2018/02/06

Foreign Press Centerのセミナーと賀詞交歓会に行ってきました

文教大学学園が賛助会員となっている公益財団法人フォーリン・プレスセンター(FPCJ)のセミナーと賀詞交歓会に行ってきました。外国メディアへの取材支援を行う日本新聞協会と経団連が設立した団体です。


国際学部の生田祐子先生の勧めで、文教大学の学生もインターンでお世話になっています。日比谷公園が一望できるいい立地で、日本プレスセンターには何度か来たことがありましたが、FPCJは初めてでした。

セミナーも面白く、在京の外国メディア(中央日報、トンプソン・ロイター、第二ドイツテレビ)の日本での具体的な取材の段取りが分かって興味深かったです。

中央日報の特派員の方が、「明治維新150年の取材をしていると、韓国のメディアというだけで、ネガティブな先入観を持たれて困る」と述べていたのが印象的でした。日本ではメディア報道のバイアスが問題になることが多いですが、取材対象であるごく普通の人々が無意識的に抱いている先入観やバイアスについても、考えるべき問題と思いました。

第二ドイツテレビの方が作った日本を取材した映像も面白かったです。特に麺類を食べないドイツの特派員に、現地の人がラーメンの麺の啜り方を一生懸命に身振りを交えて教えたり、24時間営業の店が全くと言っていいほどないドイツの人向けに、コンビニの便利さを伝える映像が印象に残りました。

Media Stuidiesに関する国際学会に参加する時に、いつも思うことですが、日本語だけで活字や映像のメディアを語れる時代は、遠い昔の話です。日本語のメディアで扱われている事例やその背後にあるドメスティックな価値観は、国際的に主流である英語圏のメディアの事例やその背後にある多文化的な価値観とズレています。

日本の自治体の広報関係者の出席の多さが印象的でしたが、インバウンドの観光客への広報活動が活発化している印象を受けました。日本の大学も、留学生が興味を持ったり、海外のメディアが関心を抱くような情報発信を行わないと、国際社会の中でどんどん取り残されていくように感じています。

懇親会も様々な国からいらしたメディア関係の方々や、国際協力活動に関わられている大学の先生方とお話しできて楽しかったです。





2018/01/29

映画監督・沢島忠

東映の全盛期を支えた映画監督、沢島忠が91歳で亡くなった。沢島の映画はスピード感があり、ダイナミックな展開に時代を描く深みがあった。私は黒澤明や小津安二郎と並べても遜色ない、戦後日本を代表する映画監督の一人だったと思う。

沢島の代表作として中村錦之助や美空ひばりの初期の映画が紹介されることが多い。しかし私にとっては何と言っても鶴田浩二、佐久間良子の『人生劇場』シリーズである。
特に、後に『仁義なき戦い』シリーズで世に知られる笠原和夫が脚本を書いた『人生劇場 新飛車角』(1964年)が素晴らしい。

この作品は戦中・戦後の平仮名の「やくざ」を巡る状況の変化を描いた作品として出色であり、尾崎士郎の原作を切り詰め、映画らしい表現へと昇華させている。

『人生劇場 新飛車角』は未だにDVD化されていないが、戦後日本を代表する映画として、私は「メディア史」に関する授業で必ずVHSで取り上げている。
冒頭の戦中のシーンからラストの戦後の荒廃まで、スピーディーな展開は見事という他なく、鶴田や佐久間の視線で、時代の奔流をその渦中で描いていく。

鶴田浩二、佐久間良子もこの時期が役者として全盛期だろう。未だ映画がメディア産業の中心だった時代に、才能ある監督と脚本家と役者が、三位一体で築いた不屈の名作である。

脚本家の笠原和夫の脚本については、以前に扶桑社のen-taxiに、「実録・共産党」と『日本暗殺秘録』について解説を書いた。
笠原は『仁義なき戦い』のようなヤクザ映画の脚本家として広く世に知られるが、『人生劇場 新飛車角』や『日本暗殺秘録』のような戦前・戦後を舞台にした庶民目線の作品にも深い味わいがある。
https://makotsky.blogspot.jp/2009/10/blog-post.html

沢島忠監督の『人生劇場 新飛車角』は、笠原和夫を育てた作品であったと思う。この一作を観るだけでも、沢島の映画監督としての資質の高さと、笠原の映画脚本家としての輝く才能が感じられる。

沢島忠は1970年代に入ると、ほとんど映画を撮る機会に恵まれず、舞台を中心としたキャリアとなる。最後の監督作が1977年の『巨人軍物語 進め!!栄光へ』で、主演が王貞治、長島茂雄である。

才能溢れるこの監督の作品をもっと観たかった、というのが訃報を聞いて、真っ先に思い浮かぶ感想である。特に晩年に計画していたという沢島版の「忠臣蔵」を観たかった。

才能ある人をフェアに評価する批評が、まともに機能してほしいと思う今日この頃である。



2018/01/22

西部邁先生の思い出

西部邁先生の訃報に実感が湧かない。入水された多摩川の水の冷たさが、先生の酒場での暖かな雰囲気に似つかわしくないと思う。身近な人のことを深く思い遣る方だったので、先生なりの考えと強い決意を持って入水されたのだと思う。しかし、それにしても、と思ってしまう。

西部先生と最後にお会いしたのは、15年近くも前の大学院生の頃である。大学院でお世話になっていた福田和也先生のお供で「発言者」の対談を見学させてもらい、その後、ゴールデン街の店に連れて行って頂くのが常だった。

「発言者」の対談で、西部先生は自分の言いたいことを言うという感じではなかった。「発言者」という雑誌を通して西部先生は、持論を世に広めたいというよりは、福田和也や佐伯啓思、スガ秀実など脂の乗った一流の書き手と議論することを、心から楽しんでいるように見えた。

いわゆる保守の論客のイメージは、お会いした西部先生の姿にはそれほど感じられなかった。父権的な強さよりも、父権的な優しさの方が際立って見えた。「三国志」に出てくる武将のようだ、と思った。

政治的には反米保守、経済的にはアンチ新自由主義で、ケインズ主義者、社会的には、家族関係に根ざしたコミュニティ支持者、という印象で、右翼・左翼という区分で言えば、双方の思想性を包含する立場の方だった。

最初に西部邁先生にお会いしたのは、早稲田大学の4年生の時である。私は4年の春学期に慶應大学の大学院への進学が決まっていたので、福田先生の授業を聴講していた。
1999年のことで、この年の夏に、江藤淳先生は66歳で自裁された。西部先生が今回の入水に際して、江藤先生のことを考えなかった、ということはないと思う。

この年に初めて受けた福田和也先生の授業は、厳しいものだった。一コマの授業で毎週、数冊の本を読み、長々としたレジュメを書かないと、出席すら認められない。授業が進むに連れて履修者がどんどん減っていく。本を読まずに出席した学生を怒鳴って教室から追い出している福田先生の姿が、昨日のことのように目に浮かぶ。福田先生も40歳前後でカロリーが高く、若かった。この年の授業が、その後の大学院時代の授業の標準となった。

学期の後半になると、学生が教室に寄りつかなくなり、授業はほとんどマンツーマンになっていた。その頃にようやく私は名前を覚えられ、「西部邁先生のゲスト講義に来ないか?」と声を掛けられた。宗教の勧誘のようだ、と思った。

当時、私はポストモダン思想にかぶれ、生意気だった。私はいつものノリで、西部先生の道徳のあり方や戦後日本についての意見に、柄谷行人の著作を引きながら、反論してしまった。その結果、私は飲み会の時間めいっぱい、他の学生のことなどお構いなしで論駁され、人生の厳しさを思い知らされた。

福田先生はその論駁を、ニヤニヤしながら、見て見ぬふりをしていた。性根の悪そうな人だと思った。飲み会の終わり際に、「初戦としてはよかったんじゃない」と脂の乗った顔で笑っていた。何が「初戦」なのか、その時はよく分からなかった。

当時、私は茶髪で、柄谷行人に限らず、ポスト構造主義の哲学書や福田和也や宮台真司の著作を好んで読んでいた。おそらく外見の上でも、思想の上でも、西部先生にとって私は格好の「酒のつまみ」だったのだと思う。西部先生は茶髪が嫌いで、地に足の着かない、ポストモダン風の概念を振り回す議論が嫌いだった。

しかし西部先生は、一度論駁した相手に優しかった。見込みがあるから論駁するんだ、とも言ってくださった。先生は私のようなただの大学院生に対しても礼儀正しく、高圧的ではなかった。東大出身で、東大でも教鞭を執っていたのに、それを鼻に掛けるようなことがなかった。60年安保闘争の中心にいた方なのに、学生運動を美化し、自慢するようなこともなかった。

ゴールデン街の店でも、個人レッスンをするように、「なあ、酒井君、『良識』とは何か考えているか」という具合に、議論の相手になってくださった。同じことが大学教員となった今、私が若い院生に対してできるかと言えば、全く自信がない。私が地方出身だったこともあってか、生まれ育った北海道でのご苦労について多く話してくださった。

その後、中野の方で定期的に開催されていた「発言者」の勉強会にお声がけを頂いた。この頃、私は一人で本を読む方が好きだったので、勉強会には数回しか出席しなかった。ただこの頃の西部先生の話は、大衆社会の批判や、ポピュリズムの批判を中心とした「治者の哲学」とでも言えるもので、IT革命以後の時代でも色褪せない、思想的な深みが感じられた。

後期博士課程に進む時、西部先生から推薦状を頂いた。しかしその後、些細なことで、西部先生と福田先生の間に溝ができてしまい、それが修復されないまま時間が流れてしまった。その後、書評などで二人の間にはやり取りはあったと思うが、溝が埋まっていたのかどうか、私はよく分からない。長い時間、対談や酒席を共にした二人にとっては、その溝はいつでも容易に飛び越えられる程度のものだったのかも知れない。

その後、私は論壇誌や文芸誌に原稿を書くようになったが、西部先生とお会いする機会には恵まれなかった。2007年から3年間、西部先生が学頭を務める秀明大学で、「メディア論」と「情報社会論」を担当させて頂いた。西部先生の弟子筋の安岡直先生にお気遣いや励ましを頂いた。当時、私は任期制の助教で、共同通信とのニュース解析の研究が慌ただしく、週に1日、秀明大学に授業に行くのは、いい気分転換だった。
この時も西部先生とお会いする機会はなかったが、間接的な形でお気遣いを頂いていたのだと思う。

私にとって西部邁先生の記憶は15年前で止まったままである。西部先生の訃報に接しても「『死』とはね、つまりこういうことなんですよ、酒井君・・」といつもの調子の話を、またどこかで聞けるような気がしてしまう。福田先生がよく、「西部先生ほど、話すのが上手く、頭脳明晰な方にお会いしたことはない」と言っていたが、その通りだったと思う。

西部先生は社交的な方だったので、弟子筋の方々や酒席を共にされた方々は数多くいらっしゃると思う。著作も多岐にわたり、『知性の構造』や『ケインズ』などの著作は、これからもっと再評価がなされると思う。

ただ私にとって西部邁先生の思想は、「発言者」の終わり頃、9・11以後の対テロ戦争の時代に、西部事務所で見学した、当時の脂の乗った書き手達との、左右の思想が入り交じった、快活なやり取りの中にこそある。幅広い知見を網羅した議論に接し、「知識人」と呼ばれる人々が、確かに存在するのだと実地で学んだ。


『テロルと国家』福田和也、佐伯啓思、スガ秀実、西部邁著 2002年・・左右の主義・信条を超えた豪華メンバーによる共著。

西部邁先生のご冥福を心よりお祈りいたします。

2018/01/04

ニューメキシコ州とコロラド州でのフィールドワーク

年末に「負の歴史遺産」の実地調査の一環で、アメリカ大陸の先住民の遺跡に関するフィールドワークを、ニューメキシコ州とコロラド州で行ってきました。個人的には、比較文化論への関心が高いので、こういうフィールドワークが研究活動で一番楽しいです。

日本では、インディアンではなく、ネイティブ・アメリカンという言葉が使われる傾向にありますが、厳密に言うとネイティブ・アメリカンという言葉には、アラスカ・エスキモーやハワイ、サモアなどの先住民も含まれます。アメリカで「インディアン」という名称はそれほど差別的なものではなく、むしろ先住民の一定の部族を指す名称として、一般的に使われています。

今回私が訪れたのは、世界文化遺産にも登録されている下の3箇所です。何れもデンバーやアルバカーキといった大きめの街から、車で半日ぐらいかけて移動しないと辿り着かない場所にあります。そういう交通の便の悪さも、途中の自然を楽しむと思えば、心地よく、ここ最近、ロッキー山脈周辺の町が魅力的なので、その歴史について調べるのに、はまりつつあります。

そういう中で最初に向かったのは、西暦1000前後の遺跡が点在し、広大な公園内を、車で見て回る感じのChaco Culture国立歴史公園。



ここのアクセスが一番大変で、途中で道路が雨で流されて途切れている感じのところがあり、タイヤが砂に沈んで車が前に進まなかったときは、少し焦りました。

とはいえ、そういう交通の便の悪さは、手つかずの自然が保全されていることの裏返しでもあるので、先住民の遺跡がナチュラルに展示されている雰囲気を楽しむことができました。

次に向かったのはSanta Fe近くの同時期にプエブロ部族が建設した集落Taos Puebloです。
先住民のアパートという感じの建物で、土と木と水で作ったことを考えれば、高度な建築と言えると思います。メキシコシティの展示に、「アメリカ大陸の先住民は、メキシコシティ近辺まで辿り着いて高度な文明を築いた」といった内容の説明がありましたが、それはメキシコ贔屓というもので、プエブロ文化の遺跡を見る限り、ニューメキシコ州のプエブロの先住民の文明も、だいぶ高度なものであることが分かります。

Taos Puebloでは現在も先住民が住みながら補修し、現地の素材を継ぎ足しながら、往時の集落の面影を保全しています。こういう今でも人が住んで手入れしている感じの遺跡は、居心地がいいです。

最後に向かったのがMesa Verde国立公園です。ここも敷地がとんでもなく広く、入り口から崖の下に作られた遺跡まで、車で1時間ぐらいかかりました。
現地の白人のおばさんがプエブロの人たちを、「バスケット・メーカー」という呼び方をしていたのが印象的でした。実際にプエブロの籠作りも有名で、お土産が売っていたりしたのですが、1000年前後のプエブロ文化はそれよりも発達したものだったようです。ガイドへの質疑応答で、普通に話していると感じの良い年配の白人の方が、先住民に関しては、よく聞くと差別的なことを言ってたりして、驚かされました。


あとアメリカの田舎を車で走って改めて面白いと思ったのは、車検がないので色々な車が走っていることでした。
ニューメキシコ州でも車のホイールに50センチぐらいの棘の突き出た車が走ってるのを見かけたのですが、完全にマッド・マックスの世界です。
ただそういう運転手も、通りすがりに「面白い車だねー」とか言うと、「どういたしましてー楽しんでねー」という感じで、笑いながら汽笛のようなクラクションを鳴らしてくれます。
こういうサービス精神の良さに触れると、やっぱアメリカの田舎は感じいいなあ、と思ってしまいます。確実にトランプに投票してそうな人たちだけど。

先住民の人々も、外見がアジアの人々と相対的に近いこともあってか、概して優しく、こちらの細かな質問にも長々と丁寧に答えてくれて、助かりました。

近年、ゲノム調査でY染色体を調べてルーツを探る、といった研究が盛んで、本になったものも面白く、私も科学的な文明論と言語グループの関係について、関心を持っているのですが、
その一方でバーガー食べて、巨大なサイズのコーラやビール飲んで、燃費の悪い面白い車に乗って、週末にフットボール観るみたいな生活は、アメリカの田舎で見る限り、どのルーツのアメリカ人も「概ね同じ」という感じで、そういう均質さを促す現代文明の力の方も、面白なあと思います。

2017/11/06

「文學界」カズオ・イシグロの中の「長崎」

文藝春秋の「文學界」(2017年12月号)にカズオ・イシグロ論を寄稿しました。タイトルは、カズオ・イシグロの中の「長崎」で、今年度にノーベル文学賞を受賞した英国の作家・カズオ・イシグロについて、初期の日本を舞台にした作品を中心に、「信用できない語り手」による「記憶の捏造」と「自己正当化の欲望」の描き方に着目して論じています。

カズオ・イシグロは五歳まで長崎市の新中川という町で暮らしていました。
私が通っていた長崎市立桜馬場中学校は、イシグロの生家から歩いて五分ぐらいの所にありました。ノーベル文学賞の受賞時に注目を集めた、イシグロが通っていた幼稚園もすぐ近くで、私はイシグロの小説でも出てくる「新中川」の電停を通学に使っていました。もしイシグロが長崎に残っていて、市立の中学校に通っていれば、イシグロは私の中学校の先輩ということになります。

原稿用紙で50枚と少し、約20ページの批評文です。目次では「評論」の項目に掲載されています。
http://www.bunshun.co.jp/mag/bungakukai/bungakukai1712.htm

今回書いた批評文では、カズオ・イシグロの長崎を舞台とした初期の作品を中心に、「信頼できない語り手」による「自己正当化の欲望に彩られた記憶」の描写について、踏み込んだ分析を行っています。新しい視点からの分析もあり、文芸誌らしい批評文になっていると思います。

カズオ・イシグロについては、まだ書きたいことが多々ありますので、依頼があれば、その後の作品についても詳しく論じたいと考えています。
この作家は、インタビューや講演に際して、作家としての自己の実存をどう示すか、ということに極めて意識的な書き手なので、彼の無意識レベルの言表に切り込んだ分析が必要である、と改めて実感しています。

編集者の評判も良かった原稿ですので、お時間がありましたら、ぜひご一読下さい。


2017/10/24

ウィーン大学での発表

オーストリアのウィーン大学の社会科学系の学会 ICSS XIII - 13th International Conference on Social Sciences)で発表を行ってきました。
ウィーン大学は1365年創立の歴史ある大学で、メイン・キャンパスがウィーンの街の真ん中にあるので、学会が終わったあともwifiや中庭のカフェを利用しながら、仕事をするのに重宝しました。

オープニングのKeynote Speechでは、「An analysis of Media News Reports that Mentioned the North Korea Crisis in 2017 」というタイトルで、日本の北朝鮮報道の問題点について、CGを使った誇張表現が多用されている事例を挙げながら、説明しました。

まとめとして東西ドイツの統合のきっかけを作った「汎ヨーロッパ・ピクニック」のように、平和的な解決策についてメディアが報道することの重要性について説明し、発表を終えました。

通常の研究発表では、「An Analysis of Industrial Revolution Heritage Sites as Media to Communicate Historical Facts in Japan」というタイトルで、ネガティブな歴史も含めた事実を伝達するメディアとして産業遺産が果たす役割の意味について、日本を事例にした発表を行いました。

全体に様々な国と地域の研究者から関心を頂き、レセプションも含めて楽しい時間をウィーンで過ごすことができました。ウィーンは街中が散歩しやすく、ブリューゲルの代表作を見れたり、フロイトの博物館もあるので、何度行っても飽きません。



その他、カンファレンス以外の時間には、アルプス周辺の産業遺産に関するフィールドワークを行い、ダボスやインスブルックなどを訪れました。アルプスの雪山は何度見ても美しいです。

学会が終わってから帰国して現在に至るまで、授業と校務をこなしつつ、文芸誌向けの原稿約50枚を書き、次の原稿にも追われている状況で、ここ数週間の記憶がほとんどありません。

向こう3週間ぐらいで3つの学会に出ないといけないですが、何とか元気に働きたいと思います。入稿した原稿については、また後日。



2017/08/08

コロンビアとキューバ滞在

IAMCR(国際メディアコミュニケーション学会)でコロンビアのカルタヘナに行ってきました。写真が街の中心にあるカンファレンス・センターで、このあたり一帯が奴隷貿易の拠点となった場所で「(負の)世界文化遺産」に登録されています。ネガティブな歴史も含めて観光資源となっているのがカルタヘナの魅力だと実感しました。

私はガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』の雰囲気を味わいたかったので、やや治安の悪そうなエリアに泊まったのですが、下の写真のように平日の真夜中でも路上に若者たちが集い、音楽を大音量でかけて飲みながら歓談していました。特に観光地という場所でもない教会前の広場が深夜でこの賑わいです。『百年の孤独』の舞台らしい雑多で魅力的な街で、古い建物が補修されて使われ、街全体が世界文化遺産として登録されています。夕食はMedia Studiesを専門とする先生方とご一緒したのですが、シーフード料理が実に美味しく、滞在中は毎日食事の時間が楽しみでした。


郊外にある鳥園で観た珍しいトリのショーも、日本では見たことのない内容で、思いの他レベルが高く、下のような漫画で見たような嘴の大きな鳥が、人間の指示に従ってボールなどを健気に運んでくれます。ヒッチコックの「鳥」のように、恨みを買うと復讐されそうな知的レベルです。某大学の若手教員が、インコにひどく気に入られ、長時間インコを肩に載せて、耳を甘噛みされ続けていましたが、ビルマの竪琴の演出は正しかったのだと感心しました。


カンファレンスが終わった後は、一人キューバに立ち寄りました。「そうだ、キューバに行こう」と。キューバも旧市街全体が世界文化遺産で、街を歩くだけでスペイン統治時代に戻ったような趣があります。ただ空港で荷物が出てくるのに2時間かかりました。係の人がひどく怒られていましたが、一向に荷物が出て来ません。その後「あっちの方から荷物が出るらしいぞ」という不確かな情報が拡がると、人々が「あっちの方」に流れ出し、半信半疑でついて行くと、本当に「あっちの方」から荷物が出てきます。社会主義を実地で学んだ気がしました。
 それでも街行く人々は至って親切で、六本木でダンサーをやっていたという怪しげな親子連れが、通りすがりに懇切丁寧に旧市街を案内してくれたのですが、他の国のようにチップを要求されることがありません。「また来てね」と言って、さわやかな笑顔で別れていきます。道を歩いていても、親切に(聞いてもいない)裏キューバ情報を教えてくれるなど、普通の人々が資本主義に擦れていない感じは、本物でした。



旧市街全体が70年くらい時間が止まっています。例えばヘミングウェイの定宿、アンボス・ムンドスや彼が通ったバーが、往時と変わらない佇まいで残っています。有名な50年代のアメ車タクシーも味わい深いですが、料金が高いので、私はオート三輪のドライバーと交渉して、1/3ぐらいの値段で、ゲバラの家など町外れに足を運びました。キューバの生活空間をオート三輪で間近に見られて楽しかったです。博物館のキューバ革命に関する展示も、アメリカとの両義的な距離が感じられて面白く、国全体として見れば一人あたりの所得は低いとはいえ、一人一人と向き合うとフェアな感覚が行き届いている感じがして、魅力的で、懐の深い国だと実感しました。「そうだ、キューバに行こう」と、また気軽に立ち寄りたいものです。

2017/06/23

慶應義塾大学SFCスピリッツ

慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの卒業生紹介コーナー、「SFCスピリッツ」で私のゼミの教育・研究活動を紹介して頂きました。といっても依頼を受けて寄稿した文章ですので、大学院〜2008年度の博士号取得までのことや、お世話になった先生方とのことについて、自由に書かせて頂きました。「現在の仕事や活動等について、学生時代の思い出を交えながら紹介する」という企画に沿った内容です。

文教大学のゼミの写真に加えて、お世話になった福井弘道先生の特別講義の写真や、共同通信とのプロジェクトでの戦友・池上さんとの写真も掲載して頂き、若手研究者時代の思い出をまとめたような内容となりました。

よく言われることですが、20代にどういう人と出会い、何を体験的に学んだかということは、その後の人生を大きく左右するものだと、書きながら改めて実感しました。

慶應義塾大学の湘南藤沢キャンパスは様々な分野で活躍する卒業生を輩出してきた歴史がありますので、大学院の卒業生の一人として、現在の仕事・活動を紹介する機会に与れて嬉しく思います。

以下、紹介記事へのリンクです。

SFCから約2キロ、文教大学湘南キャンパスで教えています|酒井信さん(2002年政メ修士修了、2008年後期博士修了)
http://www.sfc.keio.ac.jp/alumni_stories/012488.html

慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス SFCスピリッツ
http://www.sfc.keio.ac.jp/alumni_stories/



2017/06/20

柏崎刈羽原発に行ってきました

新潟大学での学会の帰りに、柏崎刈羽原発に行ってきました。日本の原子力発電所の近くには、原発の広報と情報公開を目的とした施設が建っていることが多いのですが、柏崎刈羽原発にも「サービスホール」という名称の施設がありました。

敦賀原発の「あっとほうむ」に行ったときも思いましたが、施設の名称が福島原発事故以後の時代に適していないように感じます。「サービスホール」という名称には「(本当は公開したくないけど)サービスで情報公開を行っています」という高圧的なニュアンスが感じられますし、「あっとほうむ」という名称には、原発の存在を快く思っていない人々を小馬鹿にするようなニュアンスが感じられます。



ただ「サービスホール」の展示そのものは分かりやすく、1/5の原子炉模型があったり、原子力発電の基本的な仕組みについて説明していたり、世界の原子力発電についても、詳しいデータが表示されるタッチパネル式の良い展示がありました。福島第一原発の「廃炉に向けた取り組み」についても、目立つ場所に展示されていて良いと思いました。

ただ疑問に感じたのは原子力発電のコストに関する展示で、特に「原子力発電コスト 10.1円~/kWh」という説明です。



元データは経済産業省・資源エネルギー庁が出した2015年の下の報告書だと思いますが、
http://www.enecho.meti.go.jp/committee/council/basic_policy_subcommittee/mitoshi/cost_wg/006/pdf/006_05.pdf
このデータの「社会的費用」のコスト算出が不適切であることは、その後の賠償・除染・廃炉等の費用の増大を考えれば明らかと思います。

例えば毎日新聞は2016年末、廃炉・除染等の費用が従来の想定の2倍に増えると報道しています。
経産省発表で2倍ですので、先々もっと増えるのでは、と思います。
https://mainichi.jp/articles/20161128/k00/00m/040/085000c

原子力発電が石炭やLNGの火力発電などよりも「コストが安く」「エコ」だと謳いたいのだと思いますが、このような神話が崩壊していることは、誰の目にも明らかと思います。しかも増えたコストは電気代で補填されていく計画だから、「原発のコストが安い」という展示は、市民感情を逆なでするものだとも思います。

原発に関して情報公開が促進され、観光や学校行事で人々が訪れる施設があること自体はいいことだと思います。ただ原発の存在を「コスト面」や「エコ」で正当化する展示は、3・11以後の日本では、明らかに説得力を欠いています。

エネルギーに関する展示施設に人々が求めているのは、長期的な視野の下で練られた「脱原発に向けたシュミレーション」や、「エネルギーの自治」を促進するような新しい技術や国内外の取り組みについての展示だと思うのです。

2017/06/01

日本マス・コミュニケーション学会(2017年度春季)の研究発表論文(予稿)

日本マス・コミュニケーション学会(2017年度春季研究発表会・新潟大学)で発表を行います。表題は「ウェブ上の情報環境とコミュニケーションの変化がもたらすメディア・リテラシー上の諸問題に関する研究」です。内容は、情報環境論として先々の書籍化を予定している内容の「認識の枠組み」と問題意識の所在について論じたものです。以前に「新潮45」に発表したIT系の論考と結び付いた論旨です。

ウェブ上の情報環境とコミュニケーションの変化がもたらすメ ディア・リテラシー上の諸問題に関する研究 A Comparative Analysis of Problems on Media Literacy that ICT Brings to 酒井信

要旨……本研究ではウェブ上の情報環境とコミュニケーションの変化がもたらすメディア・リテラ シー上の諸問題について、Lawrence Lessigが『CODE 2.0』で提示した理論的枠組みを参考にして、 以下の4つのレベルに区分して考察することを目的とした。私はウェブ上にコミュニケーション空 間が拡大した現代社会は、以下の4つのレベルで規制を必要とする問題を抱えていると考える。1 「情報のパーソナル化がもたらす諸問題」(個人レベルの問題)、2「ソーシャル・メディア上の 過剰結合がもたらす諸問題」(共同体レベルの問題)、3「プラットフォームの寡占化がもたらす 諸問題」(市場レベルの問題)、4「検閲の技術的な向上がもたらす諸問題」(国家レベルの問 題)本研究では1〜4のレベル毎にメディア・リテラシー上の諸問題を区分けして考えることが重 要であると考え、各レベル毎に生じてきた具体的な問題から演繹される規制のあり方について検討 することが、ウェブ上のメディア環境を豊かにする上で重要であると結論付けた。
キーワード 情報社会論, 社会思想, Media Studies

研究発表論文(予稿)の全文(PDFファイル・4頁)
http://mass-ronbun.up.seesaa.net/image/2017spring_D2_Sakai.pdf