2019/06/02

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第61回 桜庭一樹『私の男』

西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第61回 2019年6月2日)は、桜庭一樹の直木賞受賞作『私の男』を取り上げています。表題は「震災孤児の危うい心情」です。

この小説は東日本大震災の直前に、津波の被害を描いた数少ない作品の一つです。東日本大震災が発生した時、私が真っ先に思い浮かべたのは、この小説で描かれた1993年の奥尻島地震の描写でした。「そうっと振りむくと、坂道の下から黒い雲のようなものが、音もなく、ゆっくりとうねって近づいてきていた。煙のような、悪夢のような。水だ、海がどんどん近づいてくる、とわかった。」

終盤の津波の描写は、この小説のクライマックスというよりは、理不尽かつ唐突にやってきます。数ページの記述の中で、あっという間に、9歳の「花」の日常生活が海中に沈んでいく様子に圧倒されます。「ゴォォォッと、おおきな車————観光バスか四トントラックが近づいてくる音がして、お父さんがあわてて左に避けようとした。振りむいたわたしは息を呑んだ。/車じゃなかった。バスなんかよりはるかに高い真っ黒な波が、やわらかくうねりながら迫っていた」。

一般に人間の記憶は、客観的に撮影された「映像」のようなものであるとされます。ただこの作品で記されている被災の経験は、「波のやわらかさ」を感じるような感覚的なもので、現代小説らしい現実感に満ち溢れています。この作品を読んでいたことで、2011年の大津波から逃れることができた人もいたと思います。直木賞受賞作品の中でも屈指の傑作であり、「問題作」と言える際どい魅力に満ちた作品です。