2013/01/18

「新潮45」2月号・安倍新政権「海図なき航海」―海外メディアはどう見ているか

新潮45の2月号に、安倍新政権「海図なき航海」―海外メディアはどう見ているか、という原稿を書きました。特集の欄に掲載されています。

http://www.shinchosha.co.jp/shincho45/backnumber/20130118/

「日本を、取り戻す」というスローガンを掲げて安倍晋三率いる自民党が権力の座に返り咲いて、ひと月余りが経過しました。日銀を仮想敵として「金融緩和の必要性」を訴えた選挙キャンペーンは有権者の心をつかみ、ひと月ほどの間に円安が進み、「株価を、少し取り戻す」ことに成功したと言えます。

ただ三・一一の震災と核被害を経験してもなお、脱原発から原発推進へと舵が切られたり、特別会計の事業仕分けが進まないまま、一〇年で二〇〇兆の「国土強靱化・ニューディール政策」が打ち出されるなど、現状は「日本の何を、取り戻す」のかよく分からない迷走状態にあるとも言えます。

この原稿では、伝統的に自民党に優しい日本のメディアとは異なる、海外メディアの報道内容を参考にしながら、「危機突破」というより「危機突入」状態にある現状の日本について多角的な分析を試みました。

先の衆議院選挙に関する海外メディア報道の紹介は、雑誌やテレビでもちらほらとやっていましたが、私の原稿は、多くの新聞記事を参照していますので(国会図書館などで30強の新聞記事に目を通しました)、相対的にバイアスが少なく、情報分析の網羅範囲が広いと思います。年末年始に労力をかけた原稿ですので、ぜひご一読頂ければと思います。


2013/01/09

産経新聞「平成25年を迎え」

産経新聞に「平成25年を迎え」というコラムを書きました。
平成25年1月6日の特集欄に載っています。

http://www.sankei.com/life/news/130106/lif1301060016-n1.html

思えば、平成二〇年に私は『平成人(フラット・アダルト)』という本を書きました。この本で私は平成という時代の大きな特徴は、冷戦構造の崩壊によってグローバル化が進行したことと、IT革命によって、人が管理する情報と、人を管理する情報の技術革新が起きたことの二つにあると考えました。
この考えは、五年経った今でも変わりません。グローバル化の影響で世界中に安価な「もの」があふれるようになり、IT革命のおかげで世界中に無料で膨大な量の「情報」があふれるようになりました。この結果、資本主義の回転速度が上がり、世界中で生産と流通の効率化が進み、世界中で「人」があぶれるようになりました。
丸山真男が「開国」で記したように、近代日本の第一の開国が明治前期にあり、第二の開国が、敗戦後の昭和二〇年代にあったとすれば、グローバル化とIT革命が進行した平成初期は、第三の開国の時代だったと言えます。

平成も25年目で、振り返ると冷戦の終わりが「歴史の終わり」と呼ばれた頃には考えられないほど、色々なことが起きたように思います。冷戦期の方が相対的に世界秩序が安定していたと、多くの人が思っているのではないでしょうか。
アメリカとソビエトが対立していた時代の方が、ものや情報や人の流動性が低く、世の中は非効率的ながら、もっと穏やかで、そのような世界の中に「取り戻すべき日本」があるのだ、と。

ただ上のコラムや『平成人(フラット・アダルト)』でも書いたとおり、「失われた時代」の中にも新しい価値観の変化に根ざした社会秩序があり、そのあたりの詳細はそのうち書くことになると思います。


2012/10/18

「新潮45」11月号 バーチャル空間で過熱する「反日感情」

「新潮45」11月号に、バーチャル空間で過熱する「反日感情」、という原稿を書きました。特集の欄に掲載されています。

http://www.shinchosha.co.jp/shincho45/backnumber/20121018/

共同通信によると、9月に中国各地で起きたデモは、125都市で100万人近くを集め、日本でも様々な分析がなされてきました。ただ中国固有のネット文化との関わりで、今回のデモを分析した記事は皆無に近かったと思います。この原稿は中国の検閲事情と、若い世代のネット文化、都市近郊の若者の生活事情などを踏まえた上で、先の反日デモについて分析した論考です。

すでに中国の現在のネット人口は、2012年6月の時点で、5億3760万人います。今年と同様に大規模な反日デモが起きた2005年から、7年間で5倍以上に増加し、増加分の大半は若い利用者です。そして今回の反日デモに参加した人々は、ネットの利用頻度の高い10代後半から30代で、2011年8月に起きたロンドン暴動と同様に、インスタント・メッセンジャー経由で集まった若者が、デモの拡大に大きな役割を果たしています。

ネットとインスタント・メッセンジャーの普及を抜きに、今回の「反日デモ」は語れないと思うのですが、いかがでしょうか。このあたりの詳細は本文で。


2012/09/18

「新潮45」10月号 フェイスブック原稿

本日発売の「新潮45」10月号に、個人情報泥棒「フェイスブック」に騙されるな、という原稿を書きました。特集「頭を冷やせ」の部分に掲載されています。

http://www.shinchosha.co.jp/shincho45/backnumber/20120918/


日本は個人情報保護に関して法整備の遅れた「後進国」であるためか、ヨーロッパやアメリカのように「フェイスブック離れ」が進行していません。むしろ利用者はうなぎ登りに増えています。この現状をどう考えるべきなのか。

すでにフェイスブックは、アメリカでは個人情報の取り扱い問題で、20年間、連邦取引委員会の監視下に置かれています。ドイツでは情報保護局にEU法の違反でアーカイブの破棄を求められています。
日本ではヨーロッパほど問題になっていませんが、フェイスブックはプロフィールや位置情報、クレジットカード番号だけではなく、ユーザーがアップロードした写真から「顔指紋」まで収集しはじめています。個別に許諾を取ることなく生態情報を利用するやり方は、明らかに「一線を越えた」もので、複数の国々で問題になっているのです。
どんなに利用者がプライバシー保持に気を付けていても、友達同士で写った写真に実名がタグ付けされると、「顔指紋」を特定されていく確率が高まっていきます。現状の技術でも、子供の写真から実名と紐付けた「顔指紋」を特定することは、高い確率で可能だと思います。もちろんそのデータが外部に流出して別の用途に使われなければいいのですが・・このあたりの詳細は本文で。

日本では憲法にプライバシー権が明記されていないため、個人情報の利用に関する議論の土壌が弱いのでしょうか。
国民総背番号制の議論にも繋がりますが、そもそも解析されていい個人情報と、解析されるべきではない個人情報の線引きは、一企業が自由に決めていいものではなく、国や地域の社会規範に従って法的に定められるべき性質のものだと思うのです。
プライバシーを保護と、データ解析の利用促進の両立は、規制の仕方の工夫で可能なはずで、日本の個人情報保護の現状は、国際的なトレンドから完全に取り残されている感じがします。


2012/07/23

新潮45「忍び寄るステマの恐怖」

新潮45の8月号に「忍び寄るステマの恐怖」という原稿を書きました。
ステルス・マーケティングについて、「サクラ」や「ヤラセ」についての日本の事例だけではなく、中国の5毛党の「政治ステマ」からFace BookやGoogle GLassの「個人情報の抜き方」まで、将来予測も含めて幅広く論じた内容です。
フロイトの言う「他人の欲望の模倣」によって築かれた現代社会とステルスマーケティングの関係について、コンパクトに理解できる論考と思います。ぜひご一読下さい。
無料のアプリケーションを利用しているうちに、いつの間にか個々人の性格や性的な趣向を判断され、家族構成、病歴から生理の周期まで個人情報を収集される――私たちはこのような時代に足を踏み入れているわけですが、このような時代の延長にある未来とは、果たしてそれほど希望が持てるものなのでしょうか?


2011/11/26

『IT時代の震災と核被害』(インプレスジャパン、共著)に「海外メディア報道と日本の情報公開 『歴史上成功した唯一の社会主義国家』の危機」という原稿を書きました。この原稿は以前「新潮45」に寄稿した「世界が目撃したフクシマ」という原稿を2.5倍ぐらいの分量に加筆・改稿したものです。twitterで知り合ったフリー編集者の斎藤哲也さんが上の原稿を読んでくれて声をかけてくれました。当初の企画よりも、内容が充実していて、手前味噌ですが、これで1800円+税はお買い得と思います。
http://www.impressjapan.jp/books/3114


私の原稿は、海外のメディア報道の中から「特徴的な報道」を取り上げながら、日本のメディアとは異なった文脈で「将来の日本のあり方」について考察したものです。他にも震災と原発事故後のITの活用事例や、ウェブ・コミュニティの動向など興味深い原稿がたくさん収録されていますので、興味をもたれた方はぜひご一読下さい。上のインプレスジャパンのサイトでも期間限定でコンテンツの一部が立ち読みできるようです。

私の原稿についても、立ち読み程度に以下、序盤の結論部(2章)から少しだけ抜粋します。

<略>

なぜ日本のメディアは、原発事故後、WSJ(ウォール・ストリート・ジャーナル)やIHT(インターナショナル・ヘラルド・トリビューン)のように、現場の作業員に焦点を当て「day workers」を賞賛するような報道を、積極的に行わなかったのだろうか。

そもそも原発事故以前から、原発内部での日雇い労働者の健康被害の実態については、ウェブ上で問題視する声が上がっていた。しかし日本のメディアにとって東京電力は大口のスポンサーであるため、電力事業にマイナスイメージを与えるような報道は、積極的に行われてこなかったのだ。独占企業に近い日本の電力会社には、そもそも巨額の広告料は不必要なはずなのだが、日本の電力料金は総括原価方式で算出されているため、電力会社は多額の広告費を原価として計上しても、常に3%の利益を確保できる。このため、電力会社は潤沢な広告費を使用してメディアに影響力を行使してきたのである。実際にメディアの現場で電力会社が強い影響力を行使していることは、私も通信社や広告代理店の知人から詳しく聞いたことがある。いずれにしても、事実として日本の国民は高い電力料金を支払い続けることで、電力会社の高い広告費を支え、電力会社のメディアへの影響力を許容してきたのである。

このような事情もあり、福島第一原発事故後、日本のメディアは作業員が身を挺して危険な現場で働くことを、どこか「空気のように当たり前のこと」として報道してきたのだと思う。だから原発事故直後においても、日本のメディアは被爆の危険を冒して福島第一原発で働く作業員について、欧米のメディアのような積極的な報道を行ってこなかったのだろう。

もちろん日本の国民は、これまで行政の原発推進政策に対して相応の税負担を行い、電力会社に対して高い電力料金を支払い、相応のコスト負担を行ってきた。この額は原発の安全確保の保証金としては十分すぎるものだろう。だから日本の国民が安全確保を怠った行政と東京電力の責任を追求することは当然の権利である。しかし現場の作業員に対する関心の低さには、このような責任問題を超えた「日本的な問題」も横たわっているように思えるのだ。

先のWSJの記事によると、インタビューに答えた現場の作業員は、自らを神風特攻隊に喩えている。「声がかかったら『行きます』と応えるしかない。他人のために命を犠牲にした神風特攻隊のことを考えると心が穏やかになるのです」と。

原発事故後、識者のコメントの中には、今回の被害状況をアジア・太平洋戦争の被害との類比で語る内容が多かった。しかし戦時中と類似しているのは、国土の被害状況以上に政治的空白の中で、根本的な事態の解決を「現場の努力」と「若い作業員の献身」に委ねてしまうような「日本の空気」そのものではないだろうか。日本のメディア報道の影響下にあるとはいえ、どこか日本に住む私たちは、現場の作業員の献身によってもたらされた原発事故の事後処理の進展を、「他人事」のように享受してきたのだ。そしてこのような現場の作業員に対する「他人事」のような感覚は、これまで原発を大都市圏から遠いところに建設したことと、どこか地続きの問題であるように思えるのだ。

私たちは戦後日本の特殊なメディア環境に慣れる内に、いつの間にか戦時中と同じ問題を反復し、「現場の努力」と「若い作業員の献身」を空気のような当たり前のものとして、受容しているのではないだろうか。

2011/11/17

新潮45・12月号「ジョブズはそんなに偉いのか」

新潮45の12月号に「ジョブズはそんなに偉いのか」という原稿を書きました。
特集「言論の死角」の所に載っています。

http://www.shinchosha.co.jp/shincho45/backnumber/20111118/


ジョブズの自伝がベストセラーですが、彼自身が語り部となってひもとく「ジョブズ神話」は、鵜呑みにできるものでしょうか。スティーブ・ジョブズの経営者としての業績は、クリエーターとしての業績と区別して考えるべきだと思うのです。

そもそもジョブズはプログラムを一行も書かなかった人です。アップルのヒット商品の背後には、ジョブズを支えた数多くの有名無名の人たちが存在しています。日本ではジョブズ以外の人たちの業績がほとんど評価されていないように思うのです。

詳細は本文に譲りますが、アップルⅡの成功は、天才的なプログラマーだったS・ウォズニアックの功績なしにはあり得なかったものですし、マッキントッシュも元々はアップルの技術者だったジェフ・ラスキンのプロジェクトです。またピクサーがハリウッドを代表するスタジオとなったのは、ジョン・ラセターのアニメーション監督としての才能によるところが大きい。iMac, iPod, iPhoneの成功も、インダストリアルデザイナーのジョナサン・アイブの存在なしにはあり得なかったと思います。またジョブズの有名なスタンフォード大学での演説や彼のプレゼンテーションの背後にも、スピーチライターがいたことを忘れるべきではありません。

つまり「アップル神話」の背後には、数多くの「神々」が存在しているのです。しかし私たちは、ジョブズの魔法的な話術に掛かると、いつの間にか「ジョブズ一神教」の信者になって、彼一人を「偉大なクリエーター」として神棚に祭り上げてしまうのです。私たちはフェアに彼の周囲にいた人たちの業績も評価した上で、アップルとパーソナル・コンピューターの歴史を記憶していく必要があるのではないでしょうか。

またこの原稿の後半では、ジョブズが残した「負の遺産」についても考察しています。スティーブ・ウォズニアックが、オープンなウェブの文化を支持し、アップルⅡのマニュアルで製品の設計に関する情報を公開したのとは対照的に、ジョブズはクローズドな端末を普及させることで、今日のアップルの収益基盤を揺るぎないものにしています。例えばアップルは、自社製品の情報の秘匿を徹底したり、iPhoneやiPod内でアプリケーションを販売するディベロッパーから30%という高額の手数料(決済代行料)を徴収しています。しかしこのようなジョブズが打ち出した「クローズドな端末世界の方向性」は、私たちが生きる社会の未来にとって有益なものなのでしょうか。

詳細については、本文を読んで頂ければ幸いです。

それと2011年12月8日に、共著で『IT時代の震災と核被害』(インプレスジャパン)という本を出します。私は海外のメディア報道分析について30ページ弱書きました。この本の詳細については、また後日書きます。右上のアマゾンのリンクから予約購入できますので、ぜひ。

http://www.impressjapan.jp/books/3114


2011/05/18

「新潮45」6月号 世界が目撃したフクシマ

「新潮45」の6月号に「世界が目撃したフクシマ」という原稿を書きました。東日本大震災に関する国際メディア報道の「裏を読む」原稿です。欧米だけではなく、中東やアフリカのメディアの報道内容も踏まえています。

http://www.shinchosha.co.jp/shincho45/backnumber/20110518/

海外メディアの「日本人礼賛報道」や「とんでも報道」は日本のメディアで多く報道されてきましたが、このような報道は「原発事故を取り巻く世界情勢」を反映していません。海外のメディア報道の「鋭い視線」を通して、はじめて意識出来る「将来の日本の理想的な姿」があると思います。

なぜこういうジャーナリスティックな原稿を書いたかといいますと、私は以前、慶應義塾大学グローバルセキュリティ研究所(福井プロジェクト)で、自然災害や人的災害について、各国メディアの論調の違いをデータ解析し、分析するというプロジェクトに関わっていました。この原稿はその時の方法論を生かしたもので、現状の世界認識には、利害関係の異なる国のメディアの比較が不可欠だと考えています。

現状の原発報道に物足りなさを感じている方は、ぜひご一読頂ければと思います。

これで論壇誌に書くのは、「諸君!」、「論座」、「VOICE」、「文藝春秋」、「新潮45」、と5誌目になります。雑誌を取り巻く状況が厳しい中、声をかけて頂いた編集者に感謝です。

書籍を取り巻く状況も厳しいようなので、当面は眼前の仕事をこなしながら、単行本を出せる機会を窺っていきたいと思います。「情報社会」関連、「戦後日本」関連の原稿はたまっていますので、ご関心のある方は、ご一報を頂ければ幸いです。


2010/08/10

文藝春秋9月号に「理想の政界再編は石破新党VS勝間和代新党だ」という評論を書きました。原題は「民主主義の危機」というものですが、「自分と被った内容で変わったタイトルの文章を書いてる人がいるなあ」と思ったら自分の原稿だったりするのが論壇誌ですので、タイトルに躓く人にも読んでほしいです。内容は、「既存の政党の政治的な立場が時代の変化に対応できていないのでは?」という問題意識から、四つの新党の可能性について論じたものです。これまで書いた論壇誌と発行部数の桁が違うので、いつも以上に挑発的な内容かも。

http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/76

具体的には、次の人たちが幹部を務める新党による政界再編の可能性について、論じています。石破茂、東国原英夫、福田衣里子、勝間和代、橋下徹、湯浅誠、堀江貴文、東浩紀…。今の二大政党制のあり方や、第三の政党の政治的な立場に「何だかなあ」と思っている人にこそ読んでほしい内容です。

詳細は本文に譲るとして、そもそも「政治的な立場」とは何なのでしょうか。例えば政治学者のローティは、次のように言っています。「政治的な立場は、その政治的な立場が訴えている原理によるというより、その政治的な立場がもたらす結果によって正当化することができる」と。つまり政治的な立場というのは、どこかで聞いたことのあるような理念や、口当たりのいい公約によって定まるのではなく、妥協を強いられた理念や公約を「後付けで正当化」する力によって定まるものなのだ、と。
具体的に考えてみます。例えば先の参議院選挙で民主党が大敗したのは、菅首相が「消費税10%」に言及したためと言われます。ただ、そもそも消費税10%というのは自民党が打ち出した選挙公約です。菅首相も「自民党が提案している10%を一つの参考にしたい」と口にしています。この直後にカナダでのG8サミットが控えていたため、「ギリシアとは違って、日本が財政改革に前向きなこと」をアピールする必要に迫られていたらしいです。
だとすれば、なぜ自民党と比べ物にならないほど、菅首相が批判を浴びせられ、民主党は選挙で議席を失う結果になったのでしょうか。先のローティの言葉を踏まえれば、菅首相が有権者に対して、自らの「政治的な立場」を後付けで正当化することに失敗したからだということになります。多くの有権者にとって、菅首相の「消費税10%」への言及は、自民党の物真似に思えたのだと思います。そして菅首相の発言の内容そのものよりも、彼の「政治的な立場」に疑問符が付いたのだと思います。
 そもそも前首相の鳩山由紀夫が支持を失ったのも、高速道路の無料化、普天間基地の移転、公務員制度改革、暫定税率の廃止などの公約の実行に失敗したからではないと思うのです。鳩山由紀夫の「政治的な立場」が小沢一郎にコントロールされていると多くの有権者が感じていたからでしょう。近年の日本の首相は、理念や公約に妥協が強いられた時、「政治的な立場」を後付けで説得する力が欠けている。だから「政治的な立場」があやふやに見えるのだと思います。

 だとすれば現代の社会変化に対応した「政治的な立場」とはどのようなものなのでしょうか。そして、その立場を後付けで正当化しうる政治家の力量とはどのようなものなのでしょうか。

この原稿は、その解答の一つとして書いたものです。この原稿を叩き台に、長期的な視野の下で、各政党・各政治家の「政治的な立場」をめぐる論議が起こればいいなあと思います。異論にも期待しています。分量の都合で掲載できなかった議論(例えば移民の受け入れや、現代日本版のコミュニタリアニズム、リバタリアニズムの問題)については、機会が得られれば、別の誌面で書きたいと思います。先の吉田修一論のような文壇での仕事だけではなく、この原稿のような論壇での仕事にも、今後ともご期待下さい。


2010/08/07

文学界9月号に吉田修一論を書きました

8月7日発売の文藝春秋の文学界9月号に「吉田修一論 都市小説の訛りについて」というタイトルの批評文を書きました。芥川賞特集の下の方、「10年代の入り口で 文学界2010」のところに載っています。30ページぐらいの分量です。

http://www.bunshun.co.jp/mag/bungakukai/

吉田修一さんは、長崎南高校の先輩にあたる人で、実家も「同じ山の斜面」にあるので、文化圏というか、言語圏が同じです。「water」で描かれているプールで泳いでましたし、「長崎乱楽坂」の雰囲気は、私が生まれ育った町の雰囲気でもあります。なので今回の批評文は、「吉田作品の訛り」について「ネイティブ」らしい視点から展開しています。もちろん吉田作品に馴染みがなくとも、作品から独立した作品として読めますので、ぜひ手にとってみてください。

吉田作品で実家として描かれる「酒屋」の前の道は、高校の通学路の一つでした。「一つ」というのは、吉田修一さんと私が通った高校は、ちょうど長崎港が見渡せる小山の山頂近くにあったので、私は行きはバスを使って、帰りは気まぐれに路地を選びながら山を下りていたわけです。小説でも描かれていますが、長崎南高校のある山から見渡す長崎港の景色は、「東京に行くのを止めようか」と思うほど美しいです。

思えば、あの酒屋でジュースやビールを買った記憶もあります。一休みするのに、ちょうどいい感じの場所にあるのです。長崎の酒屋では、仕事上がりの職人がつまみを買って飲んでるので、時間によっては酔っ払いに絡まれることもありますが、それはそれでよい勉強になります。その下には龍馬伝で舞台になっている丸山(旧遊郭街)がありますが、あのあたりには成人映画のポスターが各電柱に貼られていたので、それもまたよい勉強になりました。あと長崎は平地が少ないので、路地の中に急に墓場が現れてきますが、毎日の下校が肝試しみたいになるので、お得です。たまに墓から変質者も出てくるので、スリル満点です。

そういう話は本論と関係ないですが、長崎の人らしい「訛り」にも着目した「吉田修一論」をぜひ読んでみてください。柳田国男とか漱石とかフロイトとかルカーチとか江藤淳とかも出てきますが、文芸批評に馴染みのない人にも読みやすい文になっていると思います。

この批評文を皮切りに、文芸誌では現代の日本の小説について批評文を書いていきます。現代版の「成熟と喪失」をやります。江藤淳の「成熟と喪失」は、その概念を借用してあれこれ言う類の作品ではなく、実践する類の作品だと思うので。同時代の小説と向き合いながら、現代の文芸批評の基準を示していきます。