2019/10/21

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第81回 宮本輝『幻の光』

西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第81回 2019年10月20日)は、宮本輝の『幻の光』を取り上げています。表題は「奥能登に映える甘美な記憶」です。

尼崎の国道を跨いで建てられた「トンネル長屋」で生まれ育った「わたし」を主人公とした宮本輝の代表作です。日常に根ざした倦怠感と喪失感を、「幻の光」の下に照らし出しながら、鮮やかに描いた秀作で、彼の絶頂期の作品の一つだと思います。

「わたし」が25歳の時、初恋の相手だった夫がこれといった理由もなく、自殺してしまいます。新しい夫との生活は平和なものでしたが、「わたし」は尼崎で死に別れた前の亭主のことが、いつまでも忘れられず、「あんたは、なんであの晩、轢かれることを承知のうえで、阪神電車の線路の上をとぼとぼ歩いてたんやろか」と、奥能登の風景の中で、繰り返し問いかけます。

「もぬけのからみたい」になった「わたし」を、奥能登の人々が励ます描写が印象的で、たとえば漁師の「とめの」は、荒天の海に船を出し、皆に心配されながら戻ってくると「大丈夫やい。とめのは不死身やい。泳いででも帰ってくる女じゃ」と「わたし」を励ますように、見栄を張ってみせます。「とめの」に限らず、宿毛の生家に帰るといって蒸発した痴呆症の祖母や、土方として男たちに苛められながら懸命に働いて一家を支えてきた母親など、「わたし」が出会った女性たちの逞しさが、読後の印象として強く残る作品です。