西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第145回 2021年2月14日)は、伊与原新の直木賞候補作『八月の銀の雪』を取り上げています。表題は「地球科学の知見踏まえた物語」です。
著者の伊与原新は東京大学理学系研究科で地球惑星科学を専攻した経歴を持ち、博士(理学)を取得しています。海外では元科学者のSF作家は珍しくないですが、東大で博士号を取得し、一度は国立大学の理学部に務めながら、作家に転じた例は珍しいと思います。異色の経歴は小説に生かされていて、地震や気象、生命や環境問題など地球惑星科学の知見を踏まえたストーリーには、確かなリアリティが感じられます。
全体に地学や気象学、生命科学の専門的な知識が生きています。例えば国立科学博物館の「世界の鯨類」の展示の生物画を手掛けた年配の女性職員と若い母親の交流を描いた「海へ還る日」。2千メートルの深海に潜りながら「外向きの知性」ではなく「内向きの知性」を発達させてきた類としてのクジラの存在を通して、人間存在のあり方を問いかける内容が面白い作品です。「八月の銀の雪」は、理学の博士号を持つ地球惑星科学を専攻した著者らしい「地球規模の科学的な発見」に満ちた、現代日本を代表する「理系文学」だと思います。
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/692643/
伊与原新『八月の銀の雪』あらすじ
科学的知見に裏付けられた、心に傷を持つ人々を巡る5つの短編を収録。原発の下請け会社を辞めた辰朗と、風船爆弾の研究で亡くなった父を持つ男性の茨城の海岸での出会いを描いた「十万年の西風」など、壮大なスケールの下で現代日本に暮らす人々の心情が綴られる。