のない範囲で、メディア論、文芸・社会思想関連の演習形式の授業や集中講義、ゲスト講義をお引き受けしています。



2021/08/23

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第172回 赤川次郎『セーラー服と機関銃』

 「現代ブンガク風土記」(第172回 2021年8月22日)は、高層ビルが増え始めた新宿を舞台にした、福岡出身のベストセラー作家・赤川次郎『セーラー服と機関銃』を取り上げています。表題は「平易な文でYAKUZA描く」です。子供の頃、小学校の移動図書館で人気を博していた赤川次郎について書く機会ができて、嬉しく感じました。

 1978年に光文社のカッパ・ノベルスで刊行された「三毛猫ホームズの推理」は、三毛猫という子供たちにとって身近な存在でありながら、名探偵のようさながらに事件の手掛かりを示唆したり、紅茶を嗜む愛らしい猫を作品の中心に据えてベストセラーとなりました。「セーラー服と機関銃」は、この「三毛猫ホームズの推理」シリーズの第一作と同年に刊行された青春ミステリー小説です。高校卒業からこの年まで赤川次郎は日本機械学会で学術論文の校正の仕事に従事していて、この作品が専業作家となって最初の作品となりました。

 この小説はヤクザ映画の隆盛に影響されて執筆された作品だと私は考えています。戦前から日本では長谷川伸や子母澤寛などの小説を原作として、義理人情を描く「股旅物」のやくざ映画が作られてきました。1960年代入ると仁義を尊ぶ「やくざ」を描いた尾崎士郎原作の「人生劇場」などの任侠映画が人気を博し、やくざ映画が日本映画の人気ジャンルとして確立されます。その後、日本の経済成長と共に、「仁義なき戦い」(1973年)のような利権を巡る片仮名の「ヤクザ」の抗争劇(実録ヤクザ映画)が生まれ、この作品が執筆される頃も再上映されて人気を博していました。

 本作は実録ヤクザ映画ほど生々しいものではありませんが、小学生でも楽しめる平易な文体で、その雰囲気をソフトに再現したミステリー小説だと思います。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/788924/


赤川次郎『セーラー服と機関銃』あらすじ

 17歳の女子高校生・星泉は、父親の死をきっかけに新宿の弱小ヤクザ一家の跡目を継ぎ、世の中にはびこる悪と対峙していく。父親の死の謎や、次々と引き起こされる殺人事件の犯人、行方不明となったヘロインの在処などが、物語の進展と共に明かされていく。映画版のヒットで赤川次郎の知名度を高めたベストセラー小説。

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 今年のオープンキャンパスがオンライン開催になったこともあり、ちょっと早めに演習(ゼミ)の説明動画を下のページにアップロードしました。今年の秋学期はドイツやスイス、デンマークなど、遠方の国から来る留学生の受け入れ担当の予定だったのですが、パンデミックが長引いて延期となり、残念に感じています。来年度は、期間が空いた分、国際交流がより密なものになることを願っています。

明治大学国際日本学部 酒井信ゼミ

https://makotsky.blogspot.com/p/blog-page_22.html

2021/08/16

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第171回 宮本輝『螢川・泥の河』

 「現代ブンガク風土記」(第171回 2021年8月15日)は、戦争の影が色濃く残る富山と大阪を舞台にした宮本輝『螢川・泥の河』を取り上げています。表題は「生死や運をめぐる哲学」です。

 戦争という人間の悪意が凝縮された時代を通過してなお残る、人間の逞しさや優しさに触れたいと思う時があります。逆境に立ち向かう人間の感情を描いた「戦後小説」こそ、八月に読むのに相応しいと私は思います。宮本輝の初期の代表作「蛍川・泥の河」は、戦争の傷跡が街の景色や人々の外見や心の中に残る時代の記憶をひも解いた「戦後小説」の秀作です。

「わしかて、いっぺん死んだ体や」「いままでに何遍も何遍も死んできたような気がしたんや」という父の言葉には、後に「五千回の生死」などの作品で描かれる「日常の中で繰り返される生死」のモチーフが表れています。「運というもんを考えると、ぞっとするちゃ。あんたにはまだようわかるまいが、この運というもんこそが、人間を馬鹿にも賢こうにもするがやちゃ」と語る父の親友の姿を通して、戦争と敗戦後のどさくさを潜り抜けた人間らしい、訛りを帯びた「哲学」と揺るぎない「友情」が表現されます。

 芥川賞と太宰賞を受賞した宮本輝『螢川・泥の河』は、大都市・大阪の中心地を流れる「河」と地方都市の市街地を流れる「川」の周辺で暮らす人々の戦後の日常を描いた作品で、市街地の中心部を流れる大小の川とその近くの歓楽街の風景が、現代文学にとって故郷と言える場所であることを実感させる作品です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/785510/



宮本輝『螢川・泥の河』あらすじ

 大阪と富山を舞台に、戦争の傷跡が残る土地と、戦後のどさくさが人生に影響を及ぼした人々を描いた作品。役所から立ち退き勧告を受けた舟の家で、売春をして二人の子を養う女や、進駐軍の払い下げ品の転売で財を成した父親など、戦前・戦後の日常を生き抜いてきた人々の記憶がひも解かれる。太宰賞受賞作「泥の河」と芥川賞受賞作「蛍川」を収録。

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日本マス・コミュニケーション学会・編集・発行の「マス・コミュニケーション研究」第99号の特集(「分断される社会」とメディア)に「COVID-19と社会的な分断に関する報道分析とその方法論の研究」というタイトルの論文を寄稿しました。2年任期の編集委員の仕事もひと区切りで、編集作業を通じて、もうすぐ70周年を迎え、「日本メディア学会」への改称を控えてい同学会の歴史の重みを感じました。今期は国際委員に戻り、メディア研究の国際化に関わる仕事に継続的に関わっています。

2021/08/09

祝170回 西日本新聞「現代ブンガク風土記」 中上健次『枯木灘』

「現代ブンガク風土記」(第170回 2021年8月8日)は、中上健次の代表作『枯木灘』を取り上げています。表題は「世界文学の系譜で「路地」描く」です。この連載では、私が生まれた1977年以後の「現代文学」を取り上げていますが、『枯木灘』は1977年刊行(初出は1976~77)の作品で、最も古い作品と言えます。

 和歌山県新宮市の「路地」を舞台にして、中上健次の分身とも言える秋幸が、暴力と性的な欲望を内に抱えながら、血縁と向き合う姿を描いた「紀州熊野サーガ」の代表作です。ウィリアム・フォークナーを彷彿とさせる社会の「周縁=路地」に根差した文学的な描写が、この作品で確立され、中上健次の持ち味となりました。批評家の柄谷行人はこの作品の解説で、中上が「路地」を、南北問題の「南」の問題として世界文学の系譜で表現したことを高く評価しています。

 本作は新宮の路地を舞台にしながらも、「枯木灘」一帯の風土と人々の生活を描いている点で、芥川賞を受賞した「岬」よりも空間的な広がりを有しています。中上健次の「枯木灘」は、熊野の「路地」に住む登場人物たちが持つ、近親相姦や父殺しなどの欲望の際どさと、親族や死者たちとの結び付きの強さを描いた「グローバルな文学史」に連なる「血縁文学」だと思います。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/782305/

中上健次『枯木灘』あらすじ

 私生児として生れた秋幸は、狭い熊野の土地の中で、悪い噂の耐えない実父・龍造との血縁を意識しながら成長していく。龍造は織田信長に仕え、反旗を翻した伝説の武将・浜村孫一との血縁を夢想し、私費を投じて石碑を建て、周囲から冷笑されている。芥川賞を受賞した「岬」の続編で、中上健次のルーツに迫る代表作。

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 賛否両論あった東京オリンピックでしたが、個人的に最も強く印象に残ったのは、サッカーの日本代表キャプテンの吉田麻也選手の活躍でした。同じく長崎の少年サッカー出身で、長崎の実家も近く、大学の後輩ということにもなります(プロ生活をしながら通信制で卒業されたのは立派です)。特に準決勝のスペイン代表との試合でPK判定を覆したスライディングは、プレミアリーグやセリエAを渡り歩いてきたプロらしい一流のものでした。オリンピックも3度目で、トップ・プロが出場する大会でロンドンと今大会で二度の4位。サッカーのキャプテンには、審判や相手チームの主要選手との高いコミュニケーション能力が求められますが、吉田麻也選手は英語も堪能でフィールド上に高度な秩序を築いていました。

2021/08/02

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第169回 奥田英朗『オリンピックの身代金』

 「現代ブンガク風土記」(第169回 2021年8月1日)は、奥田英朗『オリンピックの身代金』を取り上げています。表題は「1964年五輪と「戦前の影」」です。

 戦後日本が20歳に達していない「身の回りのすべてが青春」だった時代に開催された東京オリンピックを巡るサスペンスです。「なんて言うが、東京は、祝福を独り占めしでいるようなとごろがありますねえ」と呟く、秋田の出稼ぎ労働者の未亡人の言葉が、本作の基調低音を成しています。1964年のオリンピックは、戦後日本が国際的な信用を取り戻すためのイベントであり、東京大空襲と関東大震災で二度焼け野原になった東京が、戦災と震災から復興したことを国内外に示す行事でした。

 本作の主人公の島崎国男は「飛行機があったら開会式に特攻するんじゃないかな」と公安警察に揶揄われる人物で、秋田の大曲近くの架空の熊沢村で生まれ育ち、東京大学でマルクス主義経済学を研究する大学院生です。彼は親の脛をかじって学生運動に加わり、モラトリアムを謳歌する他の学生に馴染めず、東京の豊かさより郷里の農村の貧しさを実感しています。地方の窮状を知る島崎にとって特需に沸く「東京の特権」は耐えがたいもので、彼は東京オリンピックの安全な開催を「人質」に、戦後日本に対して身代金を要求する決意を固めます。

 東京オリンピックを題材とした代表的な現代小説で、対照的な二つの東京オリンピックの価値について改めて考えさせる「時代小説」だと思います。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/778937/

奥田英朗『オリンピックの身代金』あらすじ

 秋田の農村で生まれ育った東大院生の島崎国男と、警視監の息子でテレビ局社員の須賀忠の人生を対照的に描く。1964年のオリンピック特需に東京が湧く中、「東京と東北はたった一字ちがいでなんもかんも不公平だ」と感じさせる差別や搾取が、出稼ぎの飯場で横行している。人事異動か退職のように出稼ぎの人々の死が受け入れられる状況を打破すべく、島崎は東京オリンピックを「人質」にとる決意をする。



2021/07/26

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第168回 乗代雄介『旅する練習』

 「現代ブンガク風土記」(第168回 2021年7月25日)は、乗代雄介の三島由紀夫賞受賞作『旅する練習』を取り上げています。表題は「ポスト・コロナの「鹿島立ち」」です。写真はカシマスタジアムを走る「サッカーの神様」ジーコの写真を採用頂きました。

 長崎でサッカーを6年間やっていたこともあり、Jリーグ開幕の頃を思い出し、この小説が所々で描く「鹿島の神としてのジーコ神話」を懐かしさと共に味わいました。アルゼンチン出身のマラドーナがSSCナポリで「神」となったように、クラブチームの英雄は国境を越えて「神」となりますね。

『旅する練習』は安孫子市から利根川に沿って、ドリブルやリフティングなどサッカーの練習をしながら、鹿島神宮へ向かう、作家の私とその姪っ子の亜美の旅路を描いた作品です。新型コロナウイルスの感染拡大を背景とした作品で、小学校の休校期間を利用して二人は、鹿島の合宿所に文庫本を返すという名目で徒歩旅行へ出ます。

 鹿嶋市は工業地帯ということもあり、全国から移住してきた工場労働者とその家族の結束を強めるために、サッカーを推奨してきた歴史を持ちます。NFLのピッツバーグ・スティーラーズが鉄鋼業の町を本拠地として、労働者の熱烈な支持を得たのと同様に、鹿島アントラーズは、日本製鉄の拠点である鹿島臨海工業地帯で働く人々に熱狂的に愛されるチームとなりました。ポルトガル語で「やせっぽち」を意味する「ジーコ」が鹿島の英雄となるに至る物語は、神話のような趣があり、不在の神と対話するように綴られる利根川沿いの風景描写にも味わいがある作品です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/775356/

乗代雄介『旅する練習』あらすじ

 中学受験をしたサッカー少女の亜美と作家の私の安孫子から鹿島神宮への旅路を描く。利根川沿いで出会った大学生のみどりとの近すぎず、遠すぎない距離の交流を通して、旅する理由について考えさせる。鹿島アントラーズのホームタウンであることを誇る看板が見えるまでに、3人がいかに心の成長を遂げていくのか。第34回三島由紀夫賞受賞作。


2021/07/19

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第167回 佐藤究『テスカトリポカ』

 「現代ブンガク風土記」(第167回 2021年7月18日)は、佐藤究の第165回直木賞受賞作『テスカトリポカ』を取り上げています。表題は「増える移民 川崎の新現実」です。西田藍さんとの対談「第165回直木賞展望 直木賞はどの作品に」でも時間をかけて議論した作品です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/770167/

 前作の『Ank:a mirroring ape』(吉川英治文学新人賞・大藪春彦賞)も人間の「原始の本能」である「ミラーリング」に着目し、「京都暴動」を描いたいい作品でしたが、やや純文学色(とゾンビ系小説色)が強めだったので、世界的な視野とエンターテイメント性が増した本作が直木賞に相応しいと感じました。

『テスカトリポカ』は「いつまで待っても国連軍が介入してこないようなタイプ」のマフィアやヤクザや半グレたちの現代的な抗争を描いた作品です。コカインや「氷」の俗称で知られるメタンフェタミン(ヒロポン)の密輸や臓器売買に着目しつつ、国際的なスケールで表現することに成功しています。小説の中心に据えられるのは、川崎市で生まれ育った土方コシモの成長物語で、作中に度々登場する「川崎市民の歌(好きです かわさき 愛の街)」の歌詞が、血に塗れた抗争と対照的で味わい深いです。

 本作は海外からの移民が増えた川崎の新しい現実感を、メキシコ系日本人のコシモが成長していく姿を通して描いた、山本周五郎賞と直木三十五賞のW受賞に相応しい大作だと思います。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/772239/

佐藤究『テスカトリポカ』あらすじ

 メキシコの麻薬カルテル「ロス・カサソラス」の幹部・バルミロと、ジャカルタの臓器密売コーディーネーター・末永は、川崎を拠点として臓器売買のビジネスに着手する。川崎のヤクザや東京の半グレ組織に対抗すべく、川崎の自動車解体場で、メキシコの流儀で殺し屋が育成され、川崎生まれでメキシコ人の母を持つ土方コシモは、父と慕うバルミロに見出され、その才能を開花させていく。


2021/07/14

第165回直木賞対談

第165回直木賞の候補作に関する西田藍さん(文芸アイドル、書評家)との対談を、西日本新聞の朝刊とオンライン版にご掲載頂きました。今回も良い候補作が挙がっていますので、お時間のある時にでもご一読を頂ければ幸いです。

「第165回直木賞展望 直木賞はどの作品に」

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/770167/



2021/07/12

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第166回 筒井康隆『文学部唯野教授』

  「現代ブンガク風土記」(第166回 2021年7月11日)は、筒井康隆の『文学部唯野教授』を取り上げています。今週は直木賞予想の対談も、西日本新聞に掲載予定です。

 表題は「文芸批評が「花形」だった時代」です。早治大学、立智大学、明教大学など実在の大学を想起させる場所を舞台にした、唯野教授を主人公とする「アカデミック・コメディ」です。作中に江戸川公園が登場するため、作品の舞台は早稲田大学に近いのかも知れません。

 唯野教授の現代批評論の小説内講義も楽しめます。内容は英国の批評家テリー・イーグルトンの『文学とは何か』を下地にしたもので、唯野がジョークを交えて説明する「構造主義」や「ポスト構造主義」の講義は、分かりやすくて面白いです。1980年代に流行した学際的な思想潮流=ニューアカデミズムから、文学に関するものをピックアップして、嚙み砕いて説明した「文芸批評入門書」のような風情です。

 1990年に発表された本作は「ニューアカ・ブーム」の後押しもあり、純文学作品としては異例とも言える50万部超えのベストセラーとなりました。猫の例を用いた唯野教授の「記号論」の論争まで起こったことを考えれば、思想や批評に関心を持つ人の多い時代だったのだと思います。文芸批評に関する講義が、大学の文系学部の「花形」だった時代の記憶を現代に伝える筒井康隆らしい「歴史小説」です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/768766/


筒井康隆『文学部唯野教授』あらすじ

 早治大学の文学部で教鞭を執る唯野教授が、大学内の政争に塗れながら、匿名で小説を執筆し、非常勤で働く立智大学で、自分が好きな文芸批評の講義を行う日々を描く。大学の権力と文壇の権力の構造を暴いたスキャンダラスな小説。フランス語にも翻訳され、「ルモンド」や「リベラシオン」で紹介され、筒井康隆の文化勲章(シュバリエ賞)の受賞に繋がった作品。



2021/07/05

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第165回 金原ひとみ『fishy』

 「現代ブンガク風土記」(第165回 2021年7月4日)は、金原ひとみ『fishy』を取り上げています。表題は「「男性社会」から自由な恋愛」です。前便のとおり、本連載は事前に協議の上ピックアップした現代小説に対する批評文ですので(掲載順やその可否、タイトルについてもご担当のデスクによる判断ですので)、特定のトピックに対する個人的な見解を代弁するものではありません。念のため。政治や社会などの個別の問題がどうであれ、普遍的に存在する文学的な問題について論じた批評文です。

 金原ひとみは男女の間に生じる感情の食い違いを、ユーモラスな情感と共に表現するのが上手い作家だと思います。本作は銀座に近い有楽町駅と、ビジネス街として知られる新橋駅の間にある銀座コリドー通りで酒を酌み交わす「fishy(胡散くさそう)」な女性三人の恋心を、心の底から抉り取るように描いています。写真は数か月前に私が撮った銀座のコリドー通りのものです。

 3人は互いに本音で批判をぶつけ合う酒飲み仲間で、定期的にコリドー通りに繰り出しては、世の中の男たちに翻弄されないための「同盟」のような関係を育んでいきます。3人の女性たちの異なる恋愛観や人生観が、酒気を帯びた遠慮のない会話を通して浮き彫りにされる展開が面白いです。この作品はレイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』のように、酒場で親しくなった人々の儚い友情とハードボイルドな人生を浮き彫りにすることに成功しています。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/765232/

金原ひとみ『fishy』あらすじ

 子育てをしながら出版社で編集者として働く弓子。フリーのインテリアデザイナーとして事務所を構える既婚者のユリ。元々は小説家志望でライターの仕事を続ける、独身者の美玖。飲み友達の関係にあった三人は、不倫や離婚、家事の分担やセックスレスなど男女間に生じる様々な問題について語り合ううちに、内に抱える闇を互いに晒していく。


2021/06/28

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第164回 新庄耕『狭小邸宅』

「現代ブンガク風土記」(第164回 2021年6月27日)は、新庄耕『狭小邸宅』を取り上げています。表題は「住宅営業現場の「戦争」」です。新庄さんは慶應SFCの福田和也ゼミが輩出した数少ない作家で、土地の売買をモチーフにした作品で注目を集め、将来を嘱望されている書き手です。

『狭小邸宅』は東京の不動産会社で営業の仕事を務める主人公が成長していく姿を描いた青春小説です。職場環境に戸惑いながらも、主人公は不良債権と化していた「蒲田の物件」を「サンドイッチマン」姿で注意を引き、見事に売り抜けるなど通過儀礼を経て一人前になっていきます。過酷な現場を生き抜いた者たちだけが、高額の歩合給を手にできる厳しい世界で、客の購買意欲を煽る「かまし」など、演技力も必要とされるので大変です。

 なおこの連載は、担当を頂いている文化部デスクの方と事前に打ち合わせを行い、ピック・アップした作品について、一定の原稿のストックをもとに掲載しています(掲載順やタイトルも、ご担当の記者の方にお任せしています)。まだまだ連載で取り上げていない優れた小説が多くあり、どの著者のどの作品を取り上げるか、どの土地を舞台にした作品を選ぶか、実に悩ましいです。直木賞系の作品が多めの連載ですが、一見すると読みやすい文章も、大変な努力と才能の上で書かれていることが分かります。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/761442/

新庄耕『狭小邸宅』あらすじ

「明王大学」を卒業した松尾は「学歴も経験もいらず、特別な能力や技術もいらない」不動産営業の世界に飛び込み、ひたすら「家を売る」ために、サービス残業や上司からの暴力に耐える日々を送る。5年以上も全支店で売り上げトップだった「伝説の営業マン」との出会いによって、松尾は営業部員として成長し、着実に業界のブラックな慣習を身に着けていく。

2021/06/21

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第163回 綾辻行人『十角館の殺人 新装改訂版』

 「現代ブンガク風土記」(第163回 2021年6月20日)は、綾辻行人『十角館の殺人 新装改訂版』を取り上げています。表題は「大分の離島舞台に「新本格」」です。

 綾辻行人『十角館の殺人 新装改訂版』は、関サバや関アジの漁場として知られる大分県大分市の佐賀関半島近くの高島と思しき場所で展開される本格派推理小説です。推理小説の中でも、探偵が活躍し、複雑な謎やトリックを解明することを重視した作品を一般に「本格派」と呼びます。バブル期に作家としてデビューした綾辻行人の作品は、それ以前に人気を博した横溝正史の金田一耕助シリーズとは異なって、封建的な家のしがらみや伝統や慣習に関する描写が薄い点に特徴があり、特に「新本格派推理小説」と呼ばれます。

 綾辻行人は京都で生まれ育ち、京都大学に進学した生粋の京都人です。本作は教育学研究科で逸脱行動を研究する大学院生時代に書かれたというから早熟です。辻村深月など世代と性別を超えて与えた影響は大きく、本格ミステリーに名門・京大推理小説研究会が果たした役割の大きさを感じます。新しい時代を切り開いた作家のデビュー作らしい、エンターテイメントに留まらない文学的な深みが感じられる作品です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/757967/

綾辻行人『十角館の殺人 新装改訂版』あらすじ

 半年前に連続殺人事件を引き起こし焼死した建築家の中村青司の自宅・十角館を、大分にある大学の推理小説研究会に所属する7人が訪れる。過去の連続殺人事件の謎をひも解きながら、新しい連続殺人事件が起きていく。脱出できない孤島の十角館を舞台にした新本格派の推理小説。「館シリーズ」の一作目で、綾辻行人が大学院在学中に書いた鮮烈なデビュー作。



2021/06/14

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第162回 島田荘司『異邦の騎士 改定完全版』

 「現代ブンガク風土記」(第162回 2021年6月13日)は、島田荘司の実質的なデビュー作『異邦の騎士 改定完全版』を取り上げています。表題は「本格ミステリーのビート」です。島田荘司が最初に書いた小説で、発表までに9年(発表作としては25作目)を要し、全面改訂までに18年の時間が費やされた労作です。

 2021年2月に亡くなったチック・コレア(Return to Forever)の代表作「浪漫の騎士」に着想を得た小説で、文庫版に収録されている1991年の後書きによると、島田は「二十代という不安の時代」にこの曲を聴き、「空しい闘いに挑む時代遅れの騎士」の姿を思い浮かべることで、「どん底」を生きるような気分を慰めていたそうです。1976年に発表された「浪漫の騎士」は同時代のプログレッシブ・ロックへの対抗心が感じられる名曲で、「異邦の騎士」は複雑でありながら、崇高なテーマ性を感じさせる物語構造を有しているため、共通する部分が多いと思います。

「浪漫の騎士」を繰り返し聴いた若き島田荘司は、「世界にはこれほど真面目に、真剣に仕事をする奴がいる、とても遊んでなどいられない」と感じ、本作を書き始めたらしいです。小説全体に通底する「見知らぬ惑星に取り残された子供」のような不安に、「浪漫の騎士」からの強い影響が見られ、「日常的な不安」を払拭するために「本格ミステリーという激しいビートを必要とする音楽」を奏でた、島田荘司らしい本格ミステリーだと思います。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/754487/


島田荘司『異邦の騎士 改定完全版』あらすじ
 記憶を失った主人公の「俺」が、同棲相手の良子との恋愛を通して記憶を取り戻そうとしながら、過去の不幸な記憶に飲み込まれていく。愛する妻子を殺したかも知れないという記憶や、その復讐を果たしたかも知れないという犯罪の匂いが、主人公の現在を苛んでいく。作家・島田荘司がはじめて書いた小説の改定完全版であり、本格ミステリーの金字塔。


2021/06/07

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第161回 林真理子『葡萄が目にしみる』

「現代ブンガク風土記」(第161回 2021年6月6日)は、山梨の葡萄農家で生まれ育った林真理子の青春小説『葡萄が目にしみる』を取り上げています。表題は「ゆっくり熟していく青春」です。本連載も3年3か月目に入り、熟してきた感じがしています。

 林真理子の分身と思しき主人公の乃里子は、山梨の葡萄農家で生まれ育ったことにコンプレックスと、誇らしさの双方を抱いています。種なし葡萄を作るために、乃里子は「ジベ」という作業に子供の頃から駆り出され、手を薄桃色に染めてきました。プラスチックのコップに植物の成長を調整する「ジベレリン」を満たし、その中に葡萄の房を浸すと「小さな泡がわきあがって、まるで魔法のように実の中の種を消してしまう」らしく、現代でもデラウェアやピオーネなどの葡萄は、手作業で種なしにした上で出荷されています。

 この作品の主な舞台となる「弘明館高校」は、林真理子が通った山梨県立日川高校がモデルだと推測できます。『楢山節考』や『東北の神武たち』で知られる深沢七郎(山下清との対談が面白い)の出身校で、林真理子と同じく実家が葡萄農園を営んでいた、「臍で投げるバック・ドロップ」でお馴染みの元全日本プロレス・ジャンボ鶴田の出身校でもあります。出身者の個性が際立っていますね。

 林真理子の『葡萄が目にしみる』は、山梨の葡萄農家らしい言葉の訛りと、「自家用葡萄」の豊かな味わいを通して、甲府から少し離れた場所に位置する「果樹地帯」の風土を感じさせる青春小説です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/750854/


林真理子『葡萄が目にしみる』のあらすじ

 山梨の葡萄農家で生まれ育った乃里子は、太った外見を周囲と比べられながらも、農家の仕事を手伝いながら成長し、憧れの弘明館高校に入学する。高校に入ると放送委員を務め、先輩たちとも交流をするようになり、生徒会で書記長をやっている保坂に恋心を抱くようになる。複雑な家庭環境で育ち、不良ながらラグビー選手として活躍する岩永など、同じ山梨で育ちながらも、全く異なる青春を送る高校生たちの群像を描く。

2021/05/31

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第160回 松尾スズキ『老人賭博』

 「現代ブンガク風土記」(第160回 2021年5月30日)は、松尾スズキの故郷・黒崎を想起させる「白崎」を舞台にした『老人賭博』を取り上げています。表題は「禍々しくも神々しい芸事」です。松尾スズキが冗談交じりに描くほど、「白崎」近辺はヤンキーとヤクザが闊歩する街ではないと思いますが、子供の頃、この「白崎」のあたりは(体感治安の悪い)長崎よりも更に治安が悪いと聞いた記憶があり、小説の舞台として期待してしまいます。

 本作で「白崎」は「昔は栄えてたらしいが、今はいわゆるシャッター商店街で、半ばゴーストタウン化しているらしい」と説明されます。「白崎の空は勉強に集中できない子供の目つきのようにどんよりしていた」など、街の衰退が文学的に表現されています。往時の黒崎の賑わいを知る著者らしい描写が味わい深く、「想像以上の黄昏っぷりだな。でも、だめになり方にロマンがあるといえばある」といった表現に、生まれ育った土地への愛情が感じられます。

 全体を通して「白崎という町を覆う独特な自暴自棄感」が生きた作品で、役者を務めることや、映画や舞台の脚本を書くことそのものが「賭博」に近いものだと感じさせる説得力があります。松尾の分身の海馬が、神が決めたとされる「現実の出来事」を、演技を通して模倣し、賭博の対象としながら、「神の行為を矮小化することで、神の視線の外側に出る」ことを目指す姿は、禍々しくも、神々しく見えます。

西日本新聞me

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/746972/


松尾スズキ『老人賭博』あらすじ

 コメディー映画を愛するマッサージ師・金子堅三は、客の一人だった脚本家で役者の海場五郎に弟子入りする。金子は北九州の「白崎」のシャッター商店街で行われる映画の撮影に同行し、78歳の俳優・小関泰司とその弟子のヤマザキが高い集中力でセリフ合わせを重ねるなど、プロの仕事を目の当たりにする。海馬は、衰えの見えはじめた小関のNG回数を当てる賭博を企画し、金子は師匠を助けるべく、根回しと駆け引きを重ねる。



2021/05/24

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第159回 町田康『湖畔の愛』

 西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第159回 2021年5月23日)は、町田康のコメディ風の恋愛小説『湖畔の愛』を取り上げました。表題は「カルデラ湖のほとりの奇談」です。芦ノ湖を想起させる湖の近くにある「九界湖ホテル」を舞台にした作品です。

 創業百年を迎えた老舗ホテルは、歴史的建造物として一部で名が知れていますが、数年前から「稼働率がアパパ」になり、「経営はアホホ」の状態に陥っています。冒頭に収録された「湖畔」は「昭和のコント」のようなシチュエーション・コメディで、アメリカのスラップスティックの雰囲気もあり、チャーリー浜のような口調や雑用係の「スカ爺」が重要な役回りを演じる点は、吉本新喜劇を連想させます。

 2番目の「雨女」は、人気の女性ファッション誌「VOREGYA」の取材が入り、ハルマゲドンのような自然災害が起こるという突飛な設定の作品です。近松秋江の「情痴文学」と形容された私小説のように、恋する男女の心情描写が特徴的で、オーソドックスな日本文学の香りがします。

 表題作の「湖畔の愛」は、陽の目を見ぬまま鳥取砂丘に消えたとされる伝説の芸人・横山ルンバをOBに持つ「立脚大学」の演劇研究会の九界湖合宿を描いています。話芸を極めようとする学生の青春と、美女との恋愛が交錯した物語で、文芸に限らず、演芸全般に造詣の深い町田康の作家としての資質が生きた作品だと思います。

西日本新聞me

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/743228/

町田康『湖畔の愛』あらすじ

 資金繰りに苦しむ老舗ホテル・九界湖ホテルを舞台にした3作品を収録した小説。ホテルで働く、中年男性・新町と若い女性・圧岡、雑用係の爺さんの3人のところに、独特の訛りを持つ金持ち・太田や、超常現象を引き起こす雨女・船越、絶世の美女・気島などが訪れ、様々な問題を引き起こす。笑いと恋に満ちた町田康の新しい代表作。


2021/05/17

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第158回 ねじめ正一『高円寺純情商店街』

 西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第158回 2021年5月16日)は、明治大学中野キャンパスから徒歩圏内にある商店街を舞台にした、ねじめ正一『高円寺純情商店街』を取り上げました。表題は「街に根を張る商いを『写実』」です。中野キャンパスからは、高層ビルが林立する新宿副都心も良く見えますが、中野サンモール商店街・中野ブロードウェイや、高円寺純情商店街など、活気のある商店街にもアクセスしやすいです。

 商店街で生まれ育ったねじめ正一だからこそ書けるような描写が魅力的な作品です。乾物屋は梅雨時になると朝から晩まで湿気を防ぐことに気を配り、魚屋は、夏は魚が腐らないように気を配り、冬は冷たい水で魚を洗うため手が荒れ、年間を通して大声を出して活きの良さを演出します。

 小説の設定と同じく、ねじめ正一の実家は高円寺で乾物屋を営んでいました。乾物屋は「ねじめ民芸店」に変わり、阿佐ヶ谷に移りましたが、ねじめ正一は詩人としてデビューした後も民芸店の店主を務めていました。この小説が直木賞を受賞したのち、「高円寺銀座商店街」は「高円寺純情商店街」へと名称を変更しています。実在の街の名前が、小説の街の名前に変わるという例は、日本の文学史において極めて稀だと思います。商店街で乾物屋の息子として生まれ育ってきたことへの自負と、個人商店主への敬意と愛情が伝わってくる作品です。

西日本新聞meへのリンク

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/739443/

ねじめ正一『高円寺純情商店街』あらすじ

 高円寺駅の北口にあるとされる「純情商店街」で生きる人々を、乾物屋の「江州屋」で生まれ育った「正一」の視点を通して描いた作品。乾物屋の仕事の傍ら俳句に熱中する父親や、隣の魚屋を手伝うケイ子、銭湯で番台に立つ小学校の同級生の宮地サンなど、周囲の人々の描写が味わい深い。ねじめ正一の自伝的な作品であり、第101回直木賞受賞作。

2021/05/10

奇妙な廃墟に聳える邪宗門 『福田和也コレクション1:本を読む、乱世を生きる』書評

 『福田和也コレクション1』の書評を寄稿しました。90年代から00年代の批評のことなど、色々と書いておりますが、当時38歳だった若き福田和也先生との思い出や、「批評空間」の最終号の巻頭鼎談「アナーキズムと右翼(絓秀実・福田和也・柄谷行人)」の対談のまとめ(当時、院生だった私が担当しています)のことなど、雑誌メディア史的にもレアな話もあるかと思います。800ページを超える批評本への敬意を込めて、時間を掛けて書きましたので、お時間のある時にでもご一読を頂ければ幸いです。『福田和也コレクション2、3』についても機会があれば、どこかに批評を寄稿する予定でいます。

奇妙な廃墟に聳える邪宗門 『福田和也コレクション1:本を読む、乱世を生きる』書評【酒井信】

https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/945463/

exicite news版

https://www.excite.co.jp/news/article/BestTimes_00945463/

 上の記事はトップページでご紹介を頂いたこともあり、掲載から2時間ほどで(無事)アクセス・ランキングで上位に入り、平山周吉さんや中西大輔さんなど、往時の福田和也を知る編集者の方々から、熱いリアクションを頂くことができました。福田和也について論じる批評性を要する仕事でしたので、非常に嬉しく感じました。

 当面は西日本新聞の連載を継続しながら、書籍にすることを目指しつつ、1年ほどかけて「en-taxi」「諸君!」に寄稿した批評文や、江藤淳論・福田和也論・坪内祐三追悼文などを加筆・改稿して、まとまった書籍にしたいと考えています(秋口から版元を探し始めることになると思います)。批評に風当たりが強く、なかなか文章の中身や価値を評価してもらいにくい時代ですが、何とか踏ん張って批評文を書き続けたいと思います。

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第157回 中村文則『去年の冬、きみと別れ』

 西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第157回 2021年5月9日)は、ここ数か月、日本の本格推理小説を読み込んでいることもあり、中村文則のミステリー作品で、2018年に映画化された『去年の冬、きみと別れ』を取り上げました。表題は「犯罪者への安堵と共感」です。

 異様な事件を引き起こした犯罪者の心理に人々が関心を持つのは、不可解な人間の振る舞いに、悪のラベルを貼り、安堵したいからでしょうか。それとも退屈な日常に風穴を開ける犯罪者の言動に、少しでも人間性を見出し、無意識的に共感したいからでしょうか。本作で描かれる犯罪は、名前が付けがたく、安堵も共感もしにくいものです。

 トルーマン・カポーティの「冷血」について、作中で繰り返し言及されています。ニュージャーナリズムの源流とされる作品で、カポーティはカンザス州の惨殺事件を取材し、ノンフィクション小説の原型となる筆致で記しました。ただ本作はカポーティの「冷血」のように、書き手の存在を消去した作品ではなく、登場人物たちのバイアスも描き、そこに込み入った謎が存在することも明していきます。「信用できない語り手」が物語を展開するカズオ・イシグロの小説にも近いです。

 カポーティは「冷血」を書いたのち心に変調をきたしましたが、彼は「冷血」を書くことで、殺人犯が体現する人間の欲望の臨界と向き合いました。本作は、中村文則が犯罪者への安堵と共感という、一般の人々が抱く「冷血な感情」と向き合った本格推理小説です。

西日本新聞 meへのリンク

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/735712/


中村文則『去年の冬、きみと別れ』あらすじ

 二人の女性が殺害された猟奇的な焼殺事件の謎を、ライターの僕が犯人や関係者を取材しながら明らかにしていく作品。写真家・木原坂雄大と姉・朱里のきな臭い関係と、事件の真相とは。複雑に織り込まれた謎が、物語を二転三転させる構成が巧みで、ミステリー作家としての中村文則の評価を高めた作品。


2021/05/03

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第156回 岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』

 西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第156回 2021年5月2日)は、新型コロナ禍で平穏な日常の意味が問われていることもあり、岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』を取り上げました。表題は「間延びした日常に風穴」です。

 演劇に関わる人々の時間の流れ方は、スマホで動画を視聴することに慣れた現代人のそれとは、大きく異なると思います。役者たちは自らの身体を客の前にさらしながら、内的に消化した時間を繰り返し舞台の上で現前化させます。観客も劇場へと足を運び、狭い空間に拘束され、舞台上で展開される時間にシンクロし、それを楽しみます。ウェブ上で様々な動画が視聴できる時代に、演劇が役者たちと観客の双方に求めるハードルは高いです。

 ただ人間が、他の人間が演じる物事を、同じ時空間で一緒に経験したいという欲求は、群れることで文明を築いてきた人間らしい根源的なものなのだとも思います。フロイトが言うように、人間は他人の欲望を模倣することで成長し、社会的な存在となります。生身の人間から得られる時間は、感情の通った欲望を伴う、取り換えのきかないもので、オンライン上の情報やコミュニケーションでは代替できません。

 岡田利規の「わたしたちに許された特別な時間の終わり」は、劇作家らしい時間に関する感度の高さが感じられる良作だと思います。これといった出来事が起こらない筋書きや、ため口の場面説明や台詞回し、現代文学のような飛躍した場面展開など、個性的な作風が際立っています。本作は、私たちの日常の中に横たわる、取り留めもない「特別な時間」の意味の重さを問いかける作品です。

西日本新聞 meの掲載記事



岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』あらすじ

 イラク戦争の足音が聞こえる中、偶然出会った男女が渋谷のラブホテルに5日間滞在する「三月の5日間」と、フリーターの夫婦のすれ違う時間を描いた「わたしの場所の複数」を収録。劇団チェルフィッチュを主宰する岡田利規の初めての小説で、第二回大江健三郎賞受賞作。

2021/04/26

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第155回 川上未映子『ヘヴン』

 西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第155回 2021年4月25日)は、旭川市のいじめ凍死事件が起きたこともあり、いじめを題材とした現代小説の代表作、川上未映子『ヘヴン』を取り上げました。表題は「いじめの苦難「向こう側」夢見て」です。

 旭川の事件は、母親・生徒の担任への相談も繰り返しあり、川への飛び込み事件も起き、警察の捜査も入り、転校もして、PTSDの診断もあっても、調査委員会が設置されておらず、凍死事件が起きるという、あまりにも悲惨なものでした。狭い人間関係の中で生じる陰湿ないじめを抑止する仕組みが、少しでも早く整うことを願っています。

 川上未映子『ヘヴン』は冒頭で引かれた「目を閉じさえすればよい。すると人生の向こう側だ」という、ルイ=フェルディナン・セリーヌ『夜の果てへの旅』の一節が、読後の印象として強く残る作品です。

 目を閉じて、人生の難局が過ぎ去り「人生の向こう側」へ行ければいいのに、と誰もが一度は願ったことがあるのではないでしょうか。この作品はいじめにあった14歳の男女が、殉教者のように目を閉じ、祈るように人生の苦境を乗り切り、その「向こう側」にある「ヘヴン」を模索する切なくも生命力に満ちた作品です。

 写真は作品の舞台と思しき場所の近く、横浜市南区の大原隧道で撮影しました。作中の切ない恋心が写真で表現できてる気がしています。

 先週末に批評本の批評(12枚)を書き終えて、ようやくGWを実感してきた今日この頃です。

西日本新聞 meの掲載記事

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/729290/


川上未映子『ヘヴン』あらすじ
 悪質ないじめを受けている僕が、ある日「わたしたちは仲間です」という匿名の手紙を受け取る。いじめを受けた男女が「きっといつかこれを耐えなきゃたどりつけなかったような場所やできごと」を手にする希望を抱いて、ほのかな恋心を育み、手を取り合って成長していく。著者の新境地として高く評価された芸術選奨新人賞、紫式部文学賞受賞作。


2021/04/19

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第154回 町田そのこ『52ヘルツのクジラたち』

 西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第154回 2021年4月18日)は、2021年の本屋大賞受賞作、町田そのこの『52ヘルツのクジラたち』を取り上げています。表題は「拡張する社会が抱える矛盾」です。

 大分県の小さな海辺の町を舞台に、親からの虐待に苦しんできた「わたし」ことキナコとその友人たちの青春を描いた作品です。一般にクジラは10~39ヘルツで歌うことで仲間と連絡を取り合い、繁殖するらしいですが、52ヘルツのクジラは声の周波数が高すぎるため、孤独に大海原を生き抜かなければなりません。「52ヘルツのクジラ」のエピソードは、孤独な人生を歩んできた登場人物たちを象徴するもので、誰に読まれるか分からない文章を書き続ける、作者のアイデンティを表現したものでもあると思います。

 人間は群れを成して生きる動物であり、環境に左右される存在です。ただこの世に弱い存在として生れ落ちる子供にとって、第一に「群れ」や「環境」とは家庭であり、それは自ら選ぶことのできない所与のものとして、理不尽に人生を左右します。現代社会で、私たちは依然として狭い家庭環境に左右されながら生まれ育ち、血縁や地縁を超えた生活や人間関係を容易には築けないでいます。本作は、外見は前近代的なしがらみを克服したかに見える現代社会が内側に抱える感情的な矛盾を描いた作品で、新型コロナ禍の時代に相応しい「本屋大賞受賞作」だと思います。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/725496/


町田そのこ『52ヘルツのクジラたち』あらすじ

 家族から虐待を受けて育ったキナコが、友人の美晴が働く塾の講師・アンさんなどに支えられながら成長していく物語。家族の下を離れ、祖母の自宅があった大分に移住したキナコは、母親から虐待を受けている少年と出会い、彼を庇護しながら自己の人生と向き合っていく。勤め先の跡継ぎだった主税との苦い恋愛遍歴など、ミステリアスなキナコの過去が徐々に明らかにされる展開がスリリングな作品。2021年本屋大賞第一位。

 


2021/04/17

広報誌「明治」と「国際日本学研究」への寄稿

 明治大学の広報誌「明治」第89号(2021年4月発行)に「メディア・リテラシーの有無が生死を分けることもある」を寄稿しました。

「明治」第89号には、校友の安住 紳一郎さん(TBSテレビ アナウンサー)への創立140周年記念特別インタビューや、特集「明治大学が切り拓く就職キャリア支援」などが掲載されています。

目次

https://www.meiji.ac.jp/koho/meiji/89.html

 それと明治大学が発行する「国際日本学研究」に「現代日本の新聞産業の現状と収益構造の変化に関する研究」という論文を寄稿しました。科研費の分担分の成果の一部で、ボリュームのある原稿です。日本の新聞産業の特徴と現状について、様々な統計データを用いながら考察しています。

「国際日本学研究」第13巻 第1号(2020) pp.39-56

https://www.meiji.ac.jp/nippon/6t5h7p00000ifucc-att/6t5h7p00000ifuen.pdf

2021/04/12

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第153回 芦沢央『汚れた手をそこで拭かない』

 西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第153回 2021年4月11日)は、芦沢央の第164回直木賞候補作『汚れた手をそこで拭かない』を取り上げています。表題は「日常に潜む『落とし穴』」です。この回の直木賞は、時代小説の受賞が期待される状況だったこともあり、受賞に至りませんでしたが、最も芥川賞向きの作風で、文学性も高く、将来が期待される作家だと思います。

写真は「世界一の本の町 神田すずらん通り商店街」です。神保町では、大学2,3年の時にイタリア系の出版社デアゴスティーニ・ジャパンの編集部でバイトしていました。東京堂でよく立ち読みしてサボっていたので、東京堂の写真を掲載頂きました。四半世紀が経った今日も、明治大学での会議ついでにボンディでカレーを食べ、古本を物色しつつ、すずらん通りを散歩しました。世界一の商店街だと思います。

神保町はさておき、芦沢央は平穏だと考えていた日常を侵食する「小さな悪意」を通して小説のリアリティを築くのが上手いです。「汚れた手をそこで拭かない」は、人々が穏やかな日常生活の中で見落としているような「小さな悪意」を起爆剤として、喜怒哀楽に還元しがたい際どい感情を表現した短編集といえます。単行本の帯文に「ひたひたと忍び寄るおそろしさ、ぬるりと変容する日常から、目を背けてはならない」と記されていますが、言い得て妙です。

 老人がアパートの隣人の電気機器を親切に修理するふりをして、盗電して自室の電気代を節約するなど「小さな悪意」が、小説の中心的な題材として取り上げられています。個人的に最も印象に残ったのが、「埋め合わせ」という作品で、小学校のプールの栓を閉め忘れて大量の水を流出させたことを隠蔽しようとする小学校教師の姿が描かれています。

 現実に日本では、プールの給水栓を小学校教員が閉め忘れ、上下水道料金(数百万円になることも)を請求される事例が生じています。平穏な小学校の夏休みにぽっかりと空いた「落とし穴」が、ホラー作品のような恐怖を読者に与えます。

西日本新聞 me

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/721790/


芦沢央『汚れた手をそこで拭かない』あらすじ
 日々の生活の中に潜む「汚れ」をさりげなくどこかで「拭く」ような人間の小さな悪を軸にした5つの短編集。小学校の教師や認知症の妻を持つ老人、仏師を目指す元編集者など、お金に困り、自らの人生を袋小路へと追い込んでしまう不器用な大人たちを描く。第164回直木賞候補作。


2021/04/05

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第152回 高橋源一郎『ジョン・レノン対火星人』

 明治大学国際日本学部で2年目を迎えました。知り合いの教員がいない中、一般公募で専任教員として採用を頂いたことへの感謝の気持ちを、学部に対して持ち続けています。新型コロナへの対応は大変でしたが、快活に教育・研究・校務に勤しんできたつもりでいます。昨年の7月から対面授業を実施してきましたが、今学期は4月からすべての授業を対面でスタートし、すでに多くの学生たちと対面でやり取りできていることを、嬉しく感じています。

 ここ最近は学術論文を続けて書いています。先月末発行の「国際日本学研究」に「現代日本の新聞産業の現状と収益構造の変化に関する研究」という論文を15ページほど寄稿しました。科研費の分担分の成果の一部です。今は英字ニュースの解析と分析に関する依頼論文を書き終えたところで、7月下旬に学会誌に掲載予定です。文科省の共同利用・共同研究の昨年度分の報告書も作成中です。

 あと大学の広報誌『明治』の次の号に、以前にMeiji.netに寄稿した「メディア・リテラシーの有無が生死を分けることもある」が6ページで転載される予定です。内容を微調整しました。

https://makotsky.blogspot.com/2020/10/meijinet.html

 その他、西日本新聞の連載と分厚い評論本への批評、英字論文など、色々と仕事に追われている内に新年度という感じですが、この調子で、残り27年の教員生活を全うしたいものです。

 新年度最初の「現代ブンガク風土記」(第152回 2021年4月4日)は、昨年度のはじめの村上春樹『羊をめぐる冒険』と同様に、現代小説への関心の原点となった作品(高橋源一郎『ジョン・レノン対火星人』)を選びました。表題は「正気と狂気 理不尽な人間」です。

 高橋源一郎の「過激派」としてのルーツが感じられる作品で、好きな現代小説の一つです。ポスト・モダン小説と言える虚実が入り混じった実験的な作風で、当時の日本の戦争史観への皮肉がたっぷりと塗り込められています。唐突に「プロレスとは愛(アムール)なのだ」というアブドーラ・ブッチャーのセリフが挟まれたり、「突発性小林秀雄地獄」に見舞われた人物が「おれはきつと近代の野蛮人なのだ。近代絵画が好きだ、おれは。本居宣長は桜なのだ。利口なやつはたんと反省するがよい、おれは馬鹿だから」など小林風の言葉を口にして反省するなど、不条理な内容がめくるめく展開されます。

 写真は作品の舞台となった東京拘置所で、高橋源一郎は、横浜国立大学時代に学生運動に関わり、凶器準備集合罪で逮捕され、半年ほど収監された経験を持ちます。高橋はこの時のトラウマで失語症となり、長期間、読み書きが上手くできなくなったらしいですが、本作は初期の作品らしく収監中の辛い経験が、幻想的な描写に強く反映されていて味わい深いです。正気と狂気が襞のように折り重なった現実世界を、私たちは常にすでに理不尽な人間存在として生きて続けながら、シミュラークル(模造品)とシュミレーション(想定演算)の外側に抜け出せないでいる、という現実を高橋は言葉を起爆させることで、挑発的に風刺しています。

西日本新聞 me

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/718161/


高橋源一郎『ジョン・レノン対火星人』あらすじ

「マザー・グース大戦争」の被告として収監された「わたし」や「花キャベツカントリー殺人事件」を起こした「すばらしい日本の戦争」などが、東京拘置所を舞台として奇妙な物語をひもとく。後に「すばらしい日本の戦争」が狂ったふりをしていたことが判明し、小説は急展開していく。第24回群像新人文学賞の最終候補作「すばらしい日本の戦争」を改題した高橋源一郎の初期の代表作。

2021/03/29

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第151回 内田春菊『ファザーファッカー』

「現代ブンガク風土記」の特集ページが西日本新聞のオンライン版にできました。全文は有料会員向けの公開ですが、2021年2月の連載(第144回宇佐見りん『かか』)から掲載されています。今週の写真は、内田春菊の『ファザーファッカー』の舞台となった、知る人ぞ知る、長崎南高校にほど近い「五十段坂」です(つまりは内田春菊の実家と思しき場所の近くです)。著者のマニアックな写真の指定にもプロの仕事で応えてくれるのが、1877年からの歴史を有する西日本新聞社です。

https://www.nishinippon.co.jp/theme/fudoki/

 西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第151回 2021年3月28日)は、内田春菊の直木賞候補作・Bunkamuraドゥマゴ文学賞受賞作『ファザーファッカー』を取り上げています。表題は「豊かな自然と埋もれた感情」です。

 同級生の子を身ごもり、養父から性的な虐待を受け、16歳で家出をした内田春菊の自伝的な小説です。彼女が1年時に強制退学させられた長崎県立南高校は、私の母校でもあり、この本が発売され、物議を醸した1993年に私は在学していました。当時、内田春菊は漫画家として大きな成功を収めていて、1987年に単行本が発売され大ヒットした「南くんの恋人」は、「長崎南高校」を想起させるタイトルであったため、同級生の間でも人気を集めていました。

 書き出しから内田春菊の実存をかけた言葉の切実さが伝わってくる小説です。法の目の行き届きにくい西の外れの町=長崎を16歳で出て、写植工やウェイトレス、ホステスやクラブ歌手の仕事に就きながら、漫画家として世に出て、世間に名を知らしめた内田春菊のバイタリティの強さが感じられる強烈な作品です。

西日本新聞 me

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/714328/

内田春菊『ファザーファッカー』あらすじ

長崎と思しき「西のはずれ」の町に住む静子と妹、元ホステスの母と養父の生活を描いた作品。静子が育った家は穴だらけで、養父のほかにも鼠や蛇や野良猫が出入りする。養父はハイミナール中毒で精神病院に入院した過去を持ち、母や静子に理不尽な暴力をふるい、静子の妊娠をきっかけとして、養父の性暴力はエスカレートしていく。第4回Bunkamuraドゥマゴ文学賞受賞作。