2018/07/29

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第18回 村上春樹「1973年のピンボール」

西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」の第18回(2018年7月29日)は、村上春樹の2作目の長編『1973年のピンボール』について論じています。表題は「故郷に別れ告ぐ『私小説』」です。村上春樹については短文を書くのは2回目ですが、先々まとまった批評文を書きたいと考えています。

『1973年のピンボール』は、村上春樹が育った故郷の芦屋と思しき町を舞台にした作品で、この作品は村上春樹が書いた数少ない「私小説」と解釈できる内容です。
デビュー作の『風の歌を聞け』と2作目の『1973年のピンボール』は芥川賞を逃しますが、村上春樹は三作目の『羊を巡る冒険』で、作品の質と売上げの双方で大きな成功を収めて、芥川賞を貰わずとも、日本を代表する作家として飛躍していきます。

村上春樹のように様々なジャンルの作品を残す作家は、エッセイと区別が難しい、生まれ故郷を舞台とした私小説を書くことで、故郷に別れを告げ、作家と「成熟と喪失」を遂げ、飛躍していく傾向にあると思います。この意味で『1973年のピンボール』は、村上春樹にとって「故郷喪失者」として世界へと飛躍するきっかけとなった重要な「私小説」だと私は考えています。

春学期の授業も終わり、9月上旬に発売予定の単行本のゲラの戻しも終わり、同じ月に掲載予定の季刊の文芸誌の初稿も終わり、ひと段落という感じですが、まだまだたまっている仕事があり、夏休みは遠そうです。。


2018/07/22

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第17回 江國香織「神さまのボート」

西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」の第17回(2018年7月22日)は、江國香織の代表作『神様のボート』について論じています。表題は「母娘の関東周縁放浪記」です。

この作品について江國香織は、「いままでに私の書いたもののうち、いちばん危険な小説だと思っています」と述べています。この小説は母娘の成長を描いた作品ですが、内容は際どく、身内や友人と連絡を絶ち、関東の周縁とも言える町を一年に一回ほどのペースで「旅がらす」として渡り歩きながら、娘の父親の「あの人」を探して回る話です。

東京の周縁を巡りながら、昼間にピアノを教え、夜はバーで働きつつ、正気と狂気が混在した日常の中で、父親を探し、娘を育てる母親の姿に、地に足の着いたリアリティが感じられます。

江國作品の魅力は、感覚的な言葉が切り開く外界の新鮮な手触りにあります。小説を読み進めるに従って、母親が娘の成長という現実と対峙することを余儀なくされていくわけですが、その娘の成長を実感する母親の「際どい感情の手触り」が、実に小説らしい表現で、読み応えがあります。

『神様のボート』は江国香織にしか書けないような作品であり、現代を代表する女性作家の実に「際どい」代表作だと思います。



2018/07/15

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第16回 辻村深月「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。」

西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」の第16回(2018年7月15日)は、辻村深月の出世作と言える『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』について論じています。表題は「地方標準で家族像模索」です。

この作品は辻村深月が生まれ育った山梨県の甲府市や笛吹市を舞台にした自伝的な作品で、20代から30代前半にかけて女性の多くが経験する恋愛や結婚、出産に伴う生活の変化と向き合った作品です。辻村自身も、大学卒業後に地元の山梨に戻って就職していたらしく、メフィスト賞を受賞してデビューした後も山梨で仕事を続けながら、平日の夜や土日に執筆を続けていたそうです。

以前に『朝が来る』について論じた回(第5回)の原稿で書きましたが、辻村深月は小説の表現を通して伝えたい「強い思い」を持った作家だと思います。
https://makotsky.blogspot.com/2018/04/blog-post_29.html

辻村は小説という表現の形式を通して、結婚や出産に際して弱い立場に置かれた女性たちの多声的な声を代弁しながら、都市郊外や地方を基準として「新しい家族」のあり方を模索しているように思えます。


2018/07/13

『吉田修一論』(9月初旬発売)のゲラ確認中

学期末で慌ただしい日々ですが、『吉田修一論』(9月初旬発売)のゲラの確認作業を行っています。久しぶりの著作ですが、文芸誌・論壇誌に書いてきた文章がずいぶんたまっているので、どういう順番でたまっている原稿を加筆して本にして行こうか、と考える日々です。

今ゲラを確認している『吉田修一論』は、「文學界」に掲載した3つの「吉田修一論」に大幅に加筆し、「風土論」の部分を抽出してまとめた内容です。別途「作品論」としてまとめている批評文もあり、現在、同時進行で、文芸誌向けに書いている原稿を含めて、先々、書籍化を行う予定です。

西日本新聞の「現代ブンガク風土記」も15回を超えて、地方を舞台にした現代文学を分析する作業にも、脂が乗ってきた感じがしています。

大学や学会の仕事もたまっているため、授業以外は、起きている間をほとんど机の上で過ごしているので、ここ最近、運動不足気味で、物理的な意味でも、脂が乗ってきた感じがしています(夏なのに)。

『吉田修一論』(9月初旬発売)ご期待・ご一読下さい!

(写真は、『吉田修一論』のゲラのあとがき部分と、最近、仕事道具として手放せなくなったFRIXION BALLです)




2018/07/08

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第15回 佐川光晴『生活の設計』

西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」の第15回(2018年7月8日)は、今でもなお新人賞の小説の見本といえる佐川光晴『生活の設計』について論じています。表題は「現代を代表する『労働小説』」です。

「生活の設計」は、主夫として妻の実家で子育てをしながら、屠殺場で働く「わたし」を描いた私小説です。「わたし」は「チェ・ゲリバラ」と渾名を付けられるほど、汗でお腹を冷やし、下痢を起こしやすい体質でしたが、「最も汗をかきやすい仕事に就くことで逆に汗を制することができる」と気付きます。

佐川光晴さんは埼玉県の志木市在住の作家で、実際に主夫として家事や子育てをしながら、大宮の屠殺場で牛の解体の仕事に従事していました。「そもそもここはおめえみたいなのが来るところじゃねえんだからよ」と厳しい洗礼を浴びせられながらも、牛の上に10年、懸命に働き続け、牛を解体し、皮を剥ぐ技術を高めていきます。

この作品は、屠殺場を非日常的な世界として描くのではなく、そこを日常生活の延長にある場所として描いている点が新鮮な作品です。「働くことの意味」「生活することの意味」について深く考えさせられる、現代を代表する「労働小説」です。



2018/07/01

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第14回 リリー・フランキー『東京タワー』

西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」の第14回(2018年7月1日)は、現代日本を代表する「上京文学」と言える、リリー・フランキーの『東京タワー』について論じています。表題は「炭鉱町らしい『生活の哲学』」です。

リリー・フランキーの『東京タワー』は2005年に単行本として発売されベストセラーとなった自伝的な小説ですが、2003年から「en-taxi」に連載されていた当初は、「エッセー」として掲載されていました。往時の筑豊の風土と気風を伝える言葉と、筑豊の宮田の地に足の着いた面白いエピソードの数々に、強く心を動かされます。

「この町は豊かな町ではなかったけれど、ケチ臭い人の居ない町だった」
「『家族』とは生活という息苦しい土壌の上で、時間を掛け、努力を重ね、時には自らを滅して培うものである」
 
『東京タワー』は直木賞を受賞してもおかしくない「生活の哲学」に満ちた深みのある作品で、炭鉱町から東京のメディアの中心へとダイナミックに話が展開される点も面白いです。役者としてリリー・フランキーの評価が高まっている時期ですので、作家としての再評価も期待しています。




2018/06/26

IAMCR(国際メディア・コミュニケーション学会)のパネル発表

オレゴン大学で開催されたIAMCR(国際メディア・コミュニケーション学会)で、「From Hiroshima to Fukushima: Redesigning Communication Processes for Nuclear Crisis」というパネル・セッションを行ってきました。情報科学芸術大学院大学(IAMAS)の金山智子先生がチェアーのセッションです。

IAMCRは米国寄りというよりは、EU寄りで、UNESCOと関係の深いカンファレンスで、メディアとコミュニケーションに関する世界でも最大規模の国際学会です。

IAMCRの概要
https://en.unesco.org/partnerships/non-governmental-organizations/international-association-media-and-communication

私が担当した発表のタイトルは、'Comparative Research on Archive and Exhibition Design and Production with Respect to Nuclear Disasters as Media for Communicating Historical Facts'でした。広島と長崎の核被害に関する「慰霊」の文脈の違いや、展示内容の方法論の違いについて分析した内容です。

パネル発表の概要は、原子力災害と一口に言える問題の中にコミュニティや教育、展示や集合的記憶など多様な問題があることを伝える内容でした。
名古屋大学の小川先生、広島経済大学の土屋先生、同志社大学の志柿先生と、発表や前後の議論をご一緒いたしました。

様々な国や地域の研究者の方々からご関心を頂き、発表に前後してパネルの先生方とじっくりと議論した内容も含めまして、非常に有意義な機会でした。発表後の懇親会等の場でドイツやカナダ、ベルギー、台湾の研究者と、詳しい議論が交わせて良かったです。

U・ベックが記した意味での「再帰的近代化論」を踏まえると、核災害そのものの定義や問題系を、コミュニティや教育、展示・アーカイブス、集合的記憶、情報公開のあり方の問題として展開し、多様な「メディア研究」の下で再構築していくことは、学際研究らしい重要なアプローチだと考えています。

今回の発表内容については、今後の研究活動の中で、時間をかけて展開していきたいと考えています。






2018/06/24

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第13回 桐野夏生『メタボラ』

西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」の第13回(2018年6月24日)は、「ロストジェネレーション」問題について、朝日新聞の連載小説を通して描いた、桐野夏生の『メタボラ』について論じています。表題は「内在する『外国』若者の『戦争』」です。

現在、International Association For Media And Communication Research(国際メディア・コミュニケーション学会)の発表でオレゴン大学に滞在していますが、「現代ブンガク風土記」は平常運転で続きます。

桐野夏生は現代社会の「しわ寄せ」が来ている地方を舞台に、嫉妬や怨嗟や怠慢など、喜怒哀楽に還元されない感情を捉える作品を多く描いています。この作品は、偽装請負や研修生の労働現場など、沖縄や新潟を舞台に、「外国」のような労働環境で働く若者のたちの姿を、かつて戦争を経験した老人たちの姿と重ね合わせながら、描いた青春小説です。

失われた10年、20年、30年とも言われる時代の「しわ寄せ」が来た場所を生きてきた若者のたちと外国人たちの現実感は、どのようなものだったのか。日本の内部に存在する「外国」を通して深く考えさせられる、直木賞作家の代表作です。


2018/06/17

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第12回 青来有一『爆心』

西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」の第12回(2018年6月17日)は、谷崎潤一郎賞と伊藤整文学賞を同時受賞した青来有一の代表作『爆心』について論じています。表題は「爆心地の普通の日々描く」です。
現在、先々の仕事のフィールドワークでUtah州の Salt Lake Cityに滞在していますが、「現代ブンガク風土記」は平常運転で続きます。

タイトルは「原爆文学」を想起させる重々しいものですが、ユーモラスで軽やかな筆致で書かれた作品で、爆心地で生活してきた人々に、ごく普通の青春があったことを物語っています。

例えば「石」では作業所で「ちゃんぽんセット」の箱折をしている「修ちゃん」が、入院している母親に「いっしょに神さまのところに行こうか」と心中を仄めかされて、同級生の政治家「九ちゃん」に相談に行く姿が描かれています。
「虫」では被爆した女性が、青春時代を回顧しながら、健康的な「憧れの佐々木さん」との一晩の情事について回想しながら、佐々木さんと結婚した同じ職場の女性に、歳をとっても嫉妬をし続ける姿が描かれています。

何れの作品も、被爆者を聖人のように描く従来の「原爆文学」と比べると、際どい表現に満ちていますが、読みやすく、面白い小説です。

爆心地の日常の中で、キリスト教徒の多い浦上地区に原爆が落とされたことを問いかける描写にも深みがあります。例えば「蜜」に登場する老人は「あの時に、主はこの空にいなかったのだろうな」、「主は人が愚かしい真似をしようとする時、ブレーキを踏んでくれるはずなんだが」と振り返っていますが、こういう書き方そのものが新鮮です。

手にとって読んでもらえれば、こういう小説を、現職の長崎原爆資料館の館長が記していることに、「原爆文学」の「現代文学らしい深化」を感じることができると思います。



2018/06/10

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第11回 青来有一『聖水』

西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」の第11回(2018年6月10日)は、第124回芥川賞受賞作、青来有一の『聖水』について論じています。表題は「土俗的信仰の忘却 告発」です。

青来氏は長崎市の職員から作家となった方で、長崎の爆心地近辺で育った経験から、長崎を題材とした作品を多く記しています。2010年から長崎原爆資料館の館長を務められています。

経歴から判断して「お堅い作風」と思われるかも知れませんが、「聖水」は自然食品店やリサイクルショップを経営する潜伏キリシタンの末裔が、「聖水」を独自のルートで販売しながら、土着的な信仰のあり方を問い返すという、刺激的で、面白い作品です。「オラショ(ラテン語で祈祷文の意味)」を唱える土俗的なキリスト教信仰を、実に上手く、現代小説として描いています。

先日、UNESCOの諮問機関のICOMOSが「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」について、世界文化遺産として「登録が妥当」との勧告を行いました。事実上の世界文化遺産としての決定です。ただこのリストには、長崎の原爆災害の象徴であり、多くのキリスト教徒の努力で再建された、浦上天主堂は含まれていません。

潜伏キリシタンの史跡が世界文化遺産に登録されたことは素晴らしいことだと個人的には感じていますが、原爆災害の象徴である浦上天主堂がそのリストから外れたことについては、思うことが色々とあります。機会があれば、長崎のキリスト教の文学史も踏まえて、原稿としてまとめたいと考えています。

「聖水」は、浦上の近くのキリスト教徒の内部の加害・被害関係を描いた、論争的な作品です。「潜伏キリシタン」や長崎・浦上のキリスト教徒の信仰を巡る、複雑な歴史について、現代文学として正面から向き合った作品で、長崎の近現代史に少しでも関心の向く方には、ぜひ手にとってほしい小説です。