2011/11/26

『IT時代の震災と核被害』(インプレスジャパン、共著)に「海外メディア報道と日本の情報公開 『歴史上成功した唯一の社会主義国家』の危機」という原稿を書きました。この原稿は以前「新潮45」に寄稿した「世界が目撃したフクシマ」という原稿を2.5倍ぐらいの分量に加筆・改稿したものです。twitterで知り合ったフリー編集者の斎藤哲也さんが上の原稿を読んでくれて声をかけてくれました。当初の企画よりも、内容が充実していて、手前味噌ですが、これで1800円+税はお買い得と思います。
http://www.impressjapan.jp/books/3114


私の原稿は、海外のメディア報道の中から「特徴的な報道」を取り上げながら、日本のメディアとは異なった文脈で「将来の日本のあり方」について考察したものです。他にも震災と原発事故後のITの活用事例や、ウェブ・コミュニティの動向など興味深い原稿がたくさん収録されていますので、興味をもたれた方はぜひご一読下さい。上のインプレスジャパンのサイトでも期間限定でコンテンツの一部が立ち読みできるようです。

私の原稿についても、立ち読み程度に以下、序盤の結論部(2章)から少しだけ抜粋します。

<略>

なぜ日本のメディアは、原発事故後、WSJ(ウォール・ストリート・ジャーナル)やIHT(インターナショナル・ヘラルド・トリビューン)のように、現場の作業員に焦点を当て「day workers」を賞賛するような報道を、積極的に行わなかったのだろうか。

そもそも原発事故以前から、原発内部での日雇い労働者の健康被害の実態については、ウェブ上で問題視する声が上がっていた。しかし日本のメディアにとって東京電力は大口のスポンサーであるため、電力事業にマイナスイメージを与えるような報道は、積極的に行われてこなかったのだ。独占企業に近い日本の電力会社には、そもそも巨額の広告料は不必要なはずなのだが、日本の電力料金は総括原価方式で算出されているため、電力会社は多額の広告費を原価として計上しても、常に3%の利益を確保できる。このため、電力会社は潤沢な広告費を使用してメディアに影響力を行使してきたのである。実際にメディアの現場で電力会社が強い影響力を行使していることは、私も通信社や広告代理店の知人から詳しく聞いたことがある。いずれにしても、事実として日本の国民は高い電力料金を支払い続けることで、電力会社の高い広告費を支え、電力会社のメディアへの影響力を許容してきたのである。

このような事情もあり、福島第一原発事故後、日本のメディアは作業員が身を挺して危険な現場で働くことを、どこか「空気のように当たり前のこと」として報道してきたのだと思う。だから原発事故直後においても、日本のメディアは被爆の危険を冒して福島第一原発で働く作業員について、欧米のメディアのような積極的な報道を行ってこなかったのだろう。

もちろん日本の国民は、これまで行政の原発推進政策に対して相応の税負担を行い、電力会社に対して高い電力料金を支払い、相応のコスト負担を行ってきた。この額は原発の安全確保の保証金としては十分すぎるものだろう。だから日本の国民が安全確保を怠った行政と東京電力の責任を追求することは当然の権利である。しかし現場の作業員に対する関心の低さには、このような責任問題を超えた「日本的な問題」も横たわっているように思えるのだ。

先のWSJの記事によると、インタビューに答えた現場の作業員は、自らを神風特攻隊に喩えている。「声がかかったら『行きます』と応えるしかない。他人のために命を犠牲にした神風特攻隊のことを考えると心が穏やかになるのです」と。

原発事故後、識者のコメントの中には、今回の被害状況をアジア・太平洋戦争の被害との類比で語る内容が多かった。しかし戦時中と類似しているのは、国土の被害状況以上に政治的空白の中で、根本的な事態の解決を「現場の努力」と「若い作業員の献身」に委ねてしまうような「日本の空気」そのものではないだろうか。日本のメディア報道の影響下にあるとはいえ、どこか日本に住む私たちは、現場の作業員の献身によってもたらされた原発事故の事後処理の進展を、「他人事」のように享受してきたのだ。そしてこのような現場の作業員に対する「他人事」のような感覚は、これまで原発を大都市圏から遠いところに建設したことと、どこか地続きの問題であるように思えるのだ。

私たちは戦後日本の特殊なメディア環境に慣れる内に、いつの間にか戦時中と同じ問題を反復し、「現場の努力」と「若い作業員の献身」を空気のような当たり前のものとして、受容しているのではないだろうか。