西日本新聞朝刊(2025年7月16日)に、第173回直木賞展望(西田藍さんとの対談記事)が掲載されました。今回は良い候補作が多く、私の評価では、1位が塩田武士さんの『踊りつかれて』、2位が夏木志朋さんの『Nの逸脱』、3位が青柳碧人さんの『乱歩と千畝 RAMPOとSEMPO』と芦沢央さんの『嘘と隣人』でした。逢坂冬馬さんの『ブレイクショットの軌跡』は5番目の評価となりましたが、前回の候補作『同志少女よ、敵を撃て』を上回る出来栄えだったと思います。
作品の多様性、表現の幅の広さともに、充実しており、文芸の世界で次々と新しい才能が開花している現状は、慶賀すべきことだと思います。
第173回直木賞は誰に?【直木賞候補作とあらすじ】
https://www.nishinippon.co.jp/item/1376641/
Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/articles/2eaa2de393b4a9d9d97978c0e8c203f7e8841c26
対談用の5作品のメモ(本文の内容とは異なります)は下です。
逢坂冬馬『 ブレイクショットの軌跡』 早川書房
・日本で製造されたSUV、ブレイクショットをめぐる物語。前回のノミネート作『同志少女よ、敵を撃て』よりも登場人物が多く、完成度が高い。
・アフリカの少年兵の戦闘シーンや、ファンドの敵対的買収の失敗の舞台裏、投資をめぐる特殊詐欺、同性愛のサッカー選手の結婚に至る人生、NFL選手の不適切発言による炎上など、題材にリアリティがある。
・オンライン上のコミュニケーションの拡大と、経済のグローバル化を視野に入れ、日本を舞台に、従来、文学作品で取り上げられなかった題材を、SUVブレイクショットを軸に上手く網羅している。
・「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる」など、金言と物語が符合している点も面白い。
・大風呂敷を広げ、現代的な様々なテーマを展開し、物語として出口を示す筆力は高い。このような小説を数作書き、経験を重ねれば、直木賞を獲得できる作家だと思う。
青柳碧人『乱歩と千畝 RAMPOとSEMPO』 新潮社
・映画「フォレストガンプ」や映画「国際市場で逢いましょう」のように、乱歩と千畝が同時代の著名人たちとすれ違いながら成長していく物語。
・北里柴三郎、エンタツアチャコなども登場。同じ愛知五中で学び早稲田に進学した乱歩と千畝が親しく交際していたら、という仮定で書かれた作品。
・乱歩が6歳年上だったため、実際には交友といえるほどの関係があったとは考えにくい。
・横溝正史が編集者兼ライバル、松岡洋祐が敵役。休筆、失踪を繰り返しながら、小説の執筆を進める江戸川乱歩の苦悩と成長を描く。
・松本清張も登場するが、厳密には時代小説家としてデビューしているので、最初から推理小説に傾倒していたわけではない。それでも木々高太郎経由で清張が乱歩と知り合ったという描写はリアル。
・千畝がユダヤ人にビザを発給する描写は思ったよりも簡潔であるが、全体として登場人物が多い点は意欲的。一人一人の描写を深く展開できていないとも言えるが、乱歩と千畝の生涯について魅力的に描けている。
芦沢央『嘘と隣人』 文藝春秋
・神奈川県警を退職した元刑事・正太郎が、娘と孫を見守る生活者の視点から、日常に潜むささやかな嘘をめぐる事件に迫る内容。舞台は東急田園都市線の溝の口~たまプラーザ。
・著者らしい「隣人」に対する細やかな感性が生きたミステリで、他の候補作と比べると分量は少ないが、前回のノミネート作『汚れた手をそこで拭かない』よりも完成度が高い。
・離婚調停中の妻を刺傷する事件や、抱っこ紐のロックを解除する悪質な乳児転落事件など、育児をミステリの題材としている点が新鮮。
・元刑事が他人のプライバシーを侵害していいのかと葛藤する描写も、現代的。スマホを機内モードにして位置情報が収集されたかどうかや、SNS上の虚偽の書き込みが偽証に与えた影響、クレーマーが流したデマや怪文書が与えた悪影響など、従来のミステリにないオリジナリティの高い作品といえる。
・現代的な精神疾患を描いている点もリアルで、簡潔な心情描写が鋭い。ベトナムからの来た研修生が受ける「大人のいじめ」などが、事件の核を成している点も現代的と言える。
・嫌ミスというよりは、現代の大都市郊外の生活者の内面を巧みに描いているという点で、女性の視点が生きた「社会派ミステリ」と言える。
塩田武士『踊りつかれて』 文藝春秋
・ネットや週刊誌の誹謗中傷を題材とした社会派ミステリ。事実上の引退を余儀なくされた伝説のアイドル・美月と、自殺に追い込まれた若手芸人・天童ショージに関する誹謗中傷について、被害者・加害者、家族や弁護士の人生も含めて描かれる。
・社会的に意味のある内容を、天童の「炎上保険」という人気ネタを描くなど、物語を工夫しながら、複数の登場人物が交錯する「恋愛ドラマ」として上手くまとめている。
・天童と同級生だった弁護士の久代奏(かな)の視点から、刑法第230条、民法第709、710条などの条文解釈をもとにした名誉棄損の成立要件など、法的な知見を基にした描写がある点が「社会派」らしい。
・名誉棄損罪は公共性、公益目的、真実性の三要素から違法性が退けられることもあるが、虚偽情報の拡散やそれに便乗した誹謗中傷はこの限りではないなど、現代的な知見も織り込まれている。
・「浅瀬ですぐ善悪を決めてしまう人」による誹謗中傷に対抗した「枯葉」こと瀬尾政夫の「動機」と、大分・別府と久留米で育った美月の謎めいた過去をめぐるミステリ。
・確証バイアス、フィルターバブル、集団極性化といった社会心理学の基本概念も紹介している。読みやすく、広がりのある時間の中で、名誉棄損や誹謗中傷をめぐる問題について考えさせる。
・具体的な裏づけはあるか、表現が過剰ではないか、勝ち負けにこだわっていないか、わかりやす過ぎる結論になっていないか、という著者の誹謗中傷問題に対する問いは、本質的である。
夏木志朋『Nの逸脱』 ポプラ社
・同時代の社会を、暗部から切り取るセンスを感じる。常緑町という架空の土地を舞台に、現代的な意味での、ささやかな悪意や日常に潜在する暴力、苦境から立ち直る人間の強さをユーモアを交えながら描けているのが良い。
・爬虫類の飼育、警察官の大麻栽培、癇癪と執着、誹謗中傷と大人のいじめ、口裂け女の都市伝説、タロット占いのクレーマー、精神疾患と自殺未遂など、同時代的なテーマ性も高い。
・一般的な社会秩序から「逸脱」を余儀なくされるような、グレーゾーンに位置する精神疾患を有する人々について、登場人物たちがそれを克服してきた過程や、不器用な自己表現も含めて、丁寧な内面を通して描けている。
・嫌ミスという枠組みを超えて、微かな希望や人との繋がりを描けている点が良く、多くの読者を引き付ける魅力がある。特にタロット占いの修業をめぐって、「ゴリラ女」こと坂東と「テロリスト」こと秋津がマンションの外廊下で「女子プロレス」を繰り広げる場面が、エモい。
・大阪文学学校の出身ということで、現代的な庶民の感情を掬い取り、カウンターカルチャーとして小説を世に送り出す、田辺聖子のような作家になってほしい。
・松本清張も41歳でデビューし、国民作家となったことを考えれば、小説を書き始める時期は遅くとも良いと思う。
・表層的な差別の撤廃や多様性の称揚がなされている時代、文芸作品を通して一般的な社会秩序から逸脱する人々の心情を、繊細な筆致で描いた点が高く評価できる。
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直木賞の選考結果は、芥川賞と共に該当作なしでした。今回の直木賞は初候補の作家の作品が強く、好みが分かれる内容だった影響もあると思いますが、新しい作家が多く出て良い回だったと思います。芥川賞と直木賞の双方が受賞作なしとなった点へのコメントを、7月17日の西日本新聞に寄せました。