2021/03/02

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第147回 中村文則『逃亡者』

 西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第147回 2021年2月28日)は、中村文則の新聞連載小説『逃亡者』を取り上げています。表題は「血生臭い『記憶』継承の意味」です。掲載頂いた写真は、2021年1月の「核兵器禁止条約の発効(日本は不参加)」に際して祈りを捧げる長崎の浦上天主堂の様子です。

 中村文則は、理不尽な暴行や虐待などを経験した人物のその後の人生を、彼らを内側から蝕む「理不尽な記憶」を通して巧みに描く作家だと思います。本作では「論理に論理をぶつけても、人間は変わらない場合がある」というドストエフスキーの言葉が重要なモチーフとなっています。

 主人公は左派のジャーナリストで、長崎市でキリスト教徒が多く居住してきた浦上地区にルーツを持つ中年男性です。彼は旧日本軍の軍楽隊で伝説となったトランペットに関する記事を書いたことで運命の歯車を狂わせ、日本の政治中枢に影響力を持つ「Q派の会」と呼ばれる宗教団体や、理不尽な暴力を行使するスイス人の殺し屋Bなどに追われることになります。

 長崎とドイツを主な舞台とした本作について、中村文則は次のように述べています。「僕は出身は愛知県ですが、ルーツが長崎で、初めて長崎についても書くことになりました。いつか書く、とずっと決めていたテーマでもあります」と。確かに本作は自己のアイデンティティに関わる問題と対峙する熱量が伝わってくる中村文則の代表作だと思います。

(同じ1977年生まれの中村文則さんの作品について書くのは、2005年に担当した「文學界」の連載「新人小説月評」以来でした。半年間の月評の担当期の芥川賞が、中村さんの「土の中の子供」でした。ノワール小説を手掛けつつ、ジャンルを拡げつつも、実存的な内面描写は変わらず、国際的に高い評価を獲得されていて、素晴らしいと思います)

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/699711/


中村文則『逃亡者』あらすじ

第二次世界大戦中に、日本の軍楽隊で伝説となり、局地的な作戦を奇跡の成功へと導いたトランペットをめぐる物語。キリスト教徒の迫害から、太平洋の玉砕戦を経て現代に至る歴史に、現代を生きる主人公の視点を通して迫る。伝説のトランペットを媒介として、新たな記憶が物語に次々と断層を走らせていく中村文則らしい、現代的な歴史小説。