2022/01/10

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第190回 森博嗣『工学部・水柿助教授の日常』

  本年もよろしくお願いいたします。引き続き毎週日曜日に、西日本新聞朝刊とオンライン版で現代日本を代表する著者の小説について論じていきます。今週の「現代ブンガク風土記」(第190回 2022年1月9日)では、森博嗣『工学部・水柿助教授の日常』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「理工大描くミステリ私小説」です。

 森博嗣は『スカイ・クロラ』などの作品で売れっ子となりましたが、名古屋大学工学部で「生コン」の研究を行い、助教授のまま作家となった異色の経歴を持ちます。本作は、森博嗣の「私小説」と言える自伝的な作品で、森の分身と言える「水柿君」が三重大学と思しき大学の助手に採用され、名古屋大学と思しき大学の工学部に助教授として赴任する30代前半までを描いています。

 ミステリ小説に登場する饒舌な探偵について「犯人なんかよりもずっと不自然ではないか」などと批判している点も森博嗣らしくて面白いです。筒井康隆の『文学部唯野教授』や奥泉光の『桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活』のように、大学の世界の裏側を描いた系譜の小説です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/858949/

森博嗣『工学部・水柿助教授の日常』あらすじ

 のちに作家となった、33歳のN大学工学部助教授・水柿小次郎の日常を描いた作品。「奈良の大仏が立ち上がって近鉄電車で通っているのではないか」と思わせる妙な先輩のエピソードなど、風変わりな理系の研究者を描く。ミステリ小説とは何かを考えさせる森博嗣の自伝的小説。

*******

 年のはじめに米国のメディア分析を少々。日本ではオミクロン株への不安が高まっていますが、アメリカではフットボールシーズンの真っ只中です。NCAAのOrange BowlやCotton Bowl、NFLのSuper Bowlを視野に入れた終盤戦が、(寒い中)8万人規模のスタジアムを満員にして行われています。年末のNew York Timesの国際版に「Colleges fear a mental health crisis」という記事が掲載されていましたが、大学教員として悲しくなる記事で、下のオンライン版の写真の「YOU don't have to be perfect to be AMAZING」という言葉が印象に残ります。マーチングバンドの音楽や観客の声援と共にBowl Gamesで躍動する学生たちの姿は、新型コロナ禍で孤独を感じている他の学生たちの心の支えになったと思います(客席のマスク着用は義務付けてほしいですが)。

https://www.nytimes.com/2021/12/22/us/covid-college-mental-health-suicide.html

 こういう状況下で行われたBowl Gamesについて、相対的に安全な側から分かりやすい批判をすることは容易です。ただNCAAやNFLはその程度の批判は織り込んでるわけで、各大学がキャンパスを有する、地域に根差したフットボール文化を守り、「コミュニティを回す」ことを優先し、学生を勇気付けることを優先したわけです。日本のメディア(翻訳報道も含む)がアメリカの大衆文化が反映する価値観をフォローできていない点については、2016年に中西部に2週間ほど滞在し、トランプの当選を事前予想した「新潮45」の原稿でも書きました。トランプの支持・不支持に関係なく「悪を引き受けて大義を成す」ことを選好したがる価値観が「他者としてのアメリカ」にあることが、日本ではほとんど理解されていません。アメリカに限らず、良い意味では山本周五郎の名作『樅ノ木は残った』や江藤淳の『成熟と喪失』にも通じる価値観です。

 新型コロナ禍で、日本でもメンタルの不調に起因する(と思われる)事件が頻発しています。しかし当事者をコミュニティに包摂し、痛ましい事件を未然に防ぐ方途に関する議論は脆弱で、「現場任せの対応」か「お役所対応」に留まっているのが現状です。私は1996年に、当時としては珍しかった臨床心理学を専攻できる学科に入学していますが(卒業は社会系)、臨床心理学者の東畑開人さんが書かれているとおり、「心の問題」は平成年間を通して一般にほとんど理解されず(その兆候が看過され続け)、新型コロナ禍の時代に深刻化したという印象が拭えません。

 近年はプロのフットボールの世界でもカレッジ時代に、精神的に苦労し、その後飛躍したQBの活躍が顕著です。ドラフト6巡199番目から這い上がり、20年近くトップ選手として踏ん張っている、同い年のトム・ブレディや、Ohio StateでスターターになれずLSUに転校して全勝優勝し、ドラフト1巡1位で入団したジョー・バロウ、ADHDを克服し、マイナーなブリガム・ヤング大(BYU)から、NYJにドラフト1巡2位の評価を受けたザック・ウィルソンなど、努力して才能を開花させたQBの繊細なプレイが光ります。

 個人的にオールタイムで最も好きなQBはスティーブ・ヤング(ブリガム・ヤングの子孫で、クイズ番組でも難問を即答するなど、瞬時の判断に秀でる)で、BYU=モルモン教系のQBの「修業感」のある我慢強いフットボールが好みです。ヤングは長い間、ジョー・モンタナの控えでしたが、彼のキャリアに目を向けると、どんな状況下でもプロとしての矜持を保ち、どのチーム・コーチの下でも通用する力を磨くことの重要性を教えてくれます。BYUはアメリカの大学で突出して学費が安い大学としても有名です。

 BYUといえば、モルモン教の首都=ソルトレイクシティを起点とした「ブック・オブ・モルモン」が近年のトニー賞で一番面白かったです。5年ぐらい前にソルトレイクに立ち寄った時、空港のレンタカー屋の受付のマダムに、この作品とスティーブ・ヤングのBYU時代の話をしたら、トヨタのYarisをFordの高級SUVに無料アップグレードしてくれたのが、いい思い出です。禁欲的な現代のモルモン教への批判は色々ありますが、米国の6大宗派ながら公然と原爆投下を批判していますし(ユタ州はトリニティ実験が行われたニューメキシコ州に近い)、ソルトレイクシティは街中でも路上生活者に優しく声をかけたり、食べ物や小銭を渡す人が多く、クリスチャンが多い長崎やナポリに雰囲気が似ています。

「ソーシャル・ディスタンス」という言葉が未だに使われ、紋切り型の正義が日本的な価値観やメディア報道に根差していますが、「コミュニティを回す」「埋もれた才能を引き出す」という観点からは不味い部分が多いと思います。新型コロナ禍が続いていますが、不確かな情報や極端な意見、他人や自身の「盛られた自己像」に踊らされず、また炎上やクレーム、キャンセル・カルチャー、マウンティングなど、「村社会的ないじめの変種」に加担して溜飲を下げるのでもなく、オープンなマインドで「コミュニティを回す」ことを心がけたいものです。この点は今週の新聞取材でも触れます。「(時間性を伴う)配慮的な気遣い(ハイデガー)」を忘れないようにしたいものです。

 今週は秋学期の教育活動の締めくくりとして、西日本新聞の直木賞対談(西田藍さんとの対談)を、学生に公開の上、明治大学中野キャンパスで実施します。今回の直木賞の候補作にも、出版不況を潜り抜けてきた、実力ある書き手の光る作品があります。

2021/12/20

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第189回 吉田修一『犯罪小説集』

 「現代ブンガク風土記」(第189回 2021年12月19日)では、綾野剛主演・瀬々敬久監督で映画化された吉田修一『犯罪小説集』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「猟奇的事件絡め迫る人間の闇」です。本作の中の2篇を原作とした映画「楽園」のパンフレットにも解説を寄稿しています。上白石萌音さんが歌う「楽園」の主題歌「一縷」も、小説の内容に相応しい素晴らしい楽曲(作詞・作曲: 野田洋次郎さん)です。昔の阿久悠作詞の歌や、中島みゆきやさだまさしの曲など、昭和歌謡(後期)のピーク時のような風格が感じられます。映画もKADOKAWAらしい良作です。

映画「楽園」解説/現代日本を生きる私たちの「こころ」の行く末を問いかける

https://makotsky.blogspot.com/2019/10/blog-post.html

『犯罪小説集』は日本の地方都市を主な舞台とした5つの犯罪事件を、事件そのものというよりは、そのプロセスを関係する人々の内面を通して描いた短編集です。

「青田Y字路」は、北関東連続幼女誘拐事件を想起させる内容ですが、この作品は、誘拐事件を描いたものというよりは、不確かな噂に振り回される人々を描いた作品だと言えます。警察の誤認捜査の結果、風評被害が拡がる「冤罪事件≒大人のいじめ」を描いた作品と考えることもできます。

「曼珠姫午睡」は、同級生の英里子の立場から、ゆう子が関与した「保険金殺人事件」を描いた作品です。裕福な家庭で育ち、幼少時から社交的で友達も多く、東京で弁護士の夫と結婚した英里子の人生は、ゆう子と対照的に一見すると幸福なものに思えますが、安全な場所に居ながら「マウントをとりたがる性格」に潜む闇が、ゆう子よりも深いことが徐々に明かされます。

 吉田修一は「犯罪小説集」の各短編を執筆するにあたり、近松門左衛門の作品を参照していたと考えられます。本作でも「曽根崎心中」「国性爺合戦」「女殺油地獄」など近松の代表作のような「五文字のタイトル」が各短編に採用され、ちょっとした感情の行き違いや思い込みが、登場人物たちの人生を一転させる点など、近松作品の核となるモチーフを継承しています。

 本連載は年内はこれが最後で、2022年1月9日より再開します。来年も現代日本を代表する小説を取り上げていきますので、ご関心を頂ければ幸いです。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/849716/

吉田修一『犯罪小説集』あらすじ

 地方都市や田舎町を主な舞台にして起きた「犯罪」を描いた短編集。立場の異なる様々な人物の視点から、事件に至る経緯が描かれる。犯罪を犯した人間と犯罪を犯さなかった人間の間に横たわる「闇」に迫る内容。吉田修一の新たな代表作。

*******

 2021年12月18日に、立教大学の福嶋亮大先生、神戸市外国語大学の山本昭宏先生にお越し頂き、明大生を前に「文芸批評」に関する充実した内容のゲスト講義を行って頂きました。明治大学より張競先生、伊藤氏貴先生、講談社「群像」の森川さん、文藝春秋「文學界」の長谷川さん、西日本新聞の佐々木さんにもご参加頂き、質疑応答も含め学生たちと共に密度の濃い、有意義な時間を過ごすことができました。

 山本さんのユーモラスな関西弁の講義に旅情と才覚を感じ、福嶋さんの理知的な話し方の講義に思想とビジョンを感じました。雑誌「批評空間」の認識的な枠組みを超えることが共通テーマとしてあり、色々と刺激を受けました。この日の夕方には、特別招聘教授の上野千鶴子先生の講義も開催されていましたので、フェミニズム批評も含め、国際日本学部・国際日本学研究科の学生にとって、批評について考えるいい一日になったのではと思います。

 新型コロナ禍の中、対面のゲスト講義(オンライン中継も実施)にご理解とご協力を頂き、心より感謝申し上げます。今年の最後に、多くの皆さんと対面で文芸批評の将来について考えることができ、嬉しく思いました。

2021/12/14

2021年ゼミ合宿@明治大学・山中セミナーハウス

 明治大学の山中セミナーハウスでゼミ合宿を実施しました。簡単な発表と、近隣の文学館の見学以外は、山中湖の近くを散歩しながら、雑談をするような時間でしたが、オンラインの世界と適度な距離を置き、清らかな空気を吸い、いいコミュニケーションの場ができていたように思います。将来のある学生たちには、心身の健康を第一に、極端な意見や、自己承認欲求が渦巻くSNSなど、オンライン上のコミュニケーションに囚われず、散歩や対面の会話、オフラインの読書に時間を使い、地に足の着いた想像力を育んでほしいと考えています。

 前任先からゼミ合宿では、移動中に学生一人一人と面談するようにしています。「旅」の開放感も手伝ってか、授業前後に聞けないような話や相談ごとを、学生たちから聴取することが多いです。雑談のような助言になりますが、現実の空間で一緒に移動しながら、美しい景色を眺め、談話することそのものに意味があると思っています。定期的に学生たちに取材する感じで、原稿を書く上でも参考になることもあります。

 明治大学のセミナーハウスは安くて利用しやすく、同じタイミングでゼミ合宿を行っていた他の先生方や学生も含めて、暖かい空気に包まれていたように感じました。天候に恵まれ、美しい冬の富士山に、学生たちが感動して写真を多く撮っていました。次の機会がセッティングできれば、院生や交換留学生も含めて、清里か菅平のセミナーハウスを訪れたいと考えています。



2021/12/13

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第188回 熊谷達也『邂逅の森』

 「現代ブンガク風土記」(第187回 2021年12月12日)では、直木賞と山本周五郎賞をダブル受賞した熊谷達也の『邂逅の森』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「漲る野性味 マタギの全盛期描く」です。

 熊やアオシシ、ニホンザルなどの狩猟を生業とし、アイヌ文化との関りも深い「マタギ」の里・秋田県旧荒瀬村で生まれた富治の物語です。胃腸病や婦人病などの万能薬として重宝される「熊の胆」を得るために、マタギたちは命懸けで熊を追っていました。この作品が描く明治~大正の時代には、熊の胆の一匁が米俵二俵と取引され、敷物として毛皮も人気であったため、一冬に一頭の熊を仕留めれば、数家族が冬を越すことができたらしいです。

 日本の山民=狩猟民の先祖とされる伝説上の人物・磐司磐三郎は、東北地方に多くの逸話を残し、マタギの開祖としても知られます。マタギの頭領は伝統を受け継ぎ、山言葉を用いて呪文を唱え、禁忌を守り、危険な熊の猟に臨んでいきます。マタギと熊との命懸けの戦いの場面がリアルで、マタギたちが時に意表を突かれ、時に生きたまま体を食われたり、顔の一部を引き千切られる描写が生々しいです。

 貴重な「熊の胆」をめぐる商取引の現場も、売り手と買い手の駆け引きに緊張感があります。命を懸けて人々が獲った商品が、互いを騙し合うような取引を通して描かれている点に、狩猟の現場とは異なる、商取引の現場らしい緊張感を覚えます。旅マタギの慣習や独自の信仰、夜這いの風習など、近代化の波に晒されながらも東北地方に残存してきた旧習の描写も読み所です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/846011/

熊谷達也『邂逅の森』あらすじ

 秋田県の山奥のマタギの集落に生まれた富治は、名主の一人娘に夜這いを掛けて村を追い出される。鉱山で働く中で成長し、子分の小太郎の実家のある東北の別の村に移り住み、自らマタギの頭領となり、熊狩りに臨む。戦争の時代を背景に、貧しい人々が高価な薬の原料となる「熊の胆」を巡って命を賭ける姿を描く。直木賞と山本周五郎賞を史上初めて同時受賞した大作。

*******
 本連載は180回分(加筆・修正で約800枚)で単行本化の準備を進めていますが、2022年も平常通り続きます。まだ取り上げていない優れた作品も多く、例えば田辺聖子『ジョゼと虎と魚たち』や米澤穂信『満願』、古井由吉『仮往生伝試文』など、自由度の高い現代的な表現で、土地の風土や訛りを捉えた現代小説について、その内容に踏み込みながら批評していきます。
 以前にも記しましたが、本連載は、政治や社会をめぐる問題がどうであれ、有限な時空間を生きる、不完全な存在者である人間に、普遍的に付きまとう文学的な問題について論じた批評文です。念のため。

2021/12/06

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第187回 佐藤究『Ank: a mirroring ape』

 「現代ブンガク風土記」(第187回 2021年12月5日)では、佐藤究の吉川英治文学新人賞・大藪春彦賞・W受賞作の『Ank: a mirroring ape』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「『京都暴動』描くパニック小説」です。『テスカトリポカ』の直木賞受賞後に入稿した原稿ですが、「パンデミック小説」といえる内容でもあり、オミクロン株の流行が懸念されるタイミングでの掲載となりました。

 人類発生の起源をめぐる科学小説の趣きを持つ長編で、新型コロナウイルスの感染が拡大する以前の京都の「オーバーツーリズム」を風刺した、「知的なゾンビ映画」のような作品です。物語の軸となるのは、嵐山から京都御所、八坂神社まで「モンスター級の観光都市」を舞台に発生した「京都暴動」とAnk(古代エジプト語で「鏡」の意味)をめぐるミステリです。主人公は30代の霊長類研究者の望で、彼がシンガポールの起業家の出資で、AIが再現できない、人間の知性の謎に迫る研究所を立ち上げます。

 佐藤究は純文学出身ということもあり、人間の存在条件に迫る問いを小説に織り込むのが上手い作家です。直木賞の受賞作『テスカトリポカ』では、人間の物質性をアステカ文明の信仰と臓器売買を通して描き、超資本主義社会が持つ呪術性に迫りました。本作では、鏡に映った自己像を自分であると認識する「自己鏡像認識」の能力に着目し、それをAIが持ち得ない謎に迫ります。

「鏡に映っている像が自分」であると認識する能力は、チンパンジー・ボノボ・ゴリラ・オランウータンの4種と人類のみが持つ能力です。鏡や水面に映った自分の像を、自分自身だと認識することで、人間は進化を遂げました。ジャック・ラカンが「鏡像段階」に着目したように自己像の認識は重要なもので、霊長類研究の新しい成果を取り入れた点も面白く、佐藤究らしい人間の無意識に潜む「原ー暴力性」を浮き彫りにした作品と言えます。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/842272/

佐藤究「Ank:a mirroring ape」あらすじ

 世界的な観光地であり、観光客であふれかえる近未来の京都を舞台に「暴動」の謎に迫る小説。現代的な寓話であり、人間発生の起源をめぐる科学小説の趣きを持つ長編。吉川英治文学新人賞と大藪春彦賞をW受賞。


 

2021/11/29

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第186回 一穂ミチ『スモールワールズ』

「現代ブンガク風土記」(第186回 2021年11月27日)では、「金魚の里」として知られる奈良県大和郡山市を舞台にした一穂ミチの『スモールワールズ』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「マイノリティの『実存』」です。2021年7月14日掲載の直木賞予想対談でも次点に挙げた作品です。

 この作品は、ボーイズラブの作家として知られる一穂ミチが記した「マイノリティ」の人々の内面を綴った純文学色の強い短編集と言えます。「大人のいじめ」のような問題を下地として、「不育症」を抱えたファッション・モデルや、暴力事件を引き起こして甲子園行きを帳消しにした元高校球児、乳児の事故死で「虐待」のレッテルを貼られた祖母など、多様な人物が各短編の「実存的な問題(スモールワールズ)」への「問い」を深めていきます。

 冒頭の「ネオンテトラ」に登場する美和は、「大人になったら、好きなところを好きなふうに走れるよ。きみが望まない人とは交差しないようにだって、できるんだから」と、虐待を受けている中学生の笙一を励ましますが、酔った笙一の母親からは「人んちのガキ構ってボランティアのつもり!?善人気取りか?」と厳しく罵倒されます。

「魔王の帰還」は、身長188センチの真央こと「魔王」を姉(27歳)に持つ、元高校球児・鉄二の青春を描いた作品です。堂々たる体格で、公道を歩けば「総合格闘技(地下プロレスだったかも)」のスカウトを受ける魔王は、リアル『進撃の巨人』と噂されながら、奈良の大和郡山をモデルにした場所で暮らしています。訳ありの問題を抱える魔王と、訳ありの暴力事件を引き起こした鉄二と、訳ありの過去を持つ奈々子が、特訓を重ね「金魚すくい選手権」に出場し、自己の人生を見つめ直す展開が、純文学風のスポコン・ドラマのようで味わい深い内容です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/838542/

*******

 明治大学の授業はシラバス通りですが、次年度より立教大学でも演習を担当する見込みです。1年前まで社会学部で演習と卒論を担当していましたが、縁あって別の学部での担当です。青山学院大学社会情報学部でも集中講義を継続する予定です。東洋英和の大学院の授業は隔年のため、次年度はお休みです。新型コロナ禍が続いていますが、各大学のキャンパスに、学生たちの明るい声の響き=賑わいが戻り、ここ数日の報道でも注目されている通り、「学生たちの心の問題≒スモールワールズ」が、健やかなコミュニケーションを通して、ケアされることを願っています。

 


2021/11/22

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第185回 原田マハ『でーれーガールズ』

 「現代ブンガク風土記」(第185回 2021年11月21日)では、岡山を舞台にした原田マハの『でーれーガールズ』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「『第二の故郷』への郷土愛」です。

「人間は他の哺乳類よりも植物に似ている」と江藤淳は述べています。新型コロナ禍のような有事が起きると、国境や県境を越えた移動に制限がかかるように、私たち人間は他の動物たちと比べても、それほど自由に移動しながら生活しているわけではありません。ただ私たちは転勤や転校、結婚や移住などを通して、時にそれまで縁もゆかりもなかった土地と関り、そこに愛着を抱くことがあります。

 例えば私にとって「第二の故郷」と言える場所があるとすれば、大学院から助教を経て、文教大学勤務まで19年にわたり関りを持った湘南地区になると思います。三田勤務の時期もSFCで授業を担当していたため、長崎で過ごした18年を上回る年数を湘南で過ごした計算になります。海に近い、開放感のある場所に縁があるのだと思います。 現在の職場のある中野については、近辺を含めればそこそこ長く、早稲田の図書館を利用していたこともあり、北新宿を中心に計8年ほど住んでいました。

 原田マハは東京生まれですが、小学校6年生から高校卒業まで岡山市で育ち、1886年創立の名門女子校として知られる山陽女子高校に通っていました。作中では駅前のメインストリート・桃太郎大通りや岡山一の繁華街・表町商店街など土地の描写が多く、「ひさしぶりじゃのう」「よかったのう」「アイスが食べてえんじゃ」など、「昔話に出てくるようなカンペキなジイさん言葉=オーソドックスな岡山弁」がふんだんに織り込まれています。

「桃太郎」や「空を飛んだきつね」など現在の岡山近辺を舞台にした昔話は多いですが、現代小説は珍しく、この土地で育った原田マハらしい作品といえます。岡山市の市街地から後楽園に向かって架かる鶴見橋での出会いと別れが、読後の印象として強く残る作品です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/835181/


原田マハ『でーれーガールズ』あらすじ

 1980年の岡山の白鷺女子高校を舞台にした作品。親の仕事の都合で東京から引っ越してきた佐々岡鮎子は、「でーれー」という岡山弁を無理して使うため「でーれー佐々岡」と呼ばれている。鮎子が創作した空想上の恋人・ヒデホに、親友の武美がだんだん惹かれるようになり、三角関係のような状態となる。岡山の様々な人々との出会いや、淡い恋心が芽生えた淳君との関係も進展していく。岡山で育った原田マハの青春小説の代表作。

*******

 2021年11月17日に「寄席の爆笑王」と(一部で)呼ばれていた落語家の川柳川柳が90歳で亡くなりました。義太夫節から軍歌、ジャズを声色を変えて表現する話芸は、立川談志も高く評価していました。学生時代に上野の鈴本で「ガーコン」を聞いて、何かしら自分の仕事に「唄」の要素を取り入れたいと思ったものです。古典をやらない落語家で、個人的には「文七元結」「百年目」「らくだ」など、師匠・圓生の大ネタを継いでほしかったのですが、圓生、小さん、三平、談志など、往年の落語家たちのこぼれ話も面白かったです。圓生の後継者として期待され、笑点のメンバーにもなりかけましたが、寄席に埋もれることを良しとした噺家だったと思います。

 最近は、與那覇潤さんより『知性は死なない』(文春文庫)をご恵投頂いたこともあり、解説を書かれている東畑開人さんの本を読みつつ、「平成」を振り返りながら(『平成史』もお勧めです)、学術的(人間科学的)な初心にかえっています。

2021/11/15

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第184回 有川浩『県庁おもてなし課』

  「現代ブンガク風土記」(第184回 2021年11月14日)では、高知生れで海・川・山とワイルドに触れあいながら育った、有川浩のベストセラー作『県庁おもてなし課』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「高知愛爆発の観光エンタメ」です。

「パンダじゃ、パンダを呼ばなぁいかん」と有川浩の父は晩酌をしながら、高知県の観光の将来について語っていたらしいです。本作は「パンダ誘致論」を唱えた伝説の県庁職員・清遠和政が、県庁を退職しながらも観光コンサルタントとして成功したストーリーを下地に、「おもてなし課」を描いています。パンダに頼らずとも、高知には長い海岸線を持つ海があり、「日本最後の清流」と呼ばれる四万十川があり、西日本最高峰の山があります。私も3年おきぐらいに訪れている好きな土地です。

 高知市から車で2時間ほどの場所にある馬路村は、かつて「馬しか通えぬ」と言われた山間の集落でしたが、現在は「ポン酢しょうゆ」をはじめとする加工品で、村おこしの成功例として全国的に知られています。人口千人にも満たない山間の村が、800年前から自生していた柚子をブランド化し、全国に流通させた功績は大きいと思います。個人的には、馬路村のポン酢しか冬の鍋料理にたらす気が起きません。

「県庁おもてなし課」は、売れっ子の作家となった有川浩が、観光大使を務めた経験をもとに、故郷・高知への愛着と県庁への不満の双方を爆発させ、「高知まるごとレジャーランド化構想」を打ち出した、現代を代表する「観光小説」です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/831702/

有川浩『県庁おもてなし課』あらすじ

 有川浩の出身地である高知に実在する「県庁おもてなし課」を舞台にしたフィクション。若手の県庁職員の掛水は、観光特使に就任した高知出身の売れっ子作家・吉門の助言を受けながら、「パンダ誘致論」で県庁を去った観光コンサルタントの清遠と共に、高知の観光行政に一石を投じる。おもてなし課の奮闘努力と共に、掛水とアルバイトから県庁に入った多紀の恋愛劇がひも解かれる。2013年に映画版も公開され、ヒットを記録した。



2021/11/08

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第183回 中村航『トリガール!』

 「現代ブンガク風土記」(第183回 2021年11月7日)では、毎年、琵琶湖で開催される鳥人間コンテストを題材とした『トリガール!』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「琵琶湖舞台に『リケジョ』描く」です。

 遠い昔に鳥類と枝分かれして進化してきた哺乳類の人間は、飛行願望を持っていると言われます。「重力に逆らうってのはさ、本当は神さまに逆らうことなんだ」と作中で表現されているように、飛ぶことは「神」への反逆であり、極めて近代的な営為と言えます。

 近年、サークルや部活動に入らない大学生が増えています。その一方、この小説の主人公・ゆきなのように「自分のしたいことがわからない」と感じている学生は、今も昔も変わらず多いと思います。作中では次のような助言が記されています。「でも、やりたいことなんて、最初はないんじゃないかな。そういうのって後からわかると思うの。きっかけなんて縁だし。楽しそうって思ったら、好奇心に乗っかってやってみるだけだよ」と。

 飛行機を作ったライト兄弟も、飛行船やハンググライダーの発明に触発され、自転車屋の仕事の傍ら「好奇心」で飛行機を作り、大空へ羽ばたきました。「神」への反逆として近代人がはじめた「飛ぶ」という行為はその後、「立体戦」と呼ばれる戦争の惨禍を招きましたが、世界中の人々の国境を越えた自由な移動も可能にしました。

 ライト兄弟の初飛行が1903年、人間が飛行機を発明してまだ120年にも満たないことを考えれば、未だに人間は「飛ぶ」という営為に不慣れなのかも知れません。本作は「鳥人間コンテスト」にパイロットとして出場することになった女子学生・ゆきなと、飛行機の製作に魅了された人力飛行機サークルの仲間たちの青春を描いた現代小説です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/828054/

中村航『トリガール!』あらすじ

 鳥人間コンテストを目指して人力飛行機を作る大学のサークルに入ったゆきなと、個性的な部員たちの交流を描いた青春小説。右も左も男子学生ばかりの機械工学科で、やりたいことを見出せないゆきなが、元パイロットの坂場先輩と琵琶湖の空に飛び立っていくまでの汗と涙の努力を描く。


2021/11/01

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第182回 さだまさし『眉山』

 「現代ブンガク風土記」(第182回 2021年10月31日)では、徳島県を舞台にした数少ない現代小説の一つ、さだまさしの『眉山』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「「タメ、間、情」の人生」です。書籍化にあたり、年内の原稿は夏休みに入稿していますが、今回の原稿は、ぼんやりと年末の「歌の生放送シーズン」を想定した小説でした。ちょうど年末感の出てくる時期の掲載で、良かったと思います。

 さださんのお母さんの喫茶店が長崎の実家の近所だったこともあり、シンガーソングライター・さだまさしの歌と話芸には、幼少期から親しみを感じてきました。洗練された楽曲と、史上最多の単独ライブの経験で磨かれた心地いいトークで、様々な業績を残してこられた、長崎を代表する文化人だと思います。いい曲が多くありますが、個人的には「道化師のソネット」「風に立つライオン」あたりが好きな曲です。

『眉山』は阿波踊りを中心に据え、音楽的な感性を織り込んだ人情噺です。さだまさしの小説は『精霊流し』や『解夏』など映像化された作品も多く、作家としても成功を収めています。本作は文楽や義太夫節を参照しつつ、「踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら踊らにゃ損々」の一節で知られる徳島県民謡「阿波よしこの」を題材としています。

 さだまさしは3歳からはじめたヴァイオリンの才能を評価されて、中学生から長崎を離れ、上京していますが、クラシック音楽で挫折し、帰郷した過去を持ちます。本作で描かれる母・龍子のように苦労を重ね、長崎で結成したバンド「グレープ」で1973年に全国デビューしています。「精霊流し」や「無縁坂」をヒットさせますが、曲が暗いと批判され、ソロになって「雨やどり」や「関白宣言」などの曲をヒットさせます。1980年の「防人の歌」(夏目雅子の助演、笠原和夫脚本の「二百三高地」主題歌)も大ヒットしますが、翌年公開の映画「長江」の製作で30億円近い借金を背負い、自己破産の寸前まで追い込まれてしまいます。

 さだまさしが本格的に小説を書き始めたのは、借金返済の渦中にあった1991年です。声とギターと話芸で、往時の全日本プロレス並みの公演回数を重ね、苦労して借金を完済したさだまさしらしい、人生の喜怒哀楽が感じられる小説です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/824495/

さだまさし『眉山』あらすじ

 徳島の歓楽街で店を切り盛りする母・龍子に育てられた咲子は、余命数か月と宣告された母を看病するために、徳島に戻ってくる。眉山を望む徳島の市街地と阿波踊りの魅力を描きつつ、存在の定かではない父と、母の人生の謎に迫る。人生の底を舐めた経験を持つさだまさしらしい、女性の逞しさを描いた小説。2007年に松嶋菜々子主演で映画化される。

*******

 先週は前々から寄稿したいと思っていた雑誌の編集部の方より原稿のご依頼を頂き、久しぶりに明るいニュースで、嬉しく感じました。新型コロナ禍の困難な時期に、温かいご配慮を頂き、ご推薦・ご依頼を頂いた編集委員の先生方に、心より感謝申し上げます。

 授業・校務・原稿・書籍など年末まで色々と予定が詰まっていますが、体調に気を配りながら、何とか乗り切っていきたいと思います。