2021/06/21

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第163回 綾辻行人『十角館の殺人 新装改訂版』

 「現代ブンガク風土記」(第163回 2021年6月20日)は、綾辻行人『十角館の殺人 新装改訂版』を取り上げています。表題は「大分の離島舞台に「新本格」」です。

 綾辻行人『十角館の殺人 新装改訂版』は、関サバや関アジの漁場として知られる大分県大分市の佐賀関半島近くの高島と思しき場所で展開される本格派推理小説です。推理小説の中でも、探偵が活躍し、複雑な謎やトリックを解明することを重視した作品を一般に「本格派」と呼びます。バブル期に作家としてデビューした綾辻行人の作品は、それ以前に人気を博した横溝正史の金田一耕助シリーズとは異なって、封建的な家のしがらみや伝統や慣習に関する描写が薄い点に特徴があり、特に「新本格派推理小説」と呼ばれます。

 綾辻行人は京都で生まれ育ち、京都大学に進学した生粋の京都人です。本作は教育学研究科で逸脱行動を研究する大学院生時代に書かれたというから早熟です。辻村深月など世代と性別を超えて与えた影響は大きく、本格ミステリーに名門・京大推理小説研究会が果たした役割の大きさを感じます。新しい時代を切り開いた作家のデビュー作らしい、エンターテイメントに留まらない文学的な深みが感じられる作品です。

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綾辻行人『十角館の殺人 新装改訂版』あらすじ

 半年前に連続殺人事件を引き起こし焼死した建築家の中村青司の自宅・十角館を、大分にある大学の推理小説研究会に所属する7人が訪れる。過去の連続殺人事件の謎をひも解きながら、新しい連続殺人事件が起きていく。脱出できない孤島の十角館を舞台にした新本格派の推理小説。「館シリーズ」の一作目で、綾辻行人が大学院在学中に書いた鮮烈なデビュー作。



2021/06/14

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第162回 島田荘司『異邦の騎士 改定完全版』

 「現代ブンガク風土記」(第162回 2021年6月13日)は、島田荘司の実質的なデビュー作『異邦の騎士 改定完全版』を取り上げています。表題は「本格ミステリーのビート」です。島田荘司が最初に書いた小説で、発表までに9年(発表作としては25作目)を要し、全面改訂までに18年の時間が費やされた労作です。

 2021年2月に亡くなったチック・コレア(Return to Forever)の代表作「浪漫の騎士」に着想を得た小説で、文庫版に収録されている1991年の後書きによると、島田は「二十代という不安の時代」にこの曲を聴き、「空しい闘いに挑む時代遅れの騎士」の姿を思い浮かべることで、「どん底」を生きるような気分を慰めていたそうです。1976年に発表された「浪漫の騎士」は同時代のプログレッシブ・ロックへの対抗心が感じられる名曲で、「異邦の騎士」は複雑でありながら、崇高なテーマ性を感じさせる物語構造を有しているため、共通する部分が多いと思います。

「浪漫の騎士」を繰り返し聴いた若き島田荘司は、「世界にはこれほど真面目に、真剣に仕事をする奴がいる、とても遊んでなどいられない」と感じ、本作を書き始めたらしいです。小説全体に通底する「見知らぬ惑星に取り残された子供」のような不安に、「浪漫の騎士」からの強い影響が見られ、「日常的な不安」を払拭するために「本格ミステリーという激しいビートを必要とする音楽」を奏でた、島田荘司らしい本格ミステリーだと思います。

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島田荘司『異邦の騎士 改定完全版』あらすじ
 記憶を失った主人公の「俺」が、同棲相手の良子との恋愛を通して記憶を取り戻そうとしながら、過去の不幸な記憶に飲み込まれていく。愛する妻子を殺したかも知れないという記憶や、その復讐を果たしたかも知れないという犯罪の匂いが、主人公の現在を苛んでいく。作家・島田荘司がはじめて書いた小説の改定完全版であり、本格ミステリーの金字塔。


2021/06/07

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第161回 林真理子『葡萄が目にしみる』

「現代ブンガク風土記」(第161回 2021年6月6日)は、山梨の葡萄農家で生まれ育った林真理子の青春小説『葡萄が目にしみる』を取り上げています。表題は「ゆっくり熟していく青春」です。本連載も3年3か月目に入り、熟してきた感じがしています。

 林真理子の分身と思しき主人公の乃里子は、山梨の葡萄農家で生まれ育ったことにコンプレックスと、誇らしさの双方を抱いています。種なし葡萄を作るために、乃里子は「ジベ」という作業に子供の頃から駆り出され、手を薄桃色に染めてきました。プラスチックのコップに植物の成長を調整する「ジベレリン」を満たし、その中に葡萄の房を浸すと「小さな泡がわきあがって、まるで魔法のように実の中の種を消してしまう」らしく、現代でもデラウェアやピオーネなどの葡萄は、手作業で種なしにした上で出荷されています。

 この作品の主な舞台となる「弘明館高校」は、林真理子が通った山梨県立日川高校がモデルだと推測できます。『楢山節考』や『東北の神武たち』で知られる深沢七郎(山下清との対談が面白い)の出身校で、林真理子と同じく実家が葡萄農園を営んでいた、「臍で投げるバック・ドロップ」でお馴染みの元全日本プロレス・ジャンボ鶴田の出身校でもあります。出身者の個性が際立っていますね。

 林真理子の『葡萄が目にしみる』は、山梨の葡萄農家らしい言葉の訛りと、「自家用葡萄」の豊かな味わいを通して、甲府から少し離れた場所に位置する「果樹地帯」の風土を感じさせる青春小説です。

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林真理子『葡萄が目にしみる』のあらすじ

 山梨の葡萄農家で生まれ育った乃里子は、太った外見を周囲と比べられながらも、農家の仕事を手伝いながら成長し、憧れの弘明館高校に入学する。高校に入ると放送委員を務め、先輩たちとも交流をするようになり、生徒会で書記長をやっている保坂に恋心を抱くようになる。複雑な家庭環境で育ち、不良ながらラグビー選手として活躍する岩永など、同じ山梨で育ちながらも、全く異なる青春を送る高校生たちの群像を描く。

2021/05/31

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第160回 松尾スズキ『老人賭博』

 「現代ブンガク風土記」(第160回 2021年5月30日)は、松尾スズキの故郷・黒崎を想起させる「白崎」を舞台にした『老人賭博』を取り上げています。表題は「禍々しくも神々しい芸事」です。松尾スズキが冗談交じりに描くほど、「白崎」近辺はヤンキーとヤクザが闊歩する街ではないと思いますが、子供の頃、この「白崎」のあたりは(体感治安の悪い)長崎よりも更に治安が悪いと聞いた記憶があり、小説の舞台として期待してしまいます。

 本作で「白崎」は「昔は栄えてたらしいが、今はいわゆるシャッター商店街で、半ばゴーストタウン化しているらしい」と説明されます。「白崎の空は勉強に集中できない子供の目つきのようにどんよりしていた」など、街の衰退が文学的に表現されています。往時の黒崎の賑わいを知る著者らしい描写が味わい深く、「想像以上の黄昏っぷりだな。でも、だめになり方にロマンがあるといえばある」といった表現に、生まれ育った土地への愛情が感じられます。

 全体を通して「白崎という町を覆う独特な自暴自棄感」が生きた作品で、役者を務めることや、映画や舞台の脚本を書くことそのものが「賭博」に近いものだと感じさせる説得力があります。松尾の分身の海馬が、神が決めたとされる「現実の出来事」を、演技を通して模倣し、賭博の対象としながら、「神の行為を矮小化することで、神の視線の外側に出る」ことを目指す姿は、禍々しくも、神々しく見えます。

西日本新聞me

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松尾スズキ『老人賭博』あらすじ

 コメディー映画を愛するマッサージ師・金子堅三は、客の一人だった脚本家で役者の海場五郎に弟子入りする。金子は北九州の「白崎」のシャッター商店街で行われる映画の撮影に同行し、78歳の俳優・小関泰司とその弟子のヤマザキが高い集中力でセリフ合わせを重ねるなど、プロの仕事を目の当たりにする。海馬は、衰えの見えはじめた小関のNG回数を当てる賭博を企画し、金子は師匠を助けるべく、根回しと駆け引きを重ねる。



2021/05/24

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第159回 町田康『湖畔の愛』

 西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第159回 2021年5月23日)は、町田康のコメディ風の恋愛小説『湖畔の愛』を取り上げました。表題は「カルデラ湖のほとりの奇談」です。芦ノ湖を想起させる湖の近くにある「九界湖ホテル」を舞台にした作品です。

 創業百年を迎えた老舗ホテルは、歴史的建造物として一部で名が知れていますが、数年前から「稼働率がアパパ」になり、「経営はアホホ」の状態に陥っています。冒頭に収録された「湖畔」は「昭和のコント」のようなシチュエーション・コメディで、アメリカのスラップスティックの雰囲気もあり、チャーリー浜のような口調や雑用係の「スカ爺」が重要な役回りを演じる点は、吉本新喜劇を連想させます。

 2番目の「雨女」は、人気の女性ファッション誌「VOREGYA」の取材が入り、ハルマゲドンのような自然災害が起こるという突飛な設定の作品です。近松秋江の「情痴文学」と形容された私小説のように、恋する男女の心情描写が特徴的で、オーソドックスな日本文学の香りがします。

 表題作の「湖畔の愛」は、陽の目を見ぬまま鳥取砂丘に消えたとされる伝説の芸人・横山ルンバをOBに持つ「立脚大学」の演劇研究会の九界湖合宿を描いています。話芸を極めようとする学生の青春と、美女との恋愛が交錯した物語で、文芸に限らず、演芸全般に造詣の深い町田康の作家としての資質が生きた作品だと思います。

西日本新聞me

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/743228/

町田康『湖畔の愛』あらすじ

 資金繰りに苦しむ老舗ホテル・九界湖ホテルを舞台にした3作品を収録した小説。ホテルで働く、中年男性・新町と若い女性・圧岡、雑用係の爺さんの3人のところに、独特の訛りを持つ金持ち・太田や、超常現象を引き起こす雨女・船越、絶世の美女・気島などが訪れ、様々な問題を引き起こす。笑いと恋に満ちた町田康の新しい代表作。


2021/05/17

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第158回 ねじめ正一『高円寺純情商店街』

 西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第158回 2021年5月16日)は、明治大学中野キャンパスから徒歩圏内にある商店街を舞台にした、ねじめ正一『高円寺純情商店街』を取り上げました。表題は「街に根を張る商いを『写実』」です。中野キャンパスからは、高層ビルが林立する新宿副都心も良く見えますが、中野サンモール商店街・中野ブロードウェイや、高円寺純情商店街など、活気のある商店街にもアクセスしやすいです。

 商店街で生まれ育ったねじめ正一だからこそ書けるような描写が魅力的な作品です。乾物屋は梅雨時になると朝から晩まで湿気を防ぐことに気を配り、魚屋は、夏は魚が腐らないように気を配り、冬は冷たい水で魚を洗うため手が荒れ、年間を通して大声を出して活きの良さを演出します。

 小説の設定と同じく、ねじめ正一の実家は高円寺で乾物屋を営んでいました。乾物屋は「ねじめ民芸店」に変わり、阿佐ヶ谷に移りましたが、ねじめ正一は詩人としてデビューした後も民芸店の店主を務めていました。この小説が直木賞を受賞したのち、「高円寺銀座商店街」は「高円寺純情商店街」へと名称を変更しています。実在の街の名前が、小説の街の名前に変わるという例は、日本の文学史において極めて稀だと思います。商店街で乾物屋の息子として生まれ育ってきたことへの自負と、個人商店主への敬意と愛情が伝わってくる作品です。

西日本新聞meへのリンク

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/739443/

ねじめ正一『高円寺純情商店街』あらすじ

 高円寺駅の北口にあるとされる「純情商店街」で生きる人々を、乾物屋の「江州屋」で生まれ育った「正一」の視点を通して描いた作品。乾物屋の仕事の傍ら俳句に熱中する父親や、隣の魚屋を手伝うケイ子、銭湯で番台に立つ小学校の同級生の宮地サンなど、周囲の人々の描写が味わい深い。ねじめ正一の自伝的な作品であり、第101回直木賞受賞作。

2021/05/10

奇妙な廃墟に聳える邪宗門 『福田和也コレクション1:本を読む、乱世を生きる』書評

 『福田和也コレクション1』の書評を寄稿しました。90年代から00年代の批評のことなど、色々と書いておりますが、当時38歳だった若き福田和也先生との思い出や、「批評空間」の最終号の巻頭鼎談「アナーキズムと右翼(絓秀実・福田和也・柄谷行人)」の対談のまとめ(当時、院生だった私が担当しています)のことなど、雑誌メディア史的にもレアな話もあるかと思います。800ページを超える批評本への敬意を込めて、時間を掛けて書きましたので、お時間のある時にでもご一読を頂ければ幸いです。『福田和也コレクション2、3』についても機会があれば、どこかに批評を寄稿する予定でいます。

奇妙な廃墟に聳える邪宗門 『福田和也コレクション1:本を読む、乱世を生きる』書評【酒井信】

https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/945463/

exicite news版

https://www.excite.co.jp/news/article/BestTimes_00945463/

 上の記事はトップページでご紹介を頂いたこともあり、掲載から2時間ほどで(無事)アクセス・ランキングで上位に入り、平山周吉さんや中西大輔さんなど、往時の福田和也を知る編集者の方々から、熱いリアクションを頂くことができました。福田和也について論じる批評性を要する仕事でしたので、非常に嬉しく感じました。

 当面は西日本新聞の連載を継続しながら、書籍にすることを目指しつつ、1年ほどかけて「en-taxi」「諸君!」に寄稿した批評文や、江藤淳論・福田和也論・坪内祐三追悼文などを加筆・改稿して、まとまった書籍にしたいと考えています(秋口から版元を探し始めることになると思います)。批評に風当たりが強く、なかなか文章の中身や価値を評価してもらいにくい時代ですが、何とか踏ん張って批評文を書き続けたいと思います。

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第157回 中村文則『去年の冬、きみと別れ』

 西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第157回 2021年5月9日)は、ここ数か月、日本の本格推理小説を読み込んでいることもあり、中村文則のミステリー作品で、2018年に映画化された『去年の冬、きみと別れ』を取り上げました。表題は「犯罪者への安堵と共感」です。

 異様な事件を引き起こした犯罪者の心理に人々が関心を持つのは、不可解な人間の振る舞いに、悪のラベルを貼り、安堵したいからでしょうか。それとも退屈な日常に風穴を開ける犯罪者の言動に、少しでも人間性を見出し、無意識的に共感したいからでしょうか。本作で描かれる犯罪は、名前が付けがたく、安堵も共感もしにくいものです。

 トルーマン・カポーティの「冷血」について、作中で繰り返し言及されています。ニュージャーナリズムの源流とされる作品で、カポーティはカンザス州の惨殺事件を取材し、ノンフィクション小説の原型となる筆致で記しました。ただ本作はカポーティの「冷血」のように、書き手の存在を消去した作品ではなく、登場人物たちのバイアスも描き、そこに込み入った謎が存在することも明していきます。「信用できない語り手」が物語を展開するカズオ・イシグロの小説にも近いです。

 カポーティは「冷血」を書いたのち心に変調をきたしましたが、彼は「冷血」を書くことで、殺人犯が体現する人間の欲望の臨界と向き合いました。本作は、中村文則が犯罪者への安堵と共感という、一般の人々が抱く「冷血な感情」と向き合った本格推理小説です。

西日本新聞 meへのリンク

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/735712/


中村文則『去年の冬、きみと別れ』あらすじ

 二人の女性が殺害された猟奇的な焼殺事件の謎を、ライターの僕が犯人や関係者を取材しながら明らかにしていく作品。写真家・木原坂雄大と姉・朱里のきな臭い関係と、事件の真相とは。複雑に織り込まれた謎が、物語を二転三転させる構成が巧みで、ミステリー作家としての中村文則の評価を高めた作品。


2021/05/03

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第156回 岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』

 西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第156回 2021年5月2日)は、新型コロナ禍で平穏な日常の意味が問われていることもあり、岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』を取り上げました。表題は「間延びした日常に風穴」です。

 演劇に関わる人々の時間の流れ方は、スマホで動画を視聴することに慣れた現代人のそれとは、大きく異なると思います。役者たちは自らの身体を客の前にさらしながら、内的に消化した時間を繰り返し舞台の上で現前化させます。観客も劇場へと足を運び、狭い空間に拘束され、舞台上で展開される時間にシンクロし、それを楽しみます。ウェブ上で様々な動画が視聴できる時代に、演劇が役者たちと観客の双方に求めるハードルは高いです。

 ただ人間が、他の人間が演じる物事を、同じ時空間で一緒に経験したいという欲求は、群れることで文明を築いてきた人間らしい根源的なものなのだとも思います。フロイトが言うように、人間は他人の欲望を模倣することで成長し、社会的な存在となります。生身の人間から得られる時間は、感情の通った欲望を伴う、取り換えのきかないもので、オンライン上の情報やコミュニケーションでは代替できません。

 岡田利規の「わたしたちに許された特別な時間の終わり」は、劇作家らしい時間に関する感度の高さが感じられる良作だと思います。これといった出来事が起こらない筋書きや、ため口の場面説明や台詞回し、現代文学のような飛躍した場面展開など、個性的な作風が際立っています。本作は、私たちの日常の中に横たわる、取り留めもない「特別な時間」の意味の重さを問いかける作品です。

西日本新聞 meの掲載記事



岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』あらすじ

 イラク戦争の足音が聞こえる中、偶然出会った男女が渋谷のラブホテルに5日間滞在する「三月の5日間」と、フリーターの夫婦のすれ違う時間を描いた「わたしの場所の複数」を収録。劇団チェルフィッチュを主宰する岡田利規の初めての小説で、第二回大江健三郎賞受賞作。

2021/04/26

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第155回 川上未映子『ヘヴン』

 西日本新聞の連載「現代ブンガク風土記」(第155回 2021年4月25日)は、旭川市のいじめ凍死事件が起きたこともあり、いじめを題材とした現代小説の代表作、川上未映子『ヘヴン』を取り上げました。表題は「いじめの苦難「向こう側」夢見て」です。

 旭川の事件は、母親・生徒の担任への相談も繰り返しあり、川への飛び込み事件も起き、警察の捜査も入り、転校もして、PTSDの診断もあっても、調査委員会が設置されておらず、凍死事件が起きるという、あまりにも悲惨なものでした。狭い人間関係の中で生じる陰湿ないじめを抑止する仕組みが、少しでも早く整うことを願っています。

 川上未映子『ヘヴン』は冒頭で引かれた「目を閉じさえすればよい。すると人生の向こう側だ」という、ルイ=フェルディナン・セリーヌ『夜の果てへの旅』の一節が、読後の印象として強く残る作品です。

 目を閉じて、人生の難局が過ぎ去り「人生の向こう側」へ行ければいいのに、と誰もが一度は願ったことがあるのではないでしょうか。この作品はいじめにあった14歳の男女が、殉教者のように目を閉じ、祈るように人生の苦境を乗り切り、その「向こう側」にある「ヘヴン」を模索する切なくも生命力に満ちた作品です。

 写真は作品の舞台と思しき場所の近く、横浜市南区の大原隧道で撮影しました。作中の切ない恋心が写真で表現できてる気がしています。

 先週末に批評本の批評(12枚)を書き終えて、ようやくGWを実感してきた今日この頃です。

西日本新聞 meの掲載記事

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/729290/


川上未映子『ヘヴン』あらすじ
 悪質ないじめを受けている僕が、ある日「わたしたちは仲間です」という匿名の手紙を受け取る。いじめを受けた男女が「きっといつかこれを耐えなきゃたどりつけなかったような場所やできごと」を手にする希望を抱いて、ほのかな恋心を育み、手を取り合って成長していく。著者の新境地として高く評価された芸術選奨新人賞、紫式部文学賞受賞作。