2018/02/26

「問題複合体を対象とするデジタルアース共同利用・共同研究拠点 成果報告会」での発表

今週末に名古屋の中部大学・中部高等学術研究所で行われる「問題複合体を対象とするデジタルアース共同利用・共同研究拠点 成果報告会」で発表を行います。
第二部の最初で「平成期の日本の自然災害に関する新聞報道の定量的な分析と地理空間上の報道分布に関する研究」についての発表です。研究補助員として雇用したゼミ学生2名も引率します。

東日本大震災の報道に埋もれた自然災害(落雷、雪崩、土砂災害、地滑り、崩落)に関する報道の分析を行うことを主目的として、これらの自然災害の報道で言及されている「被災地」を地理空間上にマッピングし、その集中と分散の傾向や報道内容を定量的に分析した内容です。


日本の報道(朝日・読売・毎日・日経の2012年〜2016年の記事、地方版も含む)を対象として、地理空間情報や被災の程度に関する10項目ほどのメタデータを整理し、その報道傾向を分析しています。

昨年は文芸誌に約500枚の原稿を書いてるぐらいなので、しばらく定量的な報道分析の研究からは遠ざかっていたのですが、特定課題研究「サイエンス・コミュニケーション・システム開発」で採択を頂いたので、上記の研究に取り組みました。

この研究は、前任先の慶應義塾大学グローバルセキュリティ研究所(現・慶應義塾大学グローバルリサーチインスティチュート)で行っていた共同通信社との英字ニュース解析の共同研究を応用したもので、5つの自然災害にトピックを絞り、人手による分析に重きを置いて、個人レベルで可能な研究として展開した内容です。

例えば、下は落雷に関する524件の報道のクラスター分析の結果と、地理空間上の分布に関するスライドです。落雷の発生数は九州や山岳地域が多いのですが、これらの地域では報道数が少なく、平野部に報道が集中していることが分かります。また落雷よりも雪崩の方が死亡事故を伴う可能性が高いため、数多く報道され、クラスターが数十%単位で大きくなることも分かります。この研究では自然災害に関する報道の質と報道量の格差が生じる理由について、分析を行っています。




と、書いているとふと前の職場が懐かしくなったので、慶應義塾大学グローバルリサーチインスティチュートのHPを久しぶりに確認したところ、ドローンを使ったと思しき三田キャンパスの空撮がいい感じのHPに変わっています。
http://www.kgri.keio.ac.jp/

以前はもっと地味な堅い研究所、という感じのHPでしたが、どなたか(たぶん慶應のどこかの学部の若手研究者)が頑張って更新されたのだと思います。

最初に映像に映る東館で働いていましたが、東京タワーの景色の素晴らしさもさることながら、中国飯店まで徒歩30秒、席に着いてお茶を一口飲み、担々麺を注文するまで1分という距離が素晴らしく便利でした。

上記の定量的な報道分析は応用範囲が広いのと、少々複雑な方法論とノウハウが出来上がっているので、関係する分野の先生方と、これからも共同研究をご一緒したいと考えています。

2018/02/22

中国文化大学(台湾)をゼミ生と訪問しました

台北の陽明山にある中国文化大学の新聞伝播学部(マスコミュニケーション学部)をゼミの学生と訪問しました。元新聞記者で同大学の教員の郭先生と学生たちの案内で、陽明山にある眺望のいいキャンパスを隅々まで見学させてもらいました。郭先生とは、以前に国際学会のセッションを一緒に運営して以来の仲です。


新聞伝播学部の設備は、日本のメディア系の学部と類似していましたが、学生達が台北のメディアで流す番組を制作したり、毎週、学生新聞を発行したり、設備を生かした活発さな課外活動が強く印象に残りました。学生達も、インターンシップが日常化している学生のパワーに感化されていたようでした。



大学の施設では、屋台っぽい雰囲気で様々な食べ物が並ぶカフェテリアの居心地がよく、日本の学食にも、もっと屋台感が必要だと個人的に思いました。キャンパス内で化粧品が売っているなど、微妙に日本と異なる部分が面白かったです。
日本のチェーン店舗も多く街中に進出している一方で、学生街の個人営業の食堂も活気に満ちていて、150円ほどで十分空腹が満たせます。

キャンパス内にはバスケットコートが多く、台湾のバスケット人気が実感できました。漫画『SLAM DUNK』の舞台となった湘南の聖地を、台湾の観光客の方々が多く巡っているのも納得がいきます。

陽明山から見る台北市や淡水の町の景色は素晴らしいですが、曇りや雨の日が多いそうです。晴れの日のイメージが強いわりに曇りの日が多い沖縄と気候風土が似ていると思いました。

近隣には、米軍から返還された兵隊の宿舎が林立しているのですが、その一帯が観光地となり、多くの建物がリフォームされてお洒落なレストランになっています。米軍に関する施設の雰囲気が、沖縄と全く異なっているので、沖縄出身の学生も興味を持っていました。





夕食で食べた小籠包の味にも大満足で、台湾の懐の深さに充実した一日を過ごしました。

個人的には、東アジアの他大学を大学生のうちに訪れることで、「日本を出たことないのに日本が一番」みたいなことを言う大人を減らすことができれば、いいかなと思っています。

日中台湾で共通の基金を作って、ミネルヴァ大学のように、大学生のうちに東アジアの3、4カ国を半学期で回る「必修プログラム」があっても面白いと思います。
という考えも、高校の修学旅行が、日中友好事業で北京を訪れる内容だった影響もあるのだと思います。

東アジアの国々の若者が互いの国を密に訪問し、現実の交流を土台としてWeb上で繋がれば、感情的な政治問題の多くは解決する気がしています。

2018/02/12

文教大学酒井信ゼミ 卒業研究一覧

2010年に着任して2017年までの文教大学酒井信ゼミの卒論の一覧を作成しました。
ゼミの卒論については、仮説を立てて、それを立証する形式を採り、新聞・雑誌・書籍を通して社会秩序や価値観の変化について分析する「メディア研究」であれば、テーマ設定は基本的に自由としています。一覧を作ってみると、学際的で、多様なテーマが並んでいて面白かったです。

卒論は、選択科目だった時期が長く、必修科目の時期とは、提出された論文の数(と教員の仕事量)が異なりますが、ほとんどの論文がA4で30ページを超える分量の内容で、50ページ以上の論文も多くあります。多くの学生(と教員)が時間をかけ、多くの良い論文が仕上がったことを嬉しく思います。

文教大学酒井信ゼミナール 卒業研究一覧


一覧を振り返って、卒業研究に傾向のようなものがあるか、確認してみました。
先ず気になったのは、教員の関心に近いテーマの論文です。
「ICT時代における市民ジャーナリズムと『正義』」
「東日本大震災における東北の地方紙の役割」
「四国・愛媛における 道州制の望ましいあり方についての研究  -『スローシティ』と『ボローニャ方式』に学ぶ地方自治のあり方-」
「書店と電子書籍の将来 ~ITと店舗空間を利用した新ビジネスの可能性について~」
「現代日本のフリーペーパーとソーシャルメディアの比較分析 ~広告コンテンツの現状と将来について~」
「『異常気象』に関する新聞報道量の推移に関する研究 —2015年 関東・東北豪雨を事例として—」
など、相対的にオーソドックスなJournalism and Media Studiesの研究に取り組んだ学生は、出版社や新聞社、書店など、メディア関連の企業に内定を得ている場合が多いですね。内定を踏まえ、教員からオーソドックスなテーマで書くことを勧めた側面もありますが、本人のメディアへの関心も元々高かったのだと思います。

次に気になったのは個性的なテーマの研究です。
「ニュースメディアの分析を通した相撲の人気回復に関する研究」
「お酒に関するメディア表象の分析」
「フードファイト報道 ~テレビと漫画、2つのメディアから見る競技性とエンターテイメント性~」
「サブカルチャーから読み解く日本人の宗教観」
「現代日本のジェンダーレス現象と少女漫画の姓に関する表象の研究」
「日本における『ミーハーミュージカル』の功罪と商業演劇・ミュージカルの進むべき道」
など、個々人の趣味を貫いた論文を書いた人は、個性的な進路に向かう傾向が強いです。「フードファイト」とか「日本人の宗教観」とか「ミーハーミュージカル」とか、教員の関心とほど遠いテーマでよく卒論を仕上げたものだと感心します。

その次に気になったのは、論文の大半を占めるWebメディアに関する論文です。私のゼミは情報学部に属しているので、IT系の広告会社やコンテンツ配信会社へ就職する学生が多いのと、3年生向けに教員紹介のインターンをいくつかのIT企業にお願いしている影響があるのだと思います。
「デジタルネイティブ世代が インターネットマーケティングに及ぼす影響について」
「著作権と現代日本のサブカルチャーに関する研究」
「インターネット広告の現状分析とビッグデータの活用について」
「現代日本のOOH広告とWEB広告のクロスメディア分析」
「インターネットを用いた消費活動の普及と若者の消費行動に関する研究」
「消費の「これから」を担う世代の消費傾向から読み解く最新マーケティング事情」
など、全体に質の高い論文が多かったです。
IT系の広告会社やコンテンツ配信会社の就職状況も良好なので、論文の質と相関しているのでしょう。

最後に気になったのは、テーマ設定に迷う学生向けに推奨している、就職先の業界研究に繋がる内容の論文や、住んでいる地域の社会・風土に関する論文です。
「SNSによる地域活性化 ~地域SNSとゆるキャラ~」
「浜岡原発のメディア史」
「京都の観光ニーズに関するメディア分析」
「街コンから見る地方自治体の地域活性化政策 ~『次世代文化都市』宇都宮市の宮コンへの取り組みをケーススタディとして~」
傾向として、出身地域をテーマを選ぶ学生は、公務員や事務職など堅実な進路に向かう傾向が強いですね。私も地方出身者なのでよく分かりますが、家族と地元を大事にして、幸福な人生を歩むことは大切なことなので、論文のテーマとして学びを深めるのはいいことだと思います。

文教大学でゼミを担当して8年、卒業研究を担当して7年が過ぎました。30代前半で着任したときには、キャンパス最年少の専任教員だったと思うのですが、すでに私も40歳です。

若い学生達と関わり、相対的に平均年齢の高い職場にいると、いつまでも「若手」の役割を担うことになっていますが、世間一般では言い逃れのできない「中年」なので、そろそろ「四十にして惑わず」で、仕事と人生の地盤を固める時期かも知れません。

サザエさんで言えば、マスオが28歳、波平が54歳なので、ちょうど中間のキャラ立ちしにくい時期ですが、地道に努力していきたいと思います。今年は単著の出版を予定しています。

文教大学酒井ゼミのページ
https://makotsky.blogspot.jp/p/blog-page.html

2018/02/06

Foreign Press Centerのセミナーと賀詞交歓会に行ってきました

文教大学学園が賛助会員となっている公益財団法人フォーリン・プレスセンター(FPCJ)のセミナーと賀詞交歓会に行ってきました。外国メディアへの取材支援を行う日本新聞協会と経団連が設立した団体です。


国際学部の生田祐子先生の勧めで、文教大学の学生もインターンでお世話になっています。日比谷公園が一望できるいい立地で、日本プレスセンターには何度か来たことがありましたが、FPCJは初めてでした。

セミナーも面白く、在京の外国メディア(中央日報、トンプソン・ロイター、第二ドイツテレビ)の日本での具体的な取材の段取りが分かって興味深かったです。

中央日報の特派員の方が、「明治維新150年の取材をしていると、韓国のメディアというだけで、ネガティブな先入観を持たれて困る」と述べていたのが印象的でした。日本ではメディア報道のバイアスが問題になることが多いですが、取材対象であるごく普通の人々が無意識的に抱いている先入観やバイアスについても、考えるべき問題と思いました。

第二ドイツテレビの方が作った日本を取材した映像も面白かったです。特に麺類を食べないドイツの特派員に、現地の人がラーメンの麺の啜り方を一生懸命に身振りを交えて教えたり、24時間営業の店が全くと言っていいほどないドイツの人向けに、コンビニの便利さを伝える映像が印象に残りました。

Media Stuidiesに関する国際学会に参加する時に、いつも思うことですが、日本語だけで活字や映像のメディアを語れる時代は、遠い昔の話です。日本語のメディアで扱われている事例やその背後にあるドメスティックな価値観は、国際的に主流である英語圏のメディアの事例やその背後にある多文化的な価値観とズレています。

日本の自治体の広報関係者の出席の多さが印象的でしたが、インバウンドの観光客への広報活動が活発化している印象を受けました。日本の大学も、留学生が興味を持ったり、海外のメディアが関心を抱くような情報発信を行わないと、国際社会の中でどんどん取り残されていくように感じています。

懇親会も様々な国からいらしたメディア関係の方々や、国際協力活動に関わられている大学の先生方とお話しできて楽しかったです。





2018/01/29

映画監督・沢島忠

東映の全盛期を支えた映画監督、沢島忠が91歳で亡くなった。沢島の映画はスピード感があり、ダイナミックな展開に時代を描く深みがあった。私は黒澤明や小津安二郎と並べても遜色ない、戦後日本を代表する映画監督の一人だったと思う。

沢島の代表作として中村錦之助や美空ひばりの初期の映画が紹介されることが多い。しかし私にとっては何と言っても鶴田浩二、佐久間良子の『人生劇場』シリーズである。
特に、後に『仁義なき戦い』シリーズで世に知られる笠原和夫が脚本を書いた『人生劇場 新飛車角』(1964年)が素晴らしい。

この作品は戦中・戦後の平仮名の「やくざ」を巡る状況の変化を描いた作品として出色であり、尾崎士郎の原作を切り詰め、映画らしい表現へと昇華させている。

『人生劇場 新飛車角』は未だにDVD化されていないが、戦後日本を代表する映画として、私は「メディア史」に関する授業で必ずVHSで取り上げている。
冒頭の戦中のシーンからラストの戦後の荒廃まで、スピーディーな展開は見事という他なく、鶴田や佐久間の視線で、時代の奔流をその渦中で描いていく。

鶴田浩二、佐久間良子もこの時期が役者として全盛期だろう。未だ映画がメディア産業の中心だった時代に、才能ある監督と脚本家と役者が、三位一体で築いた不屈の名作である。

脚本家の笠原和夫の脚本については、以前に扶桑社のen-taxiに、「実録・共産党」と『日本暗殺秘録』について解説を書いた。
笠原は『仁義なき戦い』のようなヤクザ映画の脚本家として広く世に知られるが、『人生劇場 新飛車角』や『日本暗殺秘録』のような戦前・戦後を舞台にした庶民目線の作品にも深い味わいがある。
https://makotsky.blogspot.jp/2009/10/blog-post.html

沢島忠監督の『人生劇場 新飛車角』は、笠原和夫を育てた作品であったと思う。この一作を観るだけでも、沢島の映画監督としての資質の高さと、笠原の映画脚本家としての輝く才能が感じられる。

沢島忠は1970年代に入ると、ほとんど映画を撮る機会に恵まれず、舞台を中心としたキャリアとなる。最後の監督作が1977年の『巨人軍物語 進め!!栄光へ』で、主演が王貞治、長島茂雄である。

才能溢れるこの監督の作品をもっと観たかった、というのが訃報を聞いて、真っ先に思い浮かぶ感想である。特に晩年に計画していたという沢島版の「忠臣蔵」を観たかった。

才能ある人をフェアに評価する批評が、まともに機能してほしいと思う今日この頃である。



2018/01/22

西部邁先生の思い出

西部邁先生の訃報に実感が湧かない。入水された多摩川の水の冷たさが、先生の酒場での暖かな雰囲気に似つかわしくないと思う。身近な人のことを深く思い遣る方だったので、先生なりの考えと強い決意を持って入水されたのだと思う。しかし、それにしても、と思ってしまう。

西部先生と最後にお会いしたのは、15年近くも前の大学院生の頃である。大学院でお世話になっていた福田和也先生のお供で「発言者」の対談を見学させてもらい、その後、ゴールデン街の店に連れて行って頂くのが常だった。

「発言者」の対談で、西部先生は自分の言いたいことを言うという感じではなかった。「発言者」という雑誌を通して西部先生は、持論を世に広めたいというよりは、福田和也や佐伯啓思、スガ秀実など脂の乗った一流の書き手と議論することを、心から楽しんでいるように見えた。

いわゆる保守の論客のイメージは、お会いした西部先生の姿にはそれほど感じられなかった。父権的な強さよりも、父権的な優しさの方が際立って見えた。「三国志」に出てくる武将のようだ、と思った。

政治的には反米保守、経済的にはアンチ新自由主義で、ケインズ主義者、社会的には、家族関係に根ざしたコミュニティ支持者、という印象で、右翼・左翼という区分で言えば、双方の思想性を包含する立場の方だった。

最初に西部邁先生にお会いしたのは、早稲田大学の4年生の時である。私は4年の春学期に慶應大学の大学院への進学が決まっていたので、福田先生の授業を聴講していた。
1999年のことで、この年の夏に、江藤淳先生は66歳で自裁された。西部先生が今回の入水に際して、江藤先生のことを考えなかった、ということはないと思う。

この年に初めて受けた福田和也先生の授業は、厳しいものだった。一コマの授業で毎週、数冊の本を読み、長々としたレジュメを書かないと、出席すら認められない。授業が進むに連れて履修者がどんどん減っていく。本を読まずに出席した学生を怒鳴って教室から追い出している福田先生の姿が、昨日のことのように目に浮かぶ。福田先生も40歳前後でカロリーが高く、若かった。この年の授業が、その後の大学院時代の授業の標準となった。

学期の後半になると、学生が教室に寄りつかなくなり、授業はほとんどマンツーマンになっていた。その頃にようやく私は名前を覚えられ、「西部邁先生のゲスト講義に来ないか?」と声を掛けられた。宗教の勧誘のようだ、と思った。

当時、私はポストモダン思想にかぶれ、生意気だった。私はいつものノリで、西部先生の道徳のあり方や戦後日本についての意見に、柄谷行人の著作を引きながら、反論してしまった。その結果、私は飲み会の時間めいっぱい、他の学生のことなどお構いなしで論駁され、人生の厳しさを思い知らされた。

福田先生はその論駁を、ニヤニヤしながら、見て見ぬふりをしていた。性根の悪そうな人だと思った。飲み会の終わり際に、「初戦としてはよかったんじゃない」と脂の乗った顔で笑っていた。何が「初戦」なのか、その時はよく分からなかった。

当時、私は茶髪で、柄谷行人に限らず、ポスト構造主義の哲学書や福田和也や宮台真司の著作を好んで読んでいた。おそらく外見の上でも、思想の上でも、西部先生にとって私は格好の「酒のつまみ」だったのだと思う。西部先生は茶髪が嫌いで、地に足の着かない、ポストモダン風の概念を振り回す議論が嫌いだった。

しかし西部先生は、一度論駁した相手に優しかった。見込みがあるから論駁するんだ、とも言ってくださった。先生は私のようなただの大学院生に対しても礼儀正しく、高圧的ではなかった。東大出身で、東大でも教鞭を執っていたのに、それを鼻に掛けるようなことがなかった。60年安保闘争の中心にいた方なのに、学生運動を美化し、自慢するようなこともなかった。

ゴールデン街の店でも、個人レッスンをするように、「なあ、酒井君、『良識』とは何か考えているか」という具合に、議論の相手になってくださった。同じことが大学教員となった今、私が若い院生に対してできるかと言えば、全く自信がない。私が地方出身だったこともあってか、生まれ育った北海道でのご苦労について多く話してくださった。

その後、中野の方で定期的に開催されていた「発言者」の勉強会にお声がけを頂いた。この頃、私は一人で本を読む方が好きだったので、勉強会には数回しか出席しなかった。ただこの頃の西部先生の話は、大衆社会の批判や、ポピュリズムの批判を中心とした「治者の哲学」とでも言えるもので、IT革命以後の時代でも色褪せない、思想的な深みが感じられた。

後期博士課程に進む時、西部先生から推薦状を頂いた。しかしその後、些細なことで、西部先生と福田先生の間に溝ができてしまい、それが修復されないまま時間が流れてしまった。その後、書評などで二人の間にはやり取りはあったと思うが、溝が埋まっていたのかどうか、私はよく分からない。長い時間、対談や酒席を共にした二人にとっては、その溝はいつでも容易に飛び越えられる程度のものだったのかも知れない。

その後、私は論壇誌や文芸誌に原稿を書くようになったが、西部先生とお会いする機会には恵まれなかった。2007年から3年間、西部先生が学頭を務める秀明大学で、「メディア論」と「情報社会論」を担当させて頂いた。西部先生の弟子筋の安岡直先生にお気遣いや励ましを頂いた。当時、私は任期制の助教で、共同通信とのニュース解析の研究が慌ただしく、週に1日、秀明大学に授業に行くのは、いい気分転換だった。
この時も西部先生とお会いする機会はなかったが、間接的な形でお気遣いを頂いていたのだと思う。

私にとって西部邁先生の記憶は15年前で止まったままである。西部先生の訃報に接しても「『死』とはね、つまりこういうことなんですよ、酒井君・・」といつもの調子の話を、またどこかで聞けるような気がしてしまう。福田先生がよく、「西部先生ほど、話すのが上手く、頭脳明晰な方にお会いしたことはない」と言っていたが、その通りだったと思う。

西部先生は社交的な方だったので、弟子筋の方々や酒席を共にされた方々は数多くいらっしゃると思う。著作も多岐にわたり、『知性の構造』や『ケインズ』などの著作は、これからもっと再評価がなされると思う。

ただ私にとって西部邁先生の思想は、「発言者」の終わり頃、9・11以後の対テロ戦争の時代に、西部事務所で見学した、当時の脂の乗った書き手達との、左右の思想が入り交じった、快活なやり取りの中にこそある。幅広い知見を網羅した議論に接し、「知識人」と呼ばれる人々が、確かに存在するのだと実地で学んだ。


『テロルと国家』福田和也、佐伯啓思、スガ秀実、西部邁著 2002年・・左右の主義・信条を超えた豪華メンバーによる共著。

西部邁先生のご冥福を心よりお祈りいたします。

2018/01/04

ニューメキシコ州とコロラド州でのフィールドワーク

年末に「負の歴史遺産」の実地調査の一環で、アメリカ大陸の先住民の遺跡に関するフィールドワークを、ニューメキシコ州とコロラド州で行ってきました。個人的には、比較文化論への関心が高いので、こういうフィールドワークが研究活動で一番楽しいです。

日本では、インディアンではなく、ネイティブ・アメリカンという言葉が使われる傾向にありますが、厳密に言うとネイティブ・アメリカンという言葉には、アラスカ・エスキモーやハワイ、サモアなどの先住民も含まれます。アメリカで「インディアン」という名称はそれほど差別的なものではなく、むしろ先住民の一定の部族を指す名称として、一般的に使われています。

今回私が訪れたのは、世界文化遺産にも登録されている下の3箇所です。何れもデンバーやアルバカーキといった大きめの街から、車で半日ぐらいかけて移動しないと辿り着かない場所にあります。そういう交通の便の悪さも、途中の自然を楽しむと思えば、心地よく、ここ最近、ロッキー山脈周辺の町が魅力的なので、その歴史について調べるのに、はまりつつあります。

そういう中で最初に向かったのは、西暦1000前後の遺跡が点在し、広大な公園内を、車で見て回る感じのChaco Culture国立歴史公園。



ここのアクセスが一番大変で、途中で道路が雨で流されて途切れている感じのところがあり、タイヤが砂に沈んで車が前に進まなかったときは、少し焦りました。

とはいえ、そういう交通の便の悪さは、手つかずの自然が保全されていることの裏返しでもあるので、先住民の遺跡がナチュラルに展示されている雰囲気を楽しむことができました。

次に向かったのはSanta Fe近くの同時期にプエブロ部族が建設した集落Taos Puebloです。
先住民のアパートという感じの建物で、土と木と水で作ったことを考えれば、高度な建築と言えると思います。メキシコシティの展示に、「アメリカ大陸の先住民は、メキシコシティ近辺まで辿り着いて高度な文明を築いた」といった内容の説明がありましたが、それはメキシコ贔屓というもので、プエブロ文化の遺跡を見る限り、ニューメキシコ州のプエブロの先住民の文明も、だいぶ高度なものであることが分かります。

Taos Puebloでは現在も先住民が住みながら補修し、現地の素材を継ぎ足しながら、往時の集落の面影を保全しています。こういう今でも人が住んで手入れしている感じの遺跡は、居心地がいいです。

最後に向かったのがMesa Verde国立公園です。ここも敷地がとんでもなく広く、入り口から崖の下に作られた遺跡まで、車で1時間ぐらいかかりました。
現地の白人のおばさんがプエブロの人たちを、「バスケット・メーカー」という呼び方をしていたのが印象的でした。実際にプエブロの籠作りも有名で、お土産が売っていたりしたのですが、1000年前後のプエブロ文化はそれよりも発達したものだったようです。ガイドへの質疑応答で、普通に話していると感じの良い年配の白人の方が、先住民に関しては、よく聞くと差別的なことを言ってたりして、驚かされました。


あとアメリカの田舎を車で走って改めて面白いと思ったのは、車検がないので色々な車が走っていることでした。
ニューメキシコ州でも車のホイールに50センチぐらいの棘の突き出た車が走ってるのを見かけたのですが、完全にマッド・マックスの世界です。
ただそういう運転手も、通りすがりに「面白い車だねー」とか言うと、「どういたしましてー楽しんでねー」という感じで、笑いながら汽笛のようなクラクションを鳴らしてくれます。
こういうサービス精神の良さに触れると、やっぱアメリカの田舎は感じいいなあ、と思ってしまいます。確実にトランプに投票してそうな人たちだけど。

先住民の人々も、外見がアジアの人々と相対的に近いこともあってか、概して優しく、こちらの細かな質問にも長々と丁寧に答えてくれて、助かりました。

近年、ゲノム調査でY染色体を調べてルーツを探る、といった研究が盛んで、本になったものも面白く、私も科学的な文明論と言語グループの関係について、関心を持っているのですが、
その一方でバーガー食べて、巨大なサイズのコーラやビール飲んで、燃費の悪い面白い車に乗って、週末にフットボール観るみたいな生活は、アメリカの田舎で見る限り、どのルーツのアメリカ人も「概ね同じ」という感じで、そういう均質さを促す現代文明の力の方も、面白なあと思います。

2017/11/06

「文學界」カズオ・イシグロの中の「長崎」

文藝春秋の「文學界」(2017年12月号)にカズオ・イシグロ論を寄稿しました。タイトルは、カズオ・イシグロの中の「長崎」で、今年度にノーベル文学賞を受賞した英国の作家・カズオ・イシグロについて、初期の日本を舞台にした作品を中心に、「信用できない語り手」による「記憶の捏造」と「自己正当化の欲望」の描き方に着目して論じています。

カズオ・イシグロは五歳まで長崎市の新中川という町で暮らしていました。
私が通っていた長崎市立桜馬場中学校は、イシグロの生家から歩いて五分ぐらいの所にありました。ノーベル文学賞の受賞時に注目を集めた、イシグロが通っていた幼稚園もすぐ近くで、私はイシグロの小説でも出てくる「新中川」の電停を通学に使っていました。もしイシグロが長崎に残っていて、市立の中学校に通っていれば、イシグロは私の中学校の先輩ということになります。

原稿用紙で50枚と少し、約20ページの批評文です。目次では「評論」の項目に掲載されています。
http://www.bunshun.co.jp/mag/bungakukai/bungakukai1712.htm

今回書いた批評文では、カズオ・イシグロの長崎を舞台とした初期の作品を中心に、「信頼できない語り手」による「自己正当化の欲望に彩られた記憶」の描写について、踏み込んだ分析を行っています。新しい視点からの分析もあり、文芸誌らしい批評文になっていると思います。

カズオ・イシグロについては、まだ書きたいことが多々ありますので、依頼があれば、その後の作品についても詳しく論じたいと考えています。
この作家は、インタビューや講演に際して、作家としての自己の実存をどう示すか、ということに極めて意識的な書き手なので、彼の無意識レベルの言表に切り込んだ分析が必要である、と改めて実感しています。

編集者の評判も良かった原稿ですので、お時間がありましたら、ぜひご一読下さい。


2017/10/24

ウィーン大学での発表

オーストリアのウィーン大学の社会科学系の学会 ICSS XIII - 13th International Conference on Social Sciences)で発表を行ってきました。
ウィーン大学は1365年創立の歴史ある大学で、メイン・キャンパスがウィーンの街の真ん中にあるので、学会が終わったあともwifiや中庭のカフェを利用しながら、仕事をするのに重宝しました。

オープニングのKeynote Speechでは、「An analysis of Media News Reports that Mentioned the North Korea Crisis in 2017 」というタイトルで、日本の北朝鮮報道の問題点について、CGを使った誇張表現が多用されている事例を挙げながら、説明しました。

まとめとして東西ドイツの統合のきっかけを作った「汎ヨーロッパ・ピクニック」のように、平和的な解決策についてメディアが報道することの重要性について説明し、発表を終えました。

通常の研究発表では、「An Analysis of Industrial Revolution Heritage Sites as Media to Communicate Historical Facts in Japan」というタイトルで、ネガティブな歴史も含めた事実を伝達するメディアとして産業遺産が果たす役割の意味について、日本を事例にした発表を行いました。

全体に様々な国と地域の研究者から関心を頂き、レセプションも含めて楽しい時間をウィーンで過ごすことができました。ウィーンは街中が散歩しやすく、ブリューゲルの代表作を見れたり、フロイトの博物館もあるので、何度行っても飽きません。



その他、カンファレンス以外の時間には、アルプス周辺の産業遺産に関するフィールドワークを行い、ダボスやインスブルックなどを訪れました。アルプスの雪山は何度見ても美しいです。

学会が終わってから帰国して現在に至るまで、授業と校務をこなしつつ、文芸誌向けの原稿約50枚を書き、次の原稿にも追われている状況で、ここ数週間の記憶がほとんどありません。

向こう3週間ぐらいで3つの学会に出ないといけないですが、何とか元気に働きたいと思います。入稿した原稿については、また後日。



2017/08/08

コロンビアとキューバ滞在

IAMCR(国際メディアコミュニケーション学会)でコロンビアのカルタヘナに行ってきました。写真が街の中心にあるカンファレンス・センターで、このあたり一帯が奴隷貿易の拠点となった場所で「(負の)世界文化遺産」に登録されています。ネガティブな歴史も含めて観光資源となっているのがカルタヘナの魅力だと実感しました。

私はガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』の雰囲気を味わいたかったので、やや治安の悪そうなエリアに泊まったのですが、下の写真のように平日の真夜中でも路上に若者たちが集い、音楽を大音量でかけて飲みながら歓談していました。特に観光地という場所でもない教会前の広場が深夜でこの賑わいです。『百年の孤独』の舞台らしい雑多で魅力的な街で、古い建物が補修されて使われ、街全体が世界文化遺産として登録されています。夕食はMedia Studiesを専門とする先生方とご一緒したのですが、シーフード料理が実に美味しく、滞在中は毎日食事の時間が楽しみでした。


郊外にある鳥園で観た珍しいトリのショーも、日本では見たことのない内容で、思いの他レベルが高く、下のような漫画で見たような嘴の大きな鳥が、人間の指示に従ってボールなどを健気に運んでくれます。ヒッチコックの「鳥」のように、恨みを買うと復讐されそうな知的レベルです。某大学の若手教員が、インコにひどく気に入られ、長時間インコを肩に載せて、耳を甘噛みされ続けていましたが、ビルマの竪琴の演出は正しかったのだと感心しました。


カンファレンスが終わった後は、一人キューバに立ち寄りました。「そうだ、キューバに行こう」と。キューバも旧市街全体が世界文化遺産で、街を歩くだけでスペイン統治時代に戻ったような趣があります。ただ空港で荷物が出てくるのに2時間かかりました。係の人がひどく怒られていましたが、一向に荷物が出て来ません。その後「あっちの方から荷物が出るらしいぞ」という不確かな情報が拡がると、人々が「あっちの方」に流れ出し、半信半疑でついて行くと、本当に「あっちの方」から荷物が出てきます。社会主義を実地で学んだ気がしました。
 それでも街行く人々は至って親切で、六本木でダンサーをやっていたという怪しげな親子連れが、通りすがりに懇切丁寧に旧市街を案内してくれたのですが、他の国のようにチップを要求されることがありません。「また来てね」と言って、さわやかな笑顔で別れていきます。道を歩いていても、親切に(聞いてもいない)裏キューバ情報を教えてくれるなど、普通の人々が資本主義に擦れていない感じは、本物でした。



旧市街全体が70年くらい時間が止まっています。例えばヘミングウェイの定宿、アンボス・ムンドスや彼が通ったバーが、往時と変わらない佇まいで残っています。有名な50年代のアメ車タクシーも味わい深いですが、料金が高いので、私はオート三輪のドライバーと交渉して、1/3ぐらいの値段で、ゲバラの家など町外れに足を運びました。キューバの生活空間をオート三輪で間近に見られて楽しかったです。博物館のキューバ革命に関する展示も、アメリカとの両義的な距離が感じられて面白く、国全体として見れば一人あたりの所得は低いとはいえ、一人一人と向き合うとフェアな感覚が行き届いている感じがして、魅力的で、懐の深い国だと実感しました。「そうだ、キューバに行こう」と、また気軽に立ち寄りたいものです。