8月7日発売の文藝春秋の文学界9月号に「吉田修一論 都市小説の訛りについて」というタイトルの批評文を書きました。芥川賞特集の下の方、「10年代の入り口で 文学界2010」のところに載っています。30ページぐらいの分量です。
http://www.bunshun.co.jp/mag/bungakukai/
吉田修一さんは、長崎南高校の先輩にあたる人で、実家も「同じ山の斜面」にあるので、文化圏というか、言語圏が同じです。「water」で描かれているプールで泳いでましたし、「長崎乱楽坂」の雰囲気は、私が生まれ育った町の雰囲気でもあります。なので今回の批評文は、「吉田作品の訛り」について「ネイティブ」らしい視点から展開しています。もちろん吉田作品に馴染みがなくとも、作品から独立した作品として読めますので、ぜひ手にとってみてください。
吉田作品で実家として描かれる「酒屋」の前の道は、高校の通学路の一つでした。「一つ」というのは、吉田修一さんと私が通った高校は、ちょうど長崎港が見渡せる小山の山頂近くにあったので、私は行きはバスを使って、帰りは気まぐれに路地を選びながら山を下りていたわけです。小説でも描かれていますが、長崎南高校のある山から見渡す長崎港の景色は、「東京に行くのを止めようか」と思うほど美しいです。
思えば、あの酒屋でジュースやビールを買った記憶もあります。一休みするのに、ちょうどいい感じの場所にあるのです。長崎の酒屋では、仕事上がりの職人がつまみを買って飲んでるので、時間によっては酔っ払いに絡まれることもありますが、それはそれでよい勉強になります。その下には龍馬伝で舞台になっている丸山(旧遊郭街)がありますが、あのあたりには成人映画のポスターが各電柱に貼られていたので、それもまたよい勉強になりました。あと長崎は平地が少ないので、路地の中に急に墓場が現れてきますが、毎日の下校が肝試しみたいになるので、お得です。たまに墓から変質者も出てくるので、スリル満点です。
そういう話は本論と関係ないですが、長崎の人らしい「訛り」にも着目した「吉田修一論」をぜひ読んでみてください。柳田国男とか漱石とかフロイトとかルカーチとか江藤淳とかも出てきますが、文芸批評に馴染みのない人にも読みやすい文になっていると思います。
この批評文を皮切りに、文芸誌では現代の日本の小説について批評文を書いていきます。現代版の「成熟と喪失」をやります。江藤淳の「成熟と喪失」は、その概念を借用してあれこれ言う類の作品ではなく、実践する類の作品だと思うので。同時代の小説と向き合いながら、現代の文芸批評の基準を示していきます。