2021/08/29

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第173回 吉田修一『続 横道世之介』

 「現代ブンガク風土記」(第173回 2021年8月29日)は、吉田修一のベストセラーシリーズの2作目『続 横道世之介』を取り上げています。表題は「苦境の中で輝く友情」です。

 東京で開催されるパラリンピックを題材とした数少ない現代小説です。都会で善良に生きることの価値を問う、訛りを帯びた心情描写が光ります。ベストセラーとなった青春小説「横道世之介」の続編で、長崎出身の主人公・世之介が19歳になる一年を描いた前作から5年後の物語です。

 世之介は子分肌の性格もあって、元ヤンキーのシングルマザーの日吉桜子と恋仲になり、彼女とその家族に気に入られながら、後に東京オリンピックの選手となる日吉亮太を育てていきます。家事や房事や子育てには熱心だが、外に出て働く意欲に乏しい「ヒモ体質」の主人公の造形は、デビュー作「最後の息子」以来の吉田修一作品の特徴です。

 この作品には「人生のダメな時期、万歳」「人生のスランプ、万々歳」という明確なメッセージが込められています。オリンピックを題材としつつ、後にプロカメラマンとなる横道世之介の修業時代を描いた本作は、新型コロナ禍で苦境に立たされている人々にとっても示唆に富む内面描写に満ちています。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/792547/

吉田修一『続 横道世之介』あらすじ

 一年の留年を経て経営学部を卒業し、バブル最後の売り手市場に乗り遅れた横道世之介の24歳から25歳になる一年を描く。バイトとパチンコでどうにか食いつなぎながら、寿司職人を目指す女性・浜ちゃんや、証券会社を退職して人生に迷っている友人・コモロンなど、「ダメな時期」に出会った人々との交流が描かれる。ベストセラー「横道世之介」シリーズの第二作。

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 今週は青山学院大学社会情報学部で集中講義「ジャーナリズム」を3日間担当します。秋学期は明治大学の授業の他に、東洋英和女学院の大学院・国際協力研究科で「国際メディア特論」を担当します。様々な大学の雰囲気を楽しむことが好きなこともあり、本務に支障のない範囲で、メディア論、文芸・社会思想関連の演習形式の授業や集中講義、ゲスト講義をお引き受けしています。



2021/08/23

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第172回 赤川次郎『セーラー服と機関銃』

 「現代ブンガク風土記」(第172回 2021年8月22日)は、高層ビルが増え始めた新宿を舞台にした、福岡出身のベストセラー作家・赤川次郎『セーラー服と機関銃』を取り上げています。表題は「平易な文でYAKUZA描く」です。子供の頃、小学校の移動図書館で人気を博していた赤川次郎について書く機会ができて、嬉しく感じました。

 1978年に光文社のカッパ・ノベルスで刊行された「三毛猫ホームズの推理」は、三毛猫という子供たちにとって身近な存在でありながら、名探偵のようさながらに事件の手掛かりを示唆したり、紅茶を嗜む愛らしい猫を作品の中心に据えてベストセラーとなりました。「セーラー服と機関銃」は、この「三毛猫ホームズの推理」シリーズの第一作と同年に刊行された青春ミステリー小説です。高校卒業からこの年まで赤川次郎は日本機械学会で学術論文の校正の仕事に従事していて、この作品が専業作家となって最初の作品となりました。

 この小説はヤクザ映画の隆盛に影響されて執筆された作品だと私は考えています。戦前から日本では長谷川伸や子母澤寛などの小説を原作として、義理人情を描く「股旅物」のやくざ映画が作られてきました。1960年代入ると仁義を尊ぶ「やくざ」を描いた尾崎士郎原作の「人生劇場」などの任侠映画が人気を博し、やくざ映画が日本映画の人気ジャンルとして確立されます。その後、日本の経済成長と共に、「仁義なき戦い」(1973年)のような利権を巡る片仮名の「ヤクザ」の抗争劇(実録ヤクザ映画)が生まれ、この作品が執筆される頃も再上映されて人気を博していました。

 本作は実録ヤクザ映画ほど生々しいものではありませんが、小学生でも楽しめる平易な文体で、その雰囲気をソフトに再現したミステリー小説だと思います。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/788924/


赤川次郎『セーラー服と機関銃』あらすじ

 17歳の女子高校生・星泉は、父親の死をきっかけに新宿の弱小ヤクザ一家の跡目を継ぎ、世の中にはびこる悪と対峙していく。父親の死の謎や、次々と引き起こされる殺人事件の犯人、行方不明となったヘロインの在処などが、物語の進展と共に明かされていく。映画版のヒットで赤川次郎の知名度を高めたベストセラー小説。

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 今年のオープンキャンパスがオンライン開催になったこともあり、ちょっと早めに演習(ゼミ)の説明動画を下のページにアップロードしました。今年の秋学期はドイツやスイス、デンマークなど、遠方の国から来る留学生の受け入れ担当の予定だったのですが、パンデミックが長引いて延期となり、残念に感じています。来年度は、期間が空いた分、国際交流がより密なものになることを願っています。

明治大学国際日本学部 酒井信ゼミ

https://makotsky.blogspot.com/p/blog-page_22.html

2021/08/16

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第171回 宮本輝『螢川・泥の河』

 「現代ブンガク風土記」(第171回 2021年8月15日)は、戦争の影が色濃く残る富山と大阪を舞台にした宮本輝『螢川・泥の河』を取り上げています。表題は「生死や運をめぐる哲学」です。

 戦争という人間の悪意が凝縮された時代を通過してなお残る、人間の逞しさや優しさに触れたいと思う時があります。逆境に立ち向かう人間の感情を描いた「戦後小説」こそ、八月に読むのに相応しいと私は思います。宮本輝の初期の代表作「蛍川・泥の河」は、戦争の傷跡が街の景色や人々の外見や心の中に残る時代の記憶をひも解いた「戦後小説」の秀作です。

「わしかて、いっぺん死んだ体や」「いままでに何遍も何遍も死んできたような気がしたんや」という父の言葉には、後に「五千回の生死」などの作品で描かれる「日常の中で繰り返される生死」のモチーフが表れています。「運というもんを考えると、ぞっとするちゃ。あんたにはまだようわかるまいが、この運というもんこそが、人間を馬鹿にも賢こうにもするがやちゃ」と語る父の親友の姿を通して、戦争と敗戦後のどさくさを潜り抜けた人間らしい、訛りを帯びた「哲学」と揺るぎない「友情」が表現されます。

 芥川賞と太宰賞を受賞した宮本輝『螢川・泥の河』は、大都市・大阪の中心地を流れる「河」と地方都市の市街地を流れる「川」の周辺で暮らす人々の戦後の日常を描いた作品で、市街地の中心部を流れる大小の川とその近くの歓楽街の風景が、現代文学にとって故郷と言える場所であることを実感させる作品です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/785510/



宮本輝『螢川・泥の河』あらすじ

 大阪と富山を舞台に、戦争の傷跡が残る土地と、戦後のどさくさが人生に影響を及ぼした人々を描いた作品。役所から立ち退き勧告を受けた舟の家で、売春をして二人の子を養う女や、進駐軍の払い下げ品の転売で財を成した父親など、戦前・戦後の日常を生き抜いてきた人々の記憶がひも解かれる。太宰賞受賞作「泥の河」と芥川賞受賞作「蛍川」を収録。

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日本マス・コミュニケーション学会・編集・発行の「マス・コミュニケーション研究」第99号の特集(「分断される社会」とメディア)に「COVID-19と社会的な分断に関する報道分析とその方法論の研究」というタイトルの論文を寄稿しました。2年任期の編集委員の仕事もひと区切りで、編集作業を通じて、もうすぐ70周年を迎え、「日本メディア学会」への改称を控えてい同学会の歴史の重みを感じました。今期は国際委員に戻り、メディア研究の国際化に関わる仕事に継続的に関わっています。

2021/08/09

祝170回 西日本新聞「現代ブンガク風土記」 中上健次『枯木灘』

「現代ブンガク風土記」(第170回 2021年8月8日)は、中上健次の代表作『枯木灘』を取り上げています。表題は「世界文学の系譜で「路地」描く」です。この連載では、私が生まれた1977年以後の「現代文学」を取り上げていますが、『枯木灘』は1977年刊行(初出は1976~77)の作品で、最も古い作品と言えます。

 和歌山県新宮市の「路地」を舞台にして、中上健次の分身とも言える秋幸が、暴力と性的な欲望を内に抱えながら、血縁と向き合う姿を描いた「紀州熊野サーガ」の代表作です。ウィリアム・フォークナーを彷彿とさせる社会の「周縁=路地」に根差した文学的な描写が、この作品で確立され、中上健次の持ち味となりました。批評家の柄谷行人はこの作品の解説で、中上が「路地」を、南北問題の「南」の問題として世界文学の系譜で表現したことを高く評価しています。

 本作は新宮の路地を舞台にしながらも、「枯木灘」一帯の風土と人々の生活を描いている点で、芥川賞を受賞した「岬」よりも空間的な広がりを有しています。中上健次の「枯木灘」は、熊野の「路地」に住む登場人物たちが持つ、近親相姦や父殺しなどの欲望の際どさと、親族や死者たちとの結び付きの強さを描いた「グローバルな文学史」に連なる「血縁文学」だと思います。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/782305/

中上健次『枯木灘』あらすじ

 私生児として生れた秋幸は、狭い熊野の土地の中で、悪い噂の耐えない実父・龍造との血縁を意識しながら成長していく。龍造は織田信長に仕え、反旗を翻した伝説の武将・浜村孫一との血縁を夢想し、私費を投じて石碑を建て、周囲から冷笑されている。芥川賞を受賞した「岬」の続編で、中上健次のルーツに迫る代表作。

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 賛否両論あった東京オリンピックでしたが、個人的に最も強く印象に残ったのは、サッカーの日本代表キャプテンの吉田麻也選手の活躍でした。同じく長崎の少年サッカー出身で、長崎の実家も近く、大学の後輩ということにもなります(プロ生活をしながら通信制で卒業されたのは立派です)。特に準決勝のスペイン代表との試合でPK判定を覆したスライディングは、プレミアリーグやセリエAを渡り歩いてきたプロらしい一流のものでした。オリンピックも3度目で、トップ・プロが出場する大会でロンドンと今大会で二度の4位。サッカーのキャプテンには、審判や相手チームの主要選手との高いコミュニケーション能力が求められますが、吉田麻也選手は英語も堪能でフィールド上に高度な秩序を築いていました。

2021/08/02

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第169回 奥田英朗『オリンピックの身代金』

 「現代ブンガク風土記」(第169回 2021年8月1日)は、奥田英朗『オリンピックの身代金』を取り上げています。表題は「1964年五輪と「戦前の影」」です。

 戦後日本が20歳に達していない「身の回りのすべてが青春」だった時代に開催された東京オリンピックを巡るサスペンスです。「なんて言うが、東京は、祝福を独り占めしでいるようなとごろがありますねえ」と呟く、秋田の出稼ぎ労働者の未亡人の言葉が、本作の基調低音を成しています。1964年のオリンピックは、戦後日本が国際的な信用を取り戻すためのイベントであり、東京大空襲と関東大震災で二度焼け野原になった東京が、戦災と震災から復興したことを国内外に示す行事でした。

 本作の主人公の島崎国男は「飛行機があったら開会式に特攻するんじゃないかな」と公安警察に揶揄われる人物で、秋田の大曲近くの架空の熊沢村で生まれ育ち、東京大学でマルクス主義経済学を研究する大学院生です。彼は親の脛をかじって学生運動に加わり、モラトリアムを謳歌する他の学生に馴染めず、東京の豊かさより郷里の農村の貧しさを実感しています。地方の窮状を知る島崎にとって特需に沸く「東京の特権」は耐えがたいもので、彼は東京オリンピックの安全な開催を「人質」に、戦後日本に対して身代金を要求する決意を固めます。

 東京オリンピックを題材とした代表的な現代小説で、対照的な二つの東京オリンピックの価値について改めて考えさせる「時代小説」だと思います。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/778937/

奥田英朗『オリンピックの身代金』あらすじ

 秋田の農村で生まれ育った東大院生の島崎国男と、警視監の息子でテレビ局社員の須賀忠の人生を対照的に描く。1964年のオリンピック特需に東京が湧く中、「東京と東北はたった一字ちがいでなんもかんも不公平だ」と感じさせる差別や搾取が、出稼ぎの飯場で横行している。人事異動か退職のように出稼ぎの人々の死が受け入れられる状況を打破すべく、島崎は東京オリンピックを「人質」にとる決意をする。



2021/07/26

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第168回 乗代雄介『旅する練習』

 「現代ブンガク風土記」(第168回 2021年7月25日)は、乗代雄介の三島由紀夫賞受賞作『旅する練習』を取り上げています。表題は「ポスト・コロナの「鹿島立ち」」です。写真はカシマスタジアムを走る「サッカーの神様」ジーコの写真を採用頂きました。

 長崎でサッカーを6年間やっていたこともあり、Jリーグ開幕の頃を思い出し、この小説が所々で描く「鹿島の神としてのジーコ神話」を懐かしさと共に味わいました。アルゼンチン出身のマラドーナがSSCナポリで「神」となったように、クラブチームの英雄は国境を越えて「神」となりますね。

『旅する練習』は安孫子市から利根川に沿って、ドリブルやリフティングなどサッカーの練習をしながら、鹿島神宮へ向かう、作家の私とその姪っ子の亜美の旅路を描いた作品です。新型コロナウイルスの感染拡大を背景とした作品で、小学校の休校期間を利用して二人は、鹿島の合宿所に文庫本を返すという名目で徒歩旅行へ出ます。

 鹿嶋市は工業地帯ということもあり、全国から移住してきた工場労働者とその家族の結束を強めるために、サッカーを推奨してきた歴史を持ちます。NFLのピッツバーグ・スティーラーズが鉄鋼業の町を本拠地として、労働者の熱烈な支持を得たのと同様に、鹿島アントラーズは、日本製鉄の拠点である鹿島臨海工業地帯で働く人々に熱狂的に愛されるチームとなりました。ポルトガル語で「やせっぽち」を意味する「ジーコ」が鹿島の英雄となるに至る物語は、神話のような趣があり、不在の神と対話するように綴られる利根川沿いの風景描写にも味わいがある作品です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/775356/

乗代雄介『旅する練習』あらすじ

 中学受験をしたサッカー少女の亜美と作家の私の安孫子から鹿島神宮への旅路を描く。利根川沿いで出会った大学生のみどりとの近すぎず、遠すぎない距離の交流を通して、旅する理由について考えさせる。鹿島アントラーズのホームタウンであることを誇る看板が見えるまでに、3人がいかに心の成長を遂げていくのか。第34回三島由紀夫賞受賞作。


2021/07/19

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第167回 佐藤究『テスカトリポカ』

 「現代ブンガク風土記」(第167回 2021年7月18日)は、佐藤究の第165回直木賞受賞作『テスカトリポカ』を取り上げています。表題は「増える移民 川崎の新現実」です。西田藍さんとの対談「第165回直木賞展望 直木賞はどの作品に」でも時間をかけて議論した作品です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/770167/

 前作の『Ank:a mirroring ape』(吉川英治文学新人賞・大藪春彦賞)も人間の「原始の本能」である「ミラーリング」に着目し、「京都暴動」を描いたいい作品でしたが、やや純文学色(とゾンビ系小説色)が強めだったので、世界的な視野とエンターテイメント性が増した本作が直木賞に相応しいと感じました。

『テスカトリポカ』は「いつまで待っても国連軍が介入してこないようなタイプ」のマフィアやヤクザや半グレたちの現代的な抗争を描いた作品です。コカインや「氷」の俗称で知られるメタンフェタミン(ヒロポン)の密輸や臓器売買に着目しつつ、国際的なスケールで表現することに成功しています。小説の中心に据えられるのは、川崎市で生まれ育った土方コシモの成長物語で、作中に度々登場する「川崎市民の歌(好きです かわさき 愛の街)」の歌詞が、血に塗れた抗争と対照的で味わい深いです。

 本作は海外からの移民が増えた川崎の新しい現実感を、メキシコ系日本人のコシモが成長していく姿を通して描いた、山本周五郎賞と直木三十五賞のW受賞に相応しい大作だと思います。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/772239/

佐藤究『テスカトリポカ』あらすじ

 メキシコの麻薬カルテル「ロス・カサソラス」の幹部・バルミロと、ジャカルタの臓器密売コーディーネーター・末永は、川崎を拠点として臓器売買のビジネスに着手する。川崎のヤクザや東京の半グレ組織に対抗すべく、川崎の自動車解体場で、メキシコの流儀で殺し屋が育成され、川崎生まれでメキシコ人の母を持つ土方コシモは、父と慕うバルミロに見出され、その才能を開花させていく。


2021/07/14

第165回直木賞対談

第165回直木賞の候補作に関する西田藍さん(文芸アイドル、書評家)との対談を、西日本新聞の朝刊とオンライン版にご掲載頂きました。今回も良い候補作が挙がっていますので、お時間のある時にでもご一読を頂ければ幸いです。

「第165回直木賞展望 直木賞はどの作品に」

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/770167/



2021/07/12

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第166回 筒井康隆『文学部唯野教授』

  「現代ブンガク風土記」(第166回 2021年7月11日)は、筒井康隆の『文学部唯野教授』を取り上げています。今週は直木賞予想の対談も、西日本新聞に掲載予定です。

 表題は「文芸批評が「花形」だった時代」です。早治大学、立智大学、明教大学など実在の大学を想起させる場所を舞台にした、唯野教授を主人公とする「アカデミック・コメディ」です。作中に江戸川公園が登場するため、作品の舞台は早稲田大学に近いのかも知れません。

 唯野教授の現代批評論の小説内講義も楽しめます。内容は英国の批評家テリー・イーグルトンの『文学とは何か』を下地にしたもので、唯野がジョークを交えて説明する「構造主義」や「ポスト構造主義」の講義は、分かりやすくて面白いです。1980年代に流行した学際的な思想潮流=ニューアカデミズムから、文学に関するものをピックアップして、嚙み砕いて説明した「文芸批評入門書」のような風情です。

 1990年に発表された本作は「ニューアカ・ブーム」の後押しもあり、純文学作品としては異例とも言える50万部超えのベストセラーとなりました。猫の例を用いた唯野教授の「記号論」の論争まで起こったことを考えれば、思想や批評に関心を持つ人の多い時代だったのだと思います。文芸批評に関する講義が、大学の文系学部の「花形」だった時代の記憶を現代に伝える筒井康隆らしい「歴史小説」です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/768766/


筒井康隆『文学部唯野教授』あらすじ

 早治大学の文学部で教鞭を執る唯野教授が、大学内の政争に塗れながら、匿名で小説を執筆し、非常勤で働く立智大学で、自分が好きな文芸批評の講義を行う日々を描く。大学の権力と文壇の権力の構造を暴いたスキャンダラスな小説。フランス語にも翻訳され、「ルモンド」や「リベラシオン」で紹介され、筒井康隆の文化勲章(シュバリエ賞)の受賞に繋がった作品。



2021/07/05

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第165回 金原ひとみ『fishy』

 「現代ブンガク風土記」(第165回 2021年7月4日)は、金原ひとみ『fishy』を取り上げています。表題は「「男性社会」から自由な恋愛」です。前便のとおり、本連載は事前に協議の上ピックアップした現代小説に対する批評文ですので(掲載順やその可否、タイトルについてもご担当のデスクによる判断ですので)、特定のトピックに対する個人的な見解を代弁するものではありません。念のため。政治や社会などの個別の問題がどうであれ、普遍的に存在する文学的な問題について論じた批評文です。

 金原ひとみは男女の間に生じる感情の食い違いを、ユーモラスな情感と共に表現するのが上手い作家だと思います。本作は銀座に近い有楽町駅と、ビジネス街として知られる新橋駅の間にある銀座コリドー通りで酒を酌み交わす「fishy(胡散くさそう)」な女性三人の恋心を、心の底から抉り取るように描いています。写真は数か月前に私が撮った銀座のコリドー通りのものです。

 3人は互いに本音で批判をぶつけ合う酒飲み仲間で、定期的にコリドー通りに繰り出しては、世の中の男たちに翻弄されないための「同盟」のような関係を育んでいきます。3人の女性たちの異なる恋愛観や人生観が、酒気を帯びた遠慮のない会話を通して浮き彫りにされる展開が面白いです。この作品はレイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』のように、酒場で親しくなった人々の儚い友情とハードボイルドな人生を浮き彫りにすることに成功しています。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/765232/

金原ひとみ『fishy』あらすじ

 子育てをしながら出版社で編集者として働く弓子。フリーのインテリアデザイナーとして事務所を構える既婚者のユリ。元々は小説家志望でライターの仕事を続ける、独身者の美玖。飲み友達の関係にあった三人は、不倫や離婚、家事の分担やセックスレスなど男女間に生じる様々な問題について語り合ううちに、内に抱える闇を互いに晒していく。