2021/02/23

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第146回 森絵都『風に舞いあがるビニールシート』

 西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第146回 2021年2月21日)は、森絵都の直木賞受賞作『風に舞いあがるビニールシート』を取り上げています。表題は「人生の転機捉えた短編集」です。

 本作には、不器用に自己の人生と格闘する登場人物たちを描いた6つの短編が収録されています。「守護神」は、社会人学生が多く通う夜間の「第二文学部」を舞台に「レポートの代筆」を題材とした物語です。森絵都は日本児童教育専門学校を卒業後、アニメーションのシナリオ制作に関わり、早稲田大学第二文学部に社会人入学した経歴があり、この作品には著者の経験が反映されているのだと思います。

 表題作「風に舞いあがるビニールシート」は、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の東京事務所で働くテキサス出身の男性・エドと、外資の投資銀行から転職してきた日本人女性・里佳の恋愛を描いた作品です。エドは、スーダンやリベリア、ジブチなど内戦や紛争が起きる「フィールド」で難民保護の任務に従事した経歴を持ち、「人の命も、尊厳も、ささやかな幸福も、ビニールシートみたいに簡単に舞いあがり、もみくしゃになって飛ばされていくところ」を、数多く目撃してきました。暴力的な風が吹いた時、真っ先に飛ばされる弱い立場の人々を、地上へと引きとどめようと試みる優しい人間が抱える寂しさと強さを描いた作品です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/696050/


森絵都『風に舞いあがるビニールシート』あらすじ

才能に恵まれた洋菓子職人・ヒロミに振り回される主人公・弥生を描いた「器を探して」。捨て犬の世話をするボランティアのためにスナックで働く主婦・恵利子を描いた「犬の散歩」。仏像修復を行う工房で働く人々の出会いと別れを描いた「鐘の音」など、不器用ながら懸命に働く大人たちを描いた短編集。第135回直木賞受賞作。

2021/02/17

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第145回 伊与原新『八月の銀の雪』

 西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第145回 2021年2月14日)は、伊与原新の直木賞候補作『八月の銀の雪』を取り上げています。表題は「地球科学の知見踏まえた物語」です。

 著者の伊与原新は東京大学理学系研究科で地球惑星科学を専攻した経歴を持ち、博士(理学)を取得しています。海外では元科学者のSF作家は珍しくないですが、東大で博士号を取得し、一度は国立大学の理学部に務めながら、作家に転じた例は珍しいと思います。異色の経歴は小説に生かされていて、地震や気象、生命や環境問題など地球惑星科学の知見を踏まえたストーリーには、確かなリアリティが感じられます。

 全体に地学や気象学、生命科学の専門的な知識が生きています。例えば国立科学博物館の「世界の鯨類」の展示の生物画を手掛けた年配の女性職員と若い母親の交流を描いた「海へ還る日」。2千メートルの深海に潜りながら「外向きの知性」ではなく「内向きの知性」を発達させてきた類としてのクジラの存在を通して、人間存在のあり方を問いかける内容が面白い作品です。「八月の銀の雪」は、理学の博士号を持つ地球惑星科学を専攻した著者らしい「地球規模の科学的な発見」に満ちた、現代日本を代表する「理系文学」だと思います。

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伊与原新『八月の銀の雪』あらすじ

科学的知見に裏付けられた、心に傷を持つ人々を巡る5つの短編を収録。原発の下請け会社を辞めた辰朗と、風船爆弾の研究で亡くなった父を持つ男性の茨城の海岸での出会いを描いた「十万年の西風」など、壮大なスケールの下で現代日本に暮らす人々の心情が綴られる。


2021/02/10

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第144回 宇佐見りん『かか』

 西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第144回 2021年2月7日)は、宇佐見りんのデビュー作『かか』を取り上げています。表題は「架空の方言で描く母性神話」です。

「推し、燃ゆ」で芥川賞を受賞した宇佐見りんは、訛りを帯びた表現で女性の生理を描いたデビュー作「かか」で高い評価を受けて、三島由紀夫賞を史上最年少で受賞しています。宇佐美は静岡県の沼津生れで、神奈川育ちですが「かか」で使われる方言は、関西弁や九州弁に似た雰囲気を持ちながらも、実在しないものです。

 本作の魅力は、家族が空中分解に近い状態にありながらも、うーちゃんが「かか」に愛憎の混じった親しい感情を抱き、「常に肌を共有している」ような感覚を抱いている点にあります。かかを狂わせたのは、最初の子供である自分を産んだことに起因している、という事実を引き受けることで、うーちゃんは成長の一歩を踏み出していきます。

 かか=母性への「信仰」を取り戻すべく、うーちゃんが家出して熊野詣へと旅立ち、那智に祀られるいざなみに会いに行くという構成も巧みです。いざなみはいざなぎとの間に多数の子を設けて、日本の国土をかたどり、かぐつちの出産で亡くなった女神ですが、うーちゃんがいざなみに自己を重ねていく展開は、その旅路に「神話」のような深みを与えることに成功しています。かか=母性への愛憎入り混じった感情を、ユーモラスな方言と現代的な「信仰」と共に綴った「現代小説らしい母性神話」です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/689394/


宇佐見りん『かか』あらすじ

幼稚園のころの夢は「かか」になることだったという「うーちゃん」の視点から綴った家族の物語。小学校に入ってすぐの頃、「とと」の浮気と家庭内暴力で、「かか」と「とと」は別居するようになり、うーちゃんは「誰かのお嫁さんにもかかにもなりたない」と考えるようになる。文藝賞のデビュー作でありながら三島由紀夫賞を受賞した、母性を巡る現代小説。


図書新聞(2021年2月13日号)書評

 図書新聞(2021年2月13日号)に吉田修一『湖の女たち』の書評を寄稿しました。表題は「純文学とミステリー小説の双方の特徴を有した傑作 -週刊誌連載の小説らしい批評性も有するー」です。

 本作は、19人を刺殺して戦後最悪の大量殺人事件となった相模原障碍者施設殺傷事件など、現代的な事件を想起させる題材を取り入れている点で従来の吉田修一の作品と同様の特徴を有しています。その一方で731部隊の人体実験など戦前の際どい史実を主要な題材としている点で、従来の吉田修一作品とは異なる「社会派ミステリー小説」とも言えます。

「事件や犯罪というものが、まるで金や権力で売り買いできる商品のような気がした」という週刊誌記者・池田の呟きは、週刊誌連載の小説らしい批評性を有したものです。

 この小説の表題に記された「湖」とは、市島民男の殺人事件の現場に近い「琵琶湖」と、戦前にハルビン市内への水の供給のために、松江江の支流を堰き止めて作った人口湖・平房湖の二つを指します。戦前から戦後へと連続する「人間を物として扱う人間の悪の所在」を、二つの湖の底に眠る集合的記憶を通して問いかけた『湖の女たち』は、吉田修一らしい純文学とミステリー小説の双方の特徴を有した傑作だと思います。



2021/02/03

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第143回 坂上泉『インビジブル』

 西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第143回 2021年1月31日)は、坂上泉のデビュー2作目『インビジブル』を取り上げています。表題は「偽史織り交ぜて描く戦後史」です。

 著者の坂上泉は2019年に「へぼ侍」(松本清張賞作を改題)でデビューし、本作が二作目です。細やかな世相の描写に、東京大学で戦後史を研究した経験が生きており、登場人物たちが体感した「地に足の着いた歴史描写」に味わいがあります。

 主人公は中卒で自治体警察に入った「昭和生まれ」の新人刑事・新城で、東京帝大卒のエリートで国家地方警察から派遣されてきた守屋とコンビを組むことになります。ユーモラスな登場人物たちの描写は「仁義なき戦い」などの脚本家として知られる笠原和夫の群像劇を彷彿とさせるもので、笠原の言う所の近代史を描いた「半時代劇」のような雰囲気を有します。

 昭和の黒幕として列挙される政治家の笹川良一や、阿片王の異名をとった里見甫など、実在の人物を想起させる登場人物たちの描写も細やかで、戦後史を描いたノンフィクション作品のような筆致も楽しめる作品です。


坂上泉『インビジブル』あらすじ

昭和29年の大阪を舞台に、中卒の新人刑事と東京帝大卒のエリート刑事が、連続殺人事件の真相に迫る。満州で阿片生産に従事していた人々が経験した数奇な運命と、戦後の大阪で起きた連続殺人事件の関係とは。関西弁が飛び交う往時の大阪市警視庁を舞台にした新人作家・坂上泉の直木賞候補作。

2021/01/27

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第142回 吉田修一『ウォーターゲーム』

 福岡県北九州市のます渕ダムを想起させる「相楽ダム」の爆破事件をきっかけとしてはじまるハードボイルド小説です。日本の産業スパイ組織・AN通信の鷹野一彦を主人公としたシリーズ3作目です。AN通信の鷹野や、国際便利屋のリー・ヨンソン、妖艶なスパイ・アヤコの間の愛憎入り混じる関係は、レイモンド・チャンドラーの名作「ロング・グッドバイ」を想起させます。「太陽は動かない」で太陽光発電をめぐる陰謀劇を描いたように、このシリーズで吉田修一は現代社会の基盤を成すインフラ(電力事業や水道事業)をめぐる国内外の利権争いを、グローバルな視野の下で描いています。

 本作はフランスの水メジャー企業、V.O.エキュ社が、日本の水道事業に進出するための陰謀を企てるところからはじまります。現実に日本では多くの自治体で水道事業が危機に瀕していて、財政難の自治体と潤っている自治体との水道料金の格差は7倍にも及びます。日本は水道料金の滞納も少なく、水道管から無断で水を盗むような行為も少ないため、「世界の水メジャー」にとって理想的な市場なのです。

 本作によると、英語のRival(ライバル)の語源は、ラテン語のRivalis(同じ川の水利用をめぐって争うもの)らしいです。水を巡る争いの歴史は古く、「ウォーターゲーム」は人類の「伝統的な争い」を継承したハードボイルド小説です。


吉田修一『ウォーターゲーム』あらすじ

産業スパイ組織・AN通信の鷹野一彦を主人公とした吉田修一のハードボイルド小説シリーズ3作目。AN通信に入れなかった真司の視点を交えながら、日本のダムの爆破計画が描かれ、国際的な武器商人・リー・ヨンソンの視点を交えながら、世界的な水メジャーの日本進出にまつわる陰謀が描かれる。退職を間近に控えた鷹野一彦は、AN通信と日本の水資源を守ることができるのか――。


2021/01/19

第164回直木賞対談 西日本新聞朝刊(2021年1月19日)掲載

第164回直木賞の候補作について西田藍さんと対談した内容が、西日本新聞朝刊(2021年1月19日)に掲載されました。下のリンクでWeb掲載もありますので、ぜひご一読ください。

加藤シゲアキさんも候補…直木賞だれに? 文芸アイドル西田さん×酒井信さん対談


西日本新聞

 https://www.nishinippon.co.jp/item/n/682806/



西日本新聞「現代ブンガク風土記」第141回 荻原浩『海の見える理髪店』

 西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第141回 2021年1月17日)は、荻原浩の直木賞受賞作『海の見える理髪店』を取り上げています。表題は「新感覚の大人の通過儀礼」です。

 様々な事情で家族と生き別れたり、死別した人々を描いた6つの短編から成る作品です。2016年に本作は直木賞を受賞し、荻原浩は多様な種類の作品を書き分ける短編の名手としての評価を高めました。成城大学で同期だった斎藤美奈子は、文庫版の解説で、荻原の作家としての多彩さを、コピーライターとして独立した人間らしい「アイデア」から生まれたものだと分析しています。

 表題作の「海の見える理髪店」は最初に収録されている短編で、戦前生まれの床屋の店主の紆余曲折の人生が、海沿いの風景と共に、読後に強い印象を残す作品です。店主は、かつて大物俳優や政財界の名士たちを常連客として持っていた有名な理容師で、戦時中から父親の床屋で出征する兵士たちの頭を刈り、職人としての腕を磨いてきました。昭和三十年代に「慎太郎刈り」が流行して床屋が繁盛したり、昔は女の子も床屋に通い「乙女刈り」を好んでいたといった描写に、時間の重みが感じられます。

「仕事っていうのは、つまるところ、人の気持ちを考えることではないかと私は思うのです」と「訳ありの客」に語り掛ける店主の言葉には、有名店を築きながら刑務所に入った経験を持つ、叩き上げの人間らしい「人生哲学」が感じられます。

荻原浩『海の見える理髪店』あらすじ

海辺の小さな町に佇む訳ありの理髪店を舞台にした表題作など、家族との別れをめぐる短編6本を収録。残業で家庭を顧みない夫に嫌気がさし、娘を連れて実家に帰った娘が不思議なメールを受け取る「遠くから来た手紙」など、感動的な作品が並ぶ。荻原浩らしい個性的な短編集で、第155回直木賞受賞作。


2021/01/13

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第140回 三浦しをん『風が強く吹いている』

 西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第140回 2021年1月10日)は、三浦しをんの箱根駅伝を題材としたベストセラー小説『風が強く吹いている』を取り上げています。表題は「選手の内面から迫る箱根駅伝」です。

 走るという「原始的な運動」を極める大学の競争部の選手たちが「東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)」に挑む雄姿を描いた作品です。漫画化やアニメ化もされて人気を獲得し、大学駅伝を描いた小説として、幅広い世代に知られています。内面描写が魅力的で、明治大学の八幡山グラウンドに近い場所で練習する「寛政大学」の個性的な選手たちが、チームメイトやライバル、家族に対する複雑な感情と向き合いながら、「強さ」を模索して成長していきます。アニメ版では一部の選手が「前に!!」と腕に記していますが、これは明治大学のラグビー部の監督・北島忠治が唱えた「前へ。」というスローガンを連想させます。

 実在するスポーツ大会を描いたエンタメ系の小説は多いですが、本作は純文学のような内面描写が魅力的です。選手たちが互いに励まし合いながら襷を繋ぎ、家族や友人たちへの思いを背負って走り抜く駅伝のリアリティを、日常的に数十キロの距離を走り、鍛錬を重ねてきた選手たちの青春を通して描いた、現代小説らしい「スポコン文学」です。

 



2021/01/06

「すばる」(集英社)2021年2月号に寄稿しました

 「すばる」(集英社)2021年2月号に、吉田修一『湖の女たち』の書評を寄稿しました。琵琶湖の近くの介護療養施設で起きた「百歳の老人」の殺人事件の謎に迫る作品です。老人がハルビンを拠点としていた元731部隊(関東軍防疫給水部本部)の課長の元京都大学教授だったことから、社会派のミステリー小説の色彩を帯びます。

 ただ小説は従来の吉田修一作品と同様に読みやすい内容で、川端康成の『みずうみ』を想起させる危うい恋愛劇が面白く、惚れ込んだ女性のあとを付ける癖のある刑事・圭介と、その欲望に応える介護士・佳代のエロスとタナトスが交錯する反社会的で際どい描写に、強い読みごたえを感じます。タイトルは川端康成の『みずうみ』の一節を借りて「『悪魔ごっこ』が映し出す『魔界の湖』」としました。

「すばる」2月号は、文芸誌らしいコンテンツといえる「批評(クリティーク)」の賞が大々的に表紙を飾っているのが面白いと思いました。新型コロナ禍ということもあり、実利的な物事に関心が向かいがちな時代ですが、時間的な拡がりと、分野横断的な視野を持った批評を志す若い人が増えてほしいです。