2009/08/11

西村賢太「二度はゆけぬ町の地図」書評

「文學界」2008年2月/西村賢太「二度はゆけぬ町の地図」書評/酒井信



信じるほどに救われないもの

「信じる者は救われる」という言葉が、年末になると街頭で耳にとまるようになる。年末は街行く人々が金や男や女など世俗的なツケの支払いに追われている、と見込んでのことだろうか。「そのようなものを追い、追われながら生きるのを今年で終わりにしませんか?」と呼びかけているのかもしれない。
 だとしても「信じる」ことは、それほど分かちがたく「救われる」ことと結びついているのだろうか。二つの言葉の間には、埋めがたい溝が横たわっているように思える。「信じる者は救われる」という呼びかけに、年末ジャンボ宝くじの売り子の声が重なって聞こえるときなど、なおさらそう思う。
 たとえばこの世で神を「信じる」ことで、あの世で神に「救われる」のだとすれば、その真偽がどうであれ二つの言葉の間には三途の川一本の飛躍がある。もちろん「あの世で救われる」からといって「この世で救われない」とは限らないのだろう。あの世で救われると「信じる」ことが、この世を生きる慰みとなって、この世で「救われる」こともあるのだろう。
 だとしても私は、「信じる」ことというのは「救われる」こととではなく、「救われない」ことと結びついているように思えるのである。宗教に限らず、金であれ女であれ何であれ、そのようなものでは何一つ「救われない」という認識の果てではじめて、人は辛うじて何かを「信じる」ことができるのではないだろうか。たとえばある教義をよく学び、そのようなものでは「救われない」と思った人ほど別の教義を「信じる」ようになったり、ある男や女に「救われない」ほど騙されたことがある人ほど、別の男や女の何気ない良さに気付き、相手を「信じる」ことができるものではないだろうか。
 つまり何かを「信じる」には、「救われる」ことではなく、「救われない」ことが不可欠と思うのである。だから私は、年末の街頭では「信じる者は救われる」と呼びかけるのではなく、「信じるほどに救われない」と呼びかける方が正しいと思うのである。
 毎年のことながら、師走の賑わいの中で頭に浮かぶのは、椎名麟三が書いた次の一節である。

 僕は人間を愛する。そして人間の不幸や憎悪を愛する。どこに人間の罪があるか。全く人間はいいのだ。ほろびるには余りにいいのだ。互に憎み合うには余りに立派すぎるのだ。そのために僕は神を強請するのだ。そして神が存在し、神が僕の前に現われることを全身をもって願うのだ。そして神が僕の前に現われさえすれば――僕はそいつを殺すことが出来るかも知れないではないか。全く運命を変えるには神を殺す以外にはないのだ。(「重き流れの中に」)

 この一文には、ニーチェの「神の死」という言葉では割り切れないような「信仰」が刻まれている。「神を強請する」「全く運命を変えるには神を殺す以外にはない」という強烈な言葉には、永劫に回帰しても永劫に「救われない」ような自己への厳しい認識があり、その認識を突き抜けてなお「信じる」ものの強さが感じられる。ハイデガーが言うように、ニーチェの「神の死」とは、文字通り神が死んで「信じる」ものがなくなることを意味するのではなく、「神」と「人間」の境界が消滅して「信じる」ものの対照が拡散することを意味するのである。

 ルカーチは小説とは「神に見捨てられた世界の叙事詩」であると述べている。そして小説とは、神に見捨てられた「救いがたい」世界の中で、その現実と個人の経験との間で「食い違う時間」を描くものであると述べている。これを踏まえて考えれば、小説家とは、このような「食い違う時間」を通して、「救われない」という個々の認識を、すり切り、使い古し、投げ捨てるほどに切り詰めた果てで、辛うじて「信じる」にたる何かを手に入れる存在と言えるだろう。
 西村賢太は、このような意味で「信じる」にたる作家であると思う。私はこの作家を「一夜」という短い作品で知った。そこには金も定職もない男が「救いがたく」藤沢清造に惹かれる姿と、三十も半ばを過ぎてようやくまともに付き合うことができた女との「救いがたい」関係が、「食い違う時間」の中で描かれていた。そしてこの作品には、「救われない」という認識を、すり切り、使い古し、投げ捨てようとする「自覚」と、切り詰められた「笑い」が感じられた。

「二度はゆけぬ町の地図」は、「救われない」という点では、過去の西村の作品より遥かに切実なモチーフを扱っている。「唯一の救いはまだ若いこと」と感じるに至る労働と恋愛。「子供の頃から友人が少なく、自ら人との間に垣根をつくってしまう悪癖」を持ちながら、 拘置所で感じた仲間意識。「浮世とは、他人の耐え難きものを耐えての、果てなき行路のこと」との感懐から「普通の恋人」が欲しいと願う心持ちなど。ただこの作品は、過去の作品に比して「救われない」という認識が、そのモチーフ自体の切実さもあってか、切り詰められていない印象を受ける。そして作者は、この作品で扱った「救いがたい」経験を通して「信じる」にたる何かを手にすることを躊躇しているように思える。
 椎名麟三は先の一節に続けて次のように述べている。
 
 全く壊滅は僕の発生に於て起こっていたのだ。そしてこの自覚だけが、僕を愛に於て人類へ強く結びつけているのを感ずるのだ。未来や不幸や憎悪を超えさせて行く僕の笑いもこの自覚から生じているのだ。そして僕は一日一日を生き延びているだけなのだ。しかしこの自覚は、人類を今までになく強く結び合わせ得るものであるかも知れない。しかし僕は知っているのだ。この自覚は僕のような平凡な会社員にしか生じないということを。そして神を殺そうとたくらんでいる笑うべき男にしか生じないということを。(同前)

「信じるほどに救われない」作家のみが手にできる「自覚」と「笑い」がある。そして批評という文学の一形式も含めて、文学とはこのような「自覚」と「笑い」すらも、すり切り、使い古し、投げ捨てるほどに切り詰めた果てで、辛うじて「人類を今までになく強く結び合 わせ得るもの」を「信じる」ことができるような「救いがたい」ものだと思う。
 西村賢太という作家は、「信じるほどに救われない」ものを背負っている。だから私は、この作家が現代を代表する「救いがたい」私小説作家の一人であると「信じ」ている。


2009/08/03

映画「グッバイ・レーニン」評論

 扶桑社「en-taxi」 2004年3月掲載

映画「グッバイ・レーニン」評論/ グッガイ・レーニン

  人は地球の重力から離れて暮らすことは好まないが、地球の重力を遠くまで及ぼすための努力は惜しまない。人はロケットや宇宙船に乗って地球から離れても、この事実のために地上で感じるのと同じ悩みを抱き続ける。
 たとえ人が火星だとか冥王星だとか他の惑星に移住するようになったとしても、人はその惑星から何らかの地球の価値を搾り出そうとするだろうし、また、たとえ地球から離れたところに火星人だとか冥王星人だとかが見つかったとしても、人はそれら異星人から何らかの地球の価値を搾り出そうとするだろう。
 哲学者の下村寅太郎は、近代科学とは「自然を拷問して自然自身に答へさせる」ことであると述べているが、近代、このような科学的認識を手にした人は、未知の自然と出会うと、それを拷問にかけることで、既知の地球の価値を搾り出してきた。人が近代科学を燃料にして地球を遠く離れる限り、地球の自然は広がり、地球の重力は遠くまで及ぶ。
 ただこれは人による自然の征服を意味するのではない。処女惑星に地球色の旗が立てられることは、人による新たな分割競争の始まりを告げる合図に過ぎないのである。
『ヘビー・メタル』という映画がある。手塚治虫、『AKIRA』の大友克洋ら日本の漫画家・アニメーターに影響を与えたアメリカのSFアニメである。
「ソフト・ランディング」と題された映画の冒頭シーン。一台のスペースシャトルがある惑星の軌道に入る。シャトルのハッチがゆっくりと開き、宇宙服を着た運転手が乗る一台のアメ車が真空に投げ出される。車はゆっくりと大気圏に突入し、火の玉のように熱を帯びる。運転手は動じることもなく、レバーを引き、後部座席のパラシュートを開くと、クールに地上に着陸する。アメ車は荒野を疾走し、セイム・オールド・アメリカンな大草原の我が家へ帰っていく……。
 この映画の冒頭シーンにはリアリティがある。近代科学を燃料にして、地球を遠く離れた惑星に作られた「アメリカの自然」が持つリアリティ。
 アメリカは近代の幕開けと共に歴史をはじめた国である。一九世紀末に国内のフロンティアの開拓を終えたアメリカは、二〇世紀初頭、帝国主義国家にとって最後の自由な土地とされていたアジアに進出する。その後、一次大戦でヨーロッパの先進帝国が相争ったのを契機に、大西洋越しにヨーロッパへの金融上の主導権を確立。第二次大戦では、同じ後発の帝国、ドイツ・日本の両帝国を退け、世界の分割競争の主役に踊りでる。戦後は、ソビエトととの対立を契機に、日本やイギリス、西ドイツなどのヨーロッパ諸国との結束を固め、石油湧き出る中東・中央アジアを中心に、世界の分割競争を有利に進める。現在、軍事・情報技術のみならず、それを支えるヘッジ・ファンドなどの金融資本で世界を動かすアメリカは、正に分割競争の勝者であり、日本やイギリス、西ドイツなどのヨーロッパ諸国はその恩恵に与る国である。この過程で「アメリカの自然」は作られ、世界に浸透してきた。
 一九一六年、レーニンは『帝国主義論』で、当時のアメリカで発達したトラスト・カルテルなどの独占資本の形態を分析し、「アメリカ式風習は、金融資本の時代(帝国主義の時代)には、あらゆる国の大都市の風習となった」と述べている。
 彼の分析は今も正しい。アメリカ式の金融資本は世界を覆い、アメリカ式の風習は世界に広まった。ソビエト崩壊前夜の一九九〇年一月、ソビエトにもマクドナルド一号店ができ、フォーク並びの大行列ができた。その日、マクドナルド・モスクワ店は、マクドナルド史上、最も多い来客者数を記録したという。
 処女惑星に星条旗が立てられることは、そこにアメ車が走ることと同じであり、その惑星のマクドナルドにフォーク並びの行列ができるのと同じである。そこでは大気圏から火の玉と化して舞い降りてくるアメ車の姿は、神々しく見えるに違いない。
 もちろんこれは新たな分割競争のはじまりを告げる合図に過ぎない。ある惑星に立てられた星条旗は日の丸に変わり得るし、その惑星のマクドナルドはフレッシュネス・バーガーに変わり得る。しかし近代史にピリオドが打たれない限り、その申し子である「アメリカの自然」は変わりはしない。ある惑星に地球色のネオンが灯ることは、自然を拷問にかけて「アメリカの自然」を吐かせる競争のスタートの合図に過ぎない。

 しかしこのことと逆のイメージが人気である。異星人によって地球が拷問にかけられて、「アメリカの自然」が搾り取られるのではないか、と。アメリカ生まれの紋切り型のSF映画は、すべてこの発想から作られている。しかし、そもそも地球に来るほどの技術を有した異星人がいるとするなら、目的もなく地球を攻めるほど馬鹿ではない。来るとしたら異星人も人と同様に、地球から何らかの価値を搾り出そうとして来るはずである。だから問題は地球に来るほどの技術を有した異星人にとって、地球から搾り出すことができる価値とは何かということになる。しかし異星人にとっての地球の価値など、人に分かるはずがないから、想像するしかない。何を手掛かりに想像すればいいのか。それは突飛なものを持ち出すにしても、レーニンが「共産主義の時代には便器は金でできる」といったように、何かしらの形で地球の価値を参照にして、適当なものを捻り出す以外にありえない。だから問題は一つ、人にとって地球の価値とは何かということである。
 紋切り型のSF映画は、この問題を誤魔化している。人を食べるように襲う地球外生命体から、隷属的に地球を支配しようとする異星人まで、地上のものごとを適当に切り貼りした姿を異星人に押し付けることで、地球の価値の問題を誤魔化しているのである。UFO学者・矢追純一は、アメリカ人は宇宙人であると述べていたが、これだけは惜しい。確かに「映画に出てくる大半の」宇宙人は、古きよきアメリカのナショナリティを着せられている。しかし彼らも「地球の重力から自由な異星人」ではないのである。
 SF作家カート・ボネガット・ジュニアは「アメリカ人の多くは、みやげもの店で買う品物から意味のある人生を形成しようとするタイプ」だと述べている。この言葉ほど宇宙に繰り出す近代人の姿を言い当てている言葉はない。アメリカ人に限らず、「アメリカ式風習」を身につけた近代人は、やがて遠く地球から離れた惑星へと繰り出し、自然を拷問にかけて「みやげもの」を吐かせ、そこから人生なり生活なりを形成するだろう。

 『グッバイ・レーニン』という映画を観てきた。
 舞台は東西統一直前の東ドイツ(ドイツ民主共和国)である。一九八九年一〇月、東ドイツを誇りにしていた主人公の母親が、改革を求めるデモに参加している息子=主人公の姿を見てショックを受け、昏睡状態に陥る。その後、母親の意識が回復しない間に、ベルリンの壁が崩壊。八ヶ月後、母親に意識が戻るが、もう一度ショックを与えると一命に関わるという診断を受ける。息子は、東ドイツが崩壊状態にあることを母が知ってショックを受けないように、母親を外界から隔離し、偽の報道番組を作るなど、東ドイツの体制が健在であることを懸命に装う……。
 話の詳細については触れないが、この映画は、東ドイツの崩壊を、体制側にいた母親の視点から描いた映画である。巧まれたタイトルで、「グッバイ」というアメリカンな別れの挨拶には、東側の体制=社会主義と別れ、西側の体制=自由主義になった喜びというより、母親が生きてきた東ドイツの歴史と、その中で彼女が保持していた「理念」と別れることへの哀愁が込められている。
 政治体制が劇的に変化する中、限定的な場所に純粋な旧体制の理念を保持させ、そこに生じる悲喜劇を外堀から浮かび上がらせていく手法は、ユーゴスラビアの近代史を猛ダッシュで描いた傑作『アンダーグラウンド』と似たものだといえる。ただこの映画は、「レーニン像」を映画の遠点に立てることで、東ドイツだけではなく共産主義の理念自体をテーマにしている点で、新鮮である。製作者は「この映画が語られるには一〇年の月日が必要だった」と勿体ぶった言い方をしているが、確かに冷戦終了から十年強の時間が経ち、「アメリカの自然」が大きく広がった後で、共産主義の「理念」をテーマした意味はでかい。「理念」の一点から滴るユーモアと哀愁は甘くも苦いが、うまく、素晴らしい映画である。

 映画のキーとなっている「レーニン像」には、一般に二つの姿がある。一つはレーニンの死後、スターリンが書記局を手中に収め、独裁的な人事で指導権を確立した後に作られた威圧的な姿、銅像となった「レーニン像」。もう一つはトロツキーのような側近の人物の回想録だけではなく、レーニン自身の著書や議事録などを、先入観なしに読めば、誰もが感じるような理念的な姿、生きた理念としての「レーニン像」。
 映像にはわずか二回しか「レーニン像」は現れない。しかし「レーニン像」はタイトルとして、あるいはテーマとして映画全体の「遠点」で鈍く輝いている。
「レーニン像」が最初に登場するのは、オープニングのスタッフ・ロールで、ここにはポスターに描かれた様々なレーニンの姿が、目くるめく登場する。これはレーニンの死後、スターリン体制になり、工業生産を上げたり、線路を敷設するなどの宣伝のために作られたものであり、レーニンの姿を象徴的に利用したものである。これらのポスターに描かれている「レーニン像」は、同じポスター内の大衆一人の大きさと比べて100~300倍位の大きさで描かれており、円谷プロが描く巨大化した異星人のように大衆の前に君臨している。しかも「線路、敷け!」「炭鉱、掘れ!」といった、熱のこもった、しかし一行で言われても「うん、わかった」とは言い難い文句が並べられているため、死んだレーニンの威光を借りて理不尽な命令を下しているように見える。このようなポスターが作られたのは、識字率が低く、多民族が混交していたソビエト全土に、低予算で政策を告知するためである。
 もちろんレーニン自身はこのような異星人の姿とは異なる。彼が先のポスターを見たら激怒して頭頂部まで赤めていたことだろう。レーニンは革命家にとって最大の危険を「革命性の誇張」であると考えていた。彼は自分自身を誇張することや、革命の達成を誇張すること、まして自己を神格化すること、革命を神々しく祭り上げることを厳しく批判していた。彼自身も自分の実践に誤りがあれば、その誤りの原因を明らかにした上で反省し、それを公に認めていた。中野重治の『レーニンの素人の読み方』の言葉を借りれば、レーニンは「二た月あとには革命が来るというようなことを生涯にわたって考えたことのなかった人」であった。彼はロシア革命後も驕ることなく、「明日にもそれがそれが起こりうる条件の下ごしらえのため」に、少数民族の自治の問題や、農村の都市の格差の問題など、ロシア固有の条件について研究を欠かさず、柔軟な政策を敷くことで、これに対処し続けた。音楽家テルミンが、「レーニンと約束したからね」と、自己の立場が悪くなることも顧みず、崩壊寸前のソビエト共産党に入党し、最後の共産党員になったのも、レーニンのこのような真摯な姿勢に応えたかったからであろう。
 テルミンに限らず、初期ソビエトの文化隆盛は、このようなレーニンの姿と結びついている。レーニンは自らを実務者として考え、理念に関わることや予算的なこと以外は、文化・表現に対して口を挟まず、裏方でそれを支援することに徹した。だから初期ソビエトは、先のスターリン体制下のポスターのように表現が画一化・硬直化することなく、前衛芸術運動を展開することができたのである。構成主義に代表される前衛美術や、演出家のメイエルホリド、その弟子であった映画監督のエイゼンシュテイン、文芸ではゴーリキーやマヤコーフスキーなど、初期ソビエトの影響下で育った人たちは、シュルレアリスムやバウハウスをはじめ、二〇世紀の芸術潮流に決定的な影響を与えた。間接的な影響を含めれば枚挙に暇がない程である。

 ただレーニンその人に目を近づけすぎると、東ドイツの「レーニン像」が視界から外れてしまう。
 東ドイツを含むドイツの前身は、言うまでもなくナチス・ドイツである。ナチス・ドイツは、東方の肥沃な国土と豊富な資源獲得のために、早くから東方進出を想定し、ソビエトとの対決を想定していた。一九四一年、ドイツ軍はモスクア近郊まで迫るが、シベリアからの援軍と、冬将軍のため、撤退。一九四二年、再びソビエトへ向かうが、翌年、スターリングラードで大敗、クルスクの戦車戦にも敗れ、これを契機にナチス・ドイツは敗走を重ねる。これに対し、ソビエト軍はナチス支配下にあった東欧諸国を次々と自国の勢力下に加えながら西進し、一九四五年、ベルリン入城を果たす。戦後、ソビエトは米英仏と共にドイツの共同管理国となるが、占領政策で対立し、一九四九年、自国の管理地域であったドイツ東部を、ドイツ民主共和国(東ドイツ)として独立させる。その後、東ドイツに対して多額の賠償金を請求し、この返済に追われた東ドイツ経済は低迷する。一九五〇年代に入ると、国家保安省による抑圧が行われるようになり、西ベルリン経由で西ドイツへ亡命者が急増。このため一九六一年、ソビエトはベルリンの壁を建設し、東西ドイツを完全に分離する。一九六〇年代、東ドイツは、ソビエトへの賠償金の支払いを終え、新経済政策を成功させて経済復興を果たし、旧東側諸国で最大の工業国となるが、その後も西ドイツとの経済格差は広がり、次第に西ドイツ経済に依存する関係が生じたため、一九八九年、統一の機運が急速に高まり、翌年、東西ドイツは統一される。

 このような歴史に目を近づけてみると、レーニンその人の姿は霞んで見える。「レーニン像」は、先の社会主義リアリズムのポスターのように、東ドイツ国民を前に、異星人として、あるいは外側から人々に与えられた体制の象徴として、君臨しているように見える。
 しかし私たちはそれをどこから見ているのか。
「アメリカの自然」育ちの私たちは、結果から歴史を見る目に慣れ過ぎている。「ある国の国民がどうだった、ある国の体制がどうだった」と言えるのは、結果から歴史を見たときだけである。東ドイツの生きた歴史の中に、あるいは生活の中に、遍在していた「レーニン像」というのもあったはずである。紋切り型のSF映画で、人が立ち上がり、倒さねばならないような、異星人としての「レーニン像」ではなく、人であろうと、異星人であろうと、他人に倒されることのないような、ある人の生を捉えていた「レーニン像」があったはずである。映画のオープニングで目くるめく登場する「レーニン像」は、パラパラと様々な姿で現れることで、このような仕方で遍在していた「レーニン像」を描くことを予告しているように思える。

 オープニングの他に、唯一「レーニン像」が登場するのが、母親が隔離された部屋を出て外出し、セクシーな看板など、それまで東ドイツになかったものを見た後のシーンである。母親は道すがら、東ドイツの象徴であった「レーニン像」が、どこかへ空輸されているところを目撃する。「レーニン像」は右手を前に出しており、これが空輸されて母親の方に近づいて来ると、ちょうど母親を空に誘っているように見える。「カモン(こっちこいよ)」、と。これを見た母親はただ立ちつくし、呆然としている。
 映画を観ていたとき、唯一、このシーンだけが、いかにも取って付けたような感じがして、白けた。しかし後のシーンからこのシーンを考え直したとき、このようなシーンが現実にはありえなくても、あるいは仮にこれが母親が見た幻覚であったとしても、どっちでもいい、どうでもいい、リアリティがあるから、と思った。生きた理念が持つリアリティが感じられたから、と。
 このシーンより後のシーンで、息子が偽のニュース番組を作り、先に母親が見た街の様子を説明する場面がある。息子は「東ドイツ人が自由を求め、西ドイツに殺到している映像」を上手く編集して、「西ドイツで経済恐慌が起こったため、西ドイツ人が難民となって東ドイツへ殺到している映像」に仕立てて、母親に見せるのである。こうすることで息子は、先に母親が外出したときに見たセクシーな看板やレーニン像の姿を、「西ドイツ難民」がやったいたずらだと説明する。
 しかしこれに対し、母親は先の街の様子がいたずらだったかどうかは、全く気にかけない。ただ彼女は「西ドイツ難民」のことだけを気にかける。彼女は西ドイツで恐慌が起こったことを気の毒に思い、「私、部屋を貸すわ」と言い、「西ドイツ難民」に自分の家の部屋を無料で貸そうと提案するのである。周りの家族はこの言葉に驚いて、適当にその場を取り繕うが、数日後も母親は繰り返し言う。「西ドイツ難民を受け入れて」と。
 つまり彼女にとっては、「レーニン像」が倒されようと、倒されまいと問題ではなかったのである。彼女にとっては、ただ恐慌で苦しむ「西ドイツ難民」だけが問題であった。  
 このような彼女の姿に触れたとき、私は先のシーンで「レーニン像」が空輸されているのを見たときの彼女の姿を、間違えて捉えていたことがわかり、考え直した。彼女はショックで立ち尽くし、呆然としていたのではなく、全く動じていなかっただけなのだ、と。彼女にとって銅像としての「レーニン像」はどうでもいいものだった。彼女にとって、理念としての「レーニン像」は、生きた東ドイツの歴史と、生きた東ドイツの生活の中にあった。「私、部屋貸すわ」という、とっさの一言の中に生きていた。
 もちろん東ドイツの住宅事情から、これを説明することもできる。戦後、ソビエトは自己の管理区であった(後の)東ドイツでいち早く土地改革を行い、プロイセン以来のユンカーによる土地支配を一掃した。そのため、東ドイツの家賃は無料に等しく、土地を私有するという概念自体がなく、また古い建物が多かったとはいえ、東ドイツの住居は広かった、と。
 しかし自分の家に「難民」を受け入れることは、簡単なことではないだろう。私たちは簡単ではないことを、簡単に見てしまう目に慣れ過ぎているのである。

 ロシア革命の前年の一九一六年、『帝国主義論』を書いたレーニンは既に「アメリカの自然」を見ていた。彼は同時代の誰よりも、誰もが当たり前のように見ている「自然」の意味を理解していた。彼は「帝国主義は政策ではない」と述べ、帝国主義国家に政策を変えろ、平和にやれ、といっても何も解決しない、無駄だ、と考えていた。また、彼は「あつかましい公然たる帝国主義者はめったにあらわれない」とも述べ、帝国主義者というのは、どこかに旗を立てるやり方で他国を侵略する人ではなく、どこかの旗の色を変えるやり方で他国を侵略する人であると考えた。そしてこのような帝国主義の時代には「社会排外主義」が最も有害であると述べ、「社会排外主義」を、言葉の上で「社会主義」であり、行動の上で「排外主義」であると考えた。
 私たちは「社会主義」を言葉の上で考えていないだろうか? あるいは「排外主義」ではない行動が簡単にできると思ってはいないだろうか? 難民を前にして「私、部屋貸すわ」という一言が、とっさに言えるだろうか? たとえどんなに地球から遠く離れても、そこに「アメリカの自然」がある限り、私たちの生活なり、人生には言葉の上の「社会」と、他人を「排外」することに起因する悩みがついて回ることを忘れてはいないだろうか?

 ロシア革命は簡単な事件ではなかった。地球の重力に乗せる価値を変える試みであった。レーニンはそれまで地上になかった旗をソビエトに立てようとしたのでも、地球の重力を変えようとしたのでもなかった。彼は、どんなに地球を離れても遠くまで及ぶ重力に、自己の理念を現象させようとしたのである。それは難民を前にして「私、部屋貸すわ」という言葉をとっさに言わせるような重力であった。
 私たちは実践的生き方ばかりに目を向けるから、理念的な生き方を見過ごしてしまう。理念的な生き方に目を向ければ、実践的な生き方を見過ごすことはないのに。
 たとえ地球を遠く離れた「アメリカの自然」の上であっても、「レーニン像」は巨大化した異星人の姿ではなく、人の姿で生きた「歴史」や生きた「生活」の中に遍在しうる。だから私たちは、このことを忘れないために、とりあえずは「アメリカンに自然(ナチュラル)な言葉」で、こう言うことからはじめなければならない。
グッガイ・レーニン!(Good guy Lenin !)、と。

2009/07/27

浅羽通明著『昭和三十年代主義』書評

■文芸春秋 「諸君!」 2008年9月号

浅羽通明著『昭和三十年代主義』書評 酒井信

昭和の時代を24時間に換算すれば、昭和52年生まれの私は19時50分頃に生まれた計算になる。仕事を終えて帰宅し、食事も平らげて一休みしている頃と言えるだろうか。私が過ごした幼年期は、オイルショックから経済が復調へと向かい始めた「安定成長期」で、夕食後のひと時のように穏やかな時代であった。私の「昭和」の記憶は、このような穏やかな時代にはじまり、未曾有の繁栄を遂げたバブル経済の最中で幕を閉じる。平成元年度に小学校を卒業し、中高大の計十年間を「日本経済の失われた十年」の中で過ごしてきた私にとって、「昭和」の時代の記憶は遠く朧気であるが、懐かしく良いものである。
著者によれば「昭和三十年代」はすでに十年来のブームで、現在では若い世代ですらこの時代を「懐かしい」と感じているという。「バブルの頃は良かった」「今はもう政治もダメ、経済もダメ、若者もダメ」という類の話を、大人たちから聞かされながら育ってきた人たちにとって、「昭和」は「平成」よりも受け入れやすいのかもしれない。
著者は「昭和三十年代」ブームをことささらに肯定したり否定したりするのではなく、すでに若い世代がそうしているように、このような「懐古」を必要としている現実をそのまま受け入れている。そして著者は、年配の読者に阿るのでもなく、また若い読者に迎合するのでもなく、「昭和三十年代」ブームについて冷静に分析しながら、そのブームを必要としている現代の社会について分析を深めていく。著者によれば現代の日本の社会は次のようなものである。「誰もが絶えず秀でた者をひきずり下ろそうと妬んでいる社会。誰もが絶えず何かを消費して自己を確認しないと不安な社会。言い換えればそれは、全ての人が現在の自分に自足できないで、常に不満を抱いている『不満社会』なのです。足るを知らないのだから、不満は永遠に満たされず、従って欲望には際限がなくなります」と。
この論旨は多くの人が同意できるものであろう。ただ興味深いのは、著者がこのような「不満社会」の現状を打破すべく、「昭和三十年代」ブームを援用するときの考え方である。
「古代や中世では、エデンの園とか堯舜の世とか神武天皇とか、世の始原なる過去にこそユートピアは存在し、以後は堕落した末世だと批判するのが、社会思想のむしろ定番でした。
そんなユートピアが史実として確認できない以上、これは明らかに「過去の捏造」です。
 だがそのユートピアが、世の中のあるべき姿を巧に示し、現在を批判し、あるいは改革する基準を提供するものならば、それが捏造か史実かは大して問題ではありません。<中略>
 理想を基に捏造された「ユートピア過去」ならば、それは、あるべき未来像の一つが記述の技法上の都合で仮に過去へ託されて提示されたのと変わらないでしょう。そう。「過去の捏造」とは即、「未来の構想」にほかならないのです。」
 つまり著者は、ただ「昭和三十年代」を復古するのではなく、「過去に遡りながら未来を切り開く方法論」を復古しようとしている。だとすれば、なぜ著者にとって、このような復古の対象が「昭和三十年代」でなければならないのだろうか。
この本が扱っている「昭和三十年代」は、昭和の時代を24時間に換算すれば、11時25分頃から14時50分頃の真昼の時間にあたる。そしてこの時代は、まだまだ貧しくはあったが真昼の太陽に照らし出されたような明るさに充ち、人々には希望があふれ、人情に事欠かない時代、と理想化される。ただ、このような理想化されたイメージは、著者も指摘しているように「豊かで便利で無臭の平成」が作り出したテーマパークのような幻想であり、「昭和三十年代ごろの切実な生活感」を欠いている。著者の言葉を借りれば「昭和三十年代」は「本当に、汚く、不便で、貧しく、粗野ないじめが蔓延り、人情のしがらみが濃い鬱陶しい時代」であり、また「金馬銀歯を光らせた大人たちは、何かといえば、戦時中や終戦直後の苦労話をふりかざしては、『おまえたちは恵まれている』と小うるさい説教を垂れ」ていた時代でもあったという。ただ、著者はこのような批判を踏まえた上でも「昭和三十年代」には残る魅力があると考え、論を展開している。
 中でも印象的なのは、福田恒存の「消費ブームを論ず」を踏まえた考察である。この短文で福田恒存は「消費ブーム」の兆しが見え始めた昭和36年当時の社会を「おたがひに相手に附合ふ切掛けもよすがも失つてしまつた」社会であると評している。そして「人間は生産を通じてでなければ附会えない。消費は人を孤独に陥れる」と述べている。著者はこのような福田の批評を踏まえながら、現代社会の問題を「おたがひに相手に附合ふ切掛けもよすがも失つてしまつた」人間の「孤独」の問題として捉えている。そしてさほど成長の見込めない日本の社会は、貧しくなってでも「互いを『必要』とする『生産』の協働体」を構想することで、現代人の「孤独」と向き合う必要があると唱えるのである。
「希望」や「人情」ではなく「必要の絆」がなくなったことを現代の特徴と考える著者の視点はユニークである。確かに、一般には「希望」や「人情」が昭和三十年代にあり、現代にはないと考えられるが、平成の現代の方が、際限・分限を欠いた「希望」はあふれ、メールをマメに返信して友達関係に気を遣うような「人情」にも事欠かない。この点については私も「平成人(フラット・アダルト)」という著書で考察したのでよく分る。現代社会を生きる私たちは、「必要の絆」がなくとも生活できる便利さを手に入れた反面、「おたがひに相手に附合ふ切掛けもよすがも失つてしまつた」のであり、誰にも「必要」とされない「孤独」を社会の宿痾にしてしまったのである。
私たちは「必要の絆」を軸にして社会を再構築することで、多くの問題を解決できるのかもしれない。「昭和」の時代の記憶が遠く朧気な私でも、「必要の絆」による変革を信じさせるに十分な一冊であった。