2019/07/14

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第67回 車谷長吉『赤目四十八瀧心中未遂』

現在、IAMCRのPost Conferenceでスペインに滞在しています。西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」は平常運転中で、本日の紙面(第67回 2019年7月14日)では車谷長吉の直木賞受賞作『赤目四十八瀧心中未遂』を取り上げています。表題は「『温度のない悲しみ』掬う」です。
本連載のテーマに適した、現代文学屈指の名作ですので、ぜひご一読を!

「パンツのゴム紐が緩んでずり落ちるみたいに、私はいつの間にや、ずるずるここへ来てしもたんです」と、尼崎で牛や豚の臓物をさばいて串刺しにする仕事に従事する「私」は語ります。直木賞の受賞作ですが、かつての芥川賞の受賞作のような「純文学」の王道に連なる作風です。私小説というよりは、葛西善蔵や椎名麟三などの作家たちが体現した、身を削り取るような作風に、自らの経験や感性を込めた現代小説と言えると思います。

この作品で描かれる尼崎や天王寺の風景は現実感あふれるもので、実際に車谷長吉は主人公と同じ年齢の頃、この辺りで料理人や下足番として働いていたらしいです。横浜の黄金町近くの町を舞台にした山本周五郎の『季節のない街』の関西版という雰囲気の作品です。

ただ東洋大学を中退し、子をつれて金の無心に奔走した葛西善蔵や、その口述筆記を行った嘉村礒多や、車谷と同郷で、旧制姫路中学を中退し、コックとして働いた椎名麟三の小説が描く切迫した生活と比べると、この小説で描かれる「私」の生活は、高度経済成長以後の日本社会の豊かさを背景とした、慶應義塾大学文学部卒という「保険の付きのもの」だったと言えるかも知れません。それでも著者の言葉は、流浪の生活をくぐり抜けて来た著者らしい切実なもので、この作品は文学史上の名作に連なる私小説だと思います。