「信じる者は救われる」という言葉が、年末になると街頭で耳にとまるようになる。年末は街行く人々が金や男や女など世俗的なツケの支払いに追われている、と見込んでのことだろうか。「そのようなものを追い、追われながら生きるのを今年で終わりにしませんか?」と呼びかけているのかもしれない。
だとしても「信じる」ことは、それほど分かちがたく「救われる」ことと結びついているのだろうか。二つの言葉の間には、埋めがたい溝が横たわっているように思える。「信じる者は救われる」という呼びかけに、年末ジャンボ宝くじの売り子の声が重なって聞こえるときなど、なおさらそう思う。
たとえばこの世で神を「信じる」ことで、あの世で神に「救われる」のだとすれば、その真偽がどうであれ二つの言葉の間には三途の川一本の飛躍がある。もちろん「あの世で救われる」からといって「この世で救われない」とは限らないのだろう。あの世で救われると「信じる」ことが、この世を生きる慰みとなって、この世で「救われる」こともあるのだろう。
だとしても私は、「信じる」ことというのは「救われる」こととではなく、「救われない」ことと結びついているように思えるのである。宗教に限らず、金であれ女であれ何であれ、そのようなものでは何一つ「救われない」という認識の果てではじめて、人は辛うじて何かを「信じる」ことができるのではないだろうか。たとえばある教義をよく学び、そのようなものでは「救われない」と思った人ほど別の教義を「信じる」ようになったり、ある男や女に「救われない」ほど騙されたことがある人ほど、別の男や女の何気ない良さに気付き、相手を「信じる」ことができるものではないだろうか。
つまり何かを「信じる」には、「救われる」ことではなく、「救われない」ことが不可欠と思うのである。だから私は、年末の街頭では「信じる者は救われる」と呼びかけるのではなく、「信じるほどに救われない」と呼びかける方が正しいと思うのである。
毎年のことながら、師走の賑わいの中で頭に浮かぶのは、椎名麟三が書いた次の一節である。
僕は人間を愛する。そして人間の不幸や憎悪を愛する。どこに人間の罪があるか。全く人間はいいのだ。ほろびるには余りにいいのだ。互に憎み合うには余りに立派すぎるのだ。そのために僕は神を強請するのだ。そして神が存在し、神が僕の前に現われることを全身をもって願うのだ。そして神が僕の前に現われさえすれば――僕はそいつを殺すことが出来るかも知れないではないか。全く運命を変えるには神を殺す以外にはないのだ。(「重き流れの中に」)
この一文には、ニーチェの「神の死」という言葉では割り切れないような「信仰」が刻まれている。「神を強請する」「全く運命を変えるには神を殺す以外にはない」という強烈な言葉には、永劫に回帰しても永劫に「救われない」ような自己への厳しい認識があり、その認識を突き抜けてなお「信じる」ものの強さが感じられる。ハイデガーが言うように、ニーチェの「神の死」とは、文字通り神が死んで「信じる」ものがなくなることを意味するのではなく、「神」と「人間」の境界が消滅して「信じる」ものの対照が拡散することを意味するのである。
ルカーチは小説とは「神に見捨てられた世界の叙事詩」であると述べている。そして小説とは、神に見捨てられた「救いがたい」世界の中で、その現実と個人の経験との間で「食い違う時間」を描くものであると述べている。これを踏まえて考えれば、小説家とは、このような「食い違う時間」を通して、「救われない」という個々の認識を、すり切り、使い古し、投げ捨てるほどに切り詰めた果てで、辛うじて「信じる」にたる何かを手に入れる存在と言えるだろう。
西村賢太は、このような意味で「信じる」にたる作家であると思う。私はこの作家を「一夜」という短い作品で知った。そこには金も定職もない男が「救いがたく」藤沢清造に惹かれる姿と、三十も半ばを過ぎてようやくまともに付き合うことができた女との「救いがたい」関係が、「食い違う時間」の中で描かれていた。そしてこの作品には、「救われない」という認識を、すり切り、使い古し、投げ捨てようとする「自覚」と、切り詰められた「笑い」が感じられた。
「信じるほどに救われない」作家のみが手にできる「自覚」と「笑い」がある。そして批評という文学の一形式も含めて、文学とはこのような「自覚」と「笑い」すらも、すり切り、使い古し、投げ捨てるほどに切り詰めた果てで、辛うじて「人類を今までになく強く結び合 わせ得るもの」を「信じる」ことができるような「救いがたい」ものだと思う。
西村賢太という作家は、「信じるほどに救われない」ものを背負っている。だから私は、この作家が現代を代表する「救いがたい」私小説作家の一人であると「信じ」ている。
だとしても「信じる」ことは、それほど分かちがたく「救われる」ことと結びついているのだろうか。二つの言葉の間には、埋めがたい溝が横たわっているように思える。「信じる者は救われる」という呼びかけに、年末ジャンボ宝くじの売り子の声が重なって聞こえるときなど、なおさらそう思う。
たとえばこの世で神を「信じる」ことで、あの世で神に「救われる」のだとすれば、その真偽がどうであれ二つの言葉の間には三途の川一本の飛躍がある。もちろん「あの世で救われる」からといって「この世で救われない」とは限らないのだろう。あの世で救われると「信じる」ことが、この世を生きる慰みとなって、この世で「救われる」こともあるのだろう。
だとしても私は、「信じる」ことというのは「救われる」こととではなく、「救われない」ことと結びついているように思えるのである。宗教に限らず、金であれ女であれ何であれ、そのようなものでは何一つ「救われない」という認識の果てではじめて、人は辛うじて何かを「信じる」ことができるのではないだろうか。たとえばある教義をよく学び、そのようなものでは「救われない」と思った人ほど別の教義を「信じる」ようになったり、ある男や女に「救われない」ほど騙されたことがある人ほど、別の男や女の何気ない良さに気付き、相手を「信じる」ことができるものではないだろうか。
つまり何かを「信じる」には、「救われる」ことではなく、「救われない」ことが不可欠と思うのである。だから私は、年末の街頭では「信じる者は救われる」と呼びかけるのではなく、「信じるほどに救われない」と呼びかける方が正しいと思うのである。
毎年のことながら、師走の賑わいの中で頭に浮かぶのは、椎名麟三が書いた次の一節である。
僕は人間を愛する。そして人間の不幸や憎悪を愛する。どこに人間の罪があるか。全く人間はいいのだ。ほろびるには余りにいいのだ。互に憎み合うには余りに立派すぎるのだ。そのために僕は神を強請するのだ。そして神が存在し、神が僕の前に現われることを全身をもって願うのだ。そして神が僕の前に現われさえすれば――僕はそいつを殺すことが出来るかも知れないではないか。全く運命を変えるには神を殺す以外にはないのだ。(「重き流れの中に」)
この一文には、ニーチェの「神の死」という言葉では割り切れないような「信仰」が刻まれている。「神を強請する」「全く運命を変えるには神を殺す以外にはない」という強烈な言葉には、永劫に回帰しても永劫に「救われない」ような自己への厳しい認識があり、その認識を突き抜けてなお「信じる」ものの強さが感じられる。ハイデガーが言うように、ニーチェの「神の死」とは、文字通り神が死んで「信じる」ものがなくなることを意味するのではなく、「神」と「人間」の境界が消滅して「信じる」ものの対照が拡散することを意味するのである。
ルカーチは小説とは「神に見捨てられた世界の叙事詩」であると述べている。そして小説とは、神に見捨てられた「救いがたい」世界の中で、その現実と個人の経験との間で「食い違う時間」を描くものであると述べている。これを踏まえて考えれば、小説家とは、このような「食い違う時間」を通して、「救われない」という個々の認識を、すり切り、使い古し、投げ捨てるほどに切り詰めた果てで、辛うじて「信じる」にたる何かを手に入れる存在と言えるだろう。
西村賢太は、このような意味で「信じる」にたる作家であると思う。私はこの作家を「一夜」という短い作品で知った。そこには金も定職もない男が「救いがたく」藤沢清造に惹かれる姿と、三十も半ばを過ぎてようやくまともに付き合うことができた女との「救いがたい」関係が、「食い違う時間」の中で描かれていた。そしてこの作品には、「救われない」という認識を、すり切り、使い古し、投げ捨てようとする「自覚」と、切り詰められた「笑い」が感じられた。
「二度はゆけぬ町の地図」は、「救われない」という点では、過去の西村の作品より遥かに切実なモチーフを扱っている。「唯一の救いはまだ若いこと」と感じるに至る労働と恋愛。「子供の頃から友人が少なく、自ら人との間に垣根をつくってしまう悪癖」を持ちながら、 拘置所で感じた仲間意識。「浮世とは、他人の耐え難きものを耐えての、果てなき行路のこと」との感懐から「普通の恋人」が欲しいと願う心持ちなど。ただこの作品は、過去の作品に比して「救われない」という認識が、そのモチーフ自体の切実さもあってか、切り詰められていない印象を受ける。そして作者は、この作品で扱った「救いがたい」経験を通して「信じる」にたる何かを手にすることを躊躇しているように思える。
椎名麟三は先の一節に続けて次のように述べている。
椎名麟三は先の一節に続けて次のように述べている。
全く壊滅は僕の発生に於て起こっていたのだ。そしてこの自覚だけが、僕を愛に於て人類へ強く結びつけているのを感ずるのだ。未来や不幸や憎悪を超えさせて行く僕の笑いもこの自覚から生じているのだ。そして僕は一日一日を生き延びているだけなのだ。しかしこの自覚は、人類を今までになく強く結び合わせ得るものであるかも知れない。しかし僕は知っているのだ。この自覚は僕のような平凡な会社員にしか生じないということを。そして神を殺そうとたくらんでいる笑うべき男にしか生じないということを。(同前)
「信じるほどに救われない」作家のみが手にできる「自覚」と「笑い」がある。そして批評という文学の一形式も含めて、文学とはこのような「自覚」と「笑い」すらも、すり切り、使い古し、投げ捨てるほどに切り詰めた果てで、辛うじて「人類を今までになく強く結び合 わせ得るもの」を「信じる」ことができるような「救いがたい」ものだと思う。
西村賢太という作家は、「信じるほどに救われない」ものを背負っている。だから私は、この作家が現代を代表する「救いがたい」私小説作家の一人であると「信じ」ている。