2020/05/27

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第109回 西村賢太『けがれなき酒のへど』

西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第109回 2020年5月24日)は、芥川賞作家・西村賢太の同人誌時代の初期作品2作が収録された『けがれなき酒のへど』を取り上げています。表題は「肉感的に物語る狭小な浮世」です。

私小説は日常に宿る喜怒哀楽を、虚実や誇張を含めて分かち合い、生活への認識を深めるために必要とされてきたのだと思います。日本の近代文学は、長らく既存の社会秩序や教育システムから逸脱する人々によって担われてきました。西村賢太はこのような意味で伝統的な私小説の継承者だと思います。現代では珍しい、自己の現在を虚実や誇張を交えて切り売りすることができる稀な作家とも言えます。

特に初期の2作は、千葉市で2007年まで発行されていた同人誌「煉瓦」に掲載され、文學界の同人誌月評で何れも「ベスト5」に入ったもので、叩き上げの私小説の作家らしい作品です。10年ぐらい前に「文學界」に書評を書いて以来、久しぶりに西村賢太の作品を読み返しましたが、この作家は普遍的なものごとを捉えていると改めて感じました。



西村賢太『けがれなき酒のへど』あらすじ
中卒で世に出て社会の厳しさを知り、女性とも思うような関係が築けない「北町貫多の修業時代」を描いた私小説。藤澤清造をはじめとする作家たちへの偏執的な愛情が、不器用で、繊細な自意識を通して、目くるめく展開される。同人誌「煉瓦」に発表した最初期の2作品を収録。

2020/05/19

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第108回 江國香織『きらきらひかる』

西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第108回 2020年5月17日)は、江國香織の才気あふれる長編デビュー作『きらきらひかる』を取り上げています。表題は「距離感許容する求めない夫婦」です。江國香織が描く孤独であるがゆえに、他人との繋がりを求める奔放な男女の姿は、都市生活者らしく自由であり、結婚というイエ社会の制度と折り合いが付かず、不自由にも見えます。

荻窪駅前のカプセルホテルの描写があることから、中央線沿線にある東京郊外の町を舞台にした作品だと推測できます。1992年制作の松岡錠司監督の映画版では、井の頭公園や中央大学の多摩キャンパスがロケ地となりました。この映画を上京する前に見たせいか、大学と言えば、中央大学多摩キャンパスというイメージが強くあります。薬師丸ひろ子と豊川悦司、筒井道隆の演技が、東京郊外の無機質な風景と対照的に、人間臭く映えて、映画版も味わい深いです。


江國香織『きらきらひかる』あらすじ
アルコール中毒の笑子と同性愛者の睦月の風変わりな結婚生活を描いた作品。互いに同意して始まった結婚生活だったが、複雑な感情が交錯する。睦月の同僚で同性愛者でもある柿井たちとの「奇妙にあかるく、陽気で居心地がよかった」ホームパーティーなど、新しい感覚に満ちた人間関係が魅力。



2020/05/14

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第107回 三崎亜記『失われた町』

西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第107回 2020年5月10日)は、三崎亜記の『失われた町』を取り上げています。表題は「消滅する「町」不気味な居留地」です。この作品は直木賞の候補作となり、林真理子や北方謙三に高く評価されましたが、企みの深い複雑な物語設定が賛否を呼びました。

日本地図に次々と空白地が生まれる世界観は、福島第一原発事故によって「帰還困難区域」が生まれた状況と重なりますし、新型コロナウィルスでロンドンやマドリード、ローマなど世界の主要都市で「都市封鎖(ロックダウン)」が行われている現在の状況とも重なります。もし福島第一原発事故後や新型コロナウィルスが蔓延する時代を経た後に発表されていたなら、選考委員の理解も得やすく、その評価も大きく変わっていたかも知れません。

オンライン授業もだいぶ慣れてきた感じで、5月中の授業の準備と録画を終えたところです。学生の皆さんの「自宅学習」の意欲を喚起できるような授業を心がけています。


三崎亜記『失われた町』あらすじ
およそ30年に一度、何の前触れも因果関係もなく、数万人単位の「町」の住民が姿を消し、多くの命が失われる。「失われた町」の記憶や痕跡が、汚染を引き起こし、次なる町の消滅をもたらす。このような負の連鎖に立ち向かう、桂子さんと由佳という世代の異なる二人の女性を中心に描いた長編小説。第136回直木賞候補作。

2020/04/29

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第106回 三崎亜記『となり町戦争』

西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第106回 2020年4月26日)は、三崎亜記の『となり町戦争』を取り上げています。表題は「見えない戦闘 現代の寓話」です。この作品は、となり町とぼんやりと交戦状態になり、人々が互いに疑心暗鬼になる状況を描いたものですが、新型コロナウイルスが蔓延する中で、周囲の人々との関係が弱まっていく、現在の日本社会と重なって見えます。「社会風刺」の色彩も強いこの連載で取り上げるのによい作品だと考えた次第です。

明治大学のオンライン授業開始まで10日ほどですが、5月13日までの授業準備を終えました。サーバーへのアクセス集中と回線の混雑が予想される初週の授業は動画・資料・小課題ともアップロード済です。私の授業ページは、奨学金や各種相談窓口の案内や、安いPC・光回線の案内などで情報量があふれていますので、単位目当ての学生が近付きにくくなっているかもしれません(笑)ネットで話題になっているICUの学生の記事「「話してもわからん」をひっくり返したある日の学長からのメール」の定義だと、「オンライン授業で気合を入れすぎた先生」の一人になるのだと思います(笑)


三崎亜記『となり町戦争』あらすじ
小説すばる新人賞を受賞したデビュー作。「となり町」との日常の水面下で展開される戦争を描く。町役場から依頼された偵察業務を担う「僕」と、町役場で「となり町戦争」の担当者となった香西瑞希との関係が中心に据えられる。広報紙を通して戦死者数が増加していく描写がリアルな作品。デビュー作ながら、第133回直木賞の候補作となり、漫画化・映画化された。

2020/04/22

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第105回 井上荒野『結婚』

西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第105回 2020年4月19日)は、井上荒野の『結婚』を取り上げています。表題は「「だまされる女性たち」の闇」です。この作品は、結婚詐欺という文学的な題材を、父・井上光晴の同名の小説から受け継ぎつつ、被害女性の結婚願望の底に横たわる「闇」をオリジナリティの高いものとして描いた井上荒野の代表作だと思います。

明治大学は、当面のオンライン授業に伴うノートパソコン及びWi-Fiルータの貸与を決定いたしました。新型コロナウィルスを巡る対応で大変な時期ですが、教育機関で働く人々が懸命にオンライン教育の環境整備に努めていることが、少しずつでも理解されることを願っています。
https://www.meiji.ac.jp/koho/natural-disaster/6t5h7p00003417jg.html


井上荒野『結婚』あらすじ
結婚願望に囚われた全国各地の女性たちと、詐欺師・古海健児のはかない恋愛を描いた作品。東京の高校受験専門の学習塾で事務職員として働く亜佐子は、エッセイ教室で出会った古海にだまされてマンションの頭金を失う。河口湖でウエイトレスとして働く間宮千種は、佐世保にいた頃、妻子持ちの男に貢がせた大金を、古海に奪われ、故郷に戻ることができない。父である井上光晴の同名小説に着想を得た作品。


2020/04/16

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第104回 井上荒野『切羽へ』

西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第104回 2020年4月12日)は、井上荒野の直木賞受賞作『切羽へ』を取り上げています。表題は「親子二代の記憶を宿して」です。

オンライン授業に向けた準備を進めながら、本を読み、原稿を書く日々です。今週、本棚の増設工事を終えると、研究室の引っ越しがひと段落します。

『切羽へ』をについて、井上荒野は父・井上光晴が育った長崎県の崎戸を舞台にしているとインタビューで述べています。井上光晴は福岡県久留米市の生まれですが、軍港だった佐世保や炭鉱の島として栄えた崎戸で育ち、これらの土地を舞台に小説を記しています。高校生の頃に、この作品を清書する手伝いをして「父の文体を憶えた」というほどで、東京生まれの井上荒野の「血肉」には、長崎県の崎戸の情景がしみ込んでいるのだと思います。


2020/04/09

明治大学の教員データベースを更新しました

明治大学の教員データベースを更新しました。毎週の新聞連載をこなしていると、原稿をどの媒体に何を書いたか忘れることも多いので、大学の教員データベースで業績情報を一括管理することにしています。明治大学国際日本学部に着任して10日ほどが経ち、Zoomで会議や打ち合わせを行いながら、授業準備を行っています。COVID-19で学生たちと会えない状況ですが、オンライン上でもドメスティックな秩序とは異なる、開放的な価値観や社会観を育むようなコミュニケーションを心がけたいと考えています。

https://gyoseki1.mind.meiji.ac.jp/mjuhp/KgApp?kyoinId=ymddgioyggo


2020/04/08

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第103回 村上春樹『羊をめぐる冒険』

西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第103回 2020年4月5日)は、村上春樹の英語圏での実質的なデビュー作『羊をめぐる冒険』を取り上げています。表題は「開拓地と近代史の暗部交錯」です。明治大学の肩書で書いた最初の原稿です。

『ねじまき鳥クロニクル』の回でも述べましたが、1996年に大学1年生になった私は村上朝日堂のホームページ経由で、村上春樹さんと3通ほどメールのやり取りをしました。『そうだ、村上さんに聞いてみよう』(朝日新聞社)にやり取りが収録されていますが、「羊」から「ねじまき鳥」に至る作品には特別な思い入れがあります。

『羊をめぐる冒険』は『ねじまき鳥クロニクル』に至る「村上春樹の絶頂期」のはじまりを告げる作品で、新年度の連載の最初に取り上げるに相応しい作品だと考えました。COVID-19が流行している今は、私たちが小説を通して「内的な冒険」に繰り出すのに絶好の時期だと思っています。

この作品は、離婚を経験したばかりの「僕」と耳専門の広告モデルを務める彼女が、星の柄を持つ羊と失踪した友人=鼠を探しに、北海道の開拓地へ向かう奇妙な物語です。羊と鼠を巡るファンタジーのような物語と「保守党の派閥」をまるごと買い取った、児玉誉士夫を彷彿とさせる「右翼の大物」の話がシンクロしている点が、この時期の村上春樹の小説らしいと思います。


村上春樹『羊をめぐる冒険』あらすじ

友人の「鼠」は小説の題材を探し求めて、北海道と思しき場所で撮られた「謎の羊」の写真を送ってくる。広告会社で働く「僕」は、その写真をPR誌に掲載したことで「右翼の大物」と目される人物に脅され、「謎の羊」を探す旅に送り出される。一匹の羊と社会の暗部で巨大な影響力を持つ人々との関係を巡る、冒険小説。野間文芸新人賞受賞作。

2020/04/02

明治大学・国際日本学部に移籍しました

2020年4月1日より明治大学・国際日本学部に勤務しています。
文教大学に在職中は様々な方々にご支援を頂き、厚くお礼申し上げます。

「沈黙の春」と言える状況ですが、教員として出来ることからはじめるべく、オンライン授業に向けた準備に取り組んでいます。早速、パソコンを拡張性の高いものに買い替え、メモリを16GB増設しました。

ポストCOVID-19の時代を見据えながら、これからもメディア研究や文芸批評の国際化に貢献したいと考えています。
今年は立教大学と青山学院大学でも兼任で授業を担当します。

https://www.meiji.ac.jp/nippon/teachingstaff/sakai_makoto.html


2020/03/31

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第102回 恩田陸『ドミノ』

西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第102回 2020年3月29日)は、東京駅を舞台にした恩田陸の人気作『ドミノ』を取り上げています。表題は「「東京駅」を「街」として描く」です。

今回の連載が、文教大学の肩書で書いた最後の原稿になります。文教大学に着任して最初に書いた書評は、2010年6月の「週刊文春」の「文春図書室」の欄の『団地の時代』 (著者:原武史・重松清)の書評でした。同年の8月に「文藝春秋」に政界再編に関する論考を書き、「文學界」に最初の吉田修一論を寄稿しています。西日本新聞の連載を入れると10年間で150本近くの原稿を入稿したことになります。月日が経つのも早いもので、国際学会での発表も30回ほど行いました。

原稿を書く仕事は、大学での授業内容を新しく更新することとも結びついていて、学生とのやり取りが原稿に反映されていたりします。俗説として、教育をおろそかにすると研究が伸びると言われますが、とんでもない間違いで、研究をおろそかにしていると教育が古び、学生も教員も育たない、のが国際的な常識です。

「締め切りのある人生は短い」と、江藤淳がよく言っていたそうですが(大学院時代に福田和也先生も、好んでこの言葉を口にしていましたが)、多少なりともこの言葉の重みが実感できるようになったと感じる今日この頃です。

長いようで短い文教大学での10年間でしたが、熱心に授業を聞いてくれる学生たちに「書く勇気」を与えてもらい、「学生と一緒に教員も育った」10年間でした。文教大学での教育・研究活動を支えて頂いた皆様に、心より感謝申し上げます。


恩田陸『ドミノ』あらすじ
関東生命八重洲支社の女性職員たちや「エミー」のオーディションを受けに来た母娘、東日本ミステリ連合会の学生たちや俳句仲間のオフ会に集まった人々が、東京駅で起こる事件の数々に遭遇していく物語。過激派「まだら紐」のメンバーが持参した爆弾をめぐる取り違えが、様々な物語を飲み込んでいく。