2022/01/31

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第193回 米澤穂信『氷菓』

 「現代ブンガク風土記」(第193回 2022年1月30日)では、米澤穂信の『氷菓』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「伝統的景観生かし青春描く」です。

 青春小説はなぜ人々を魅了するのでしょうか。一つの答えを示せば、多くの人が若い時期に、その後の人生を左右する「取り換えのきかない時間」を経験するためだと思います。言い換えれば、読書を通して「他にあり得たかも知れない人生」を感じるのに「青春時代」ほど相応しいものはない、と考えることもできます。

 本作は、岐阜県高山市にあると思しき「神山高校」の「古典部」にまつわる様々な事件を描いた青春小説です。神山高校は、米澤穂信が通った岐阜県立斐太高等学校をモデルにしています。米澤は金沢大学在学中からウェブ・サイトで小説を発表し、卒業後は高山市の三洋堂書店で働く傍ら、この作品でデビューしました。「氷菓」は2012年にアニメ化されて高い人気を獲得し、高山市は「アニメツーリズム」の有名な成功事例となりました。伝統校を舞台に、青春の甘さと苦さを同時に体感させる、サービス精神に満ちたデビュー作です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/869427/

米澤穂信『氷菓』あらすじ

 第166回直木賞を「黒牢城」で獲得した米澤穂信のデビュー作。小説の内容は「青春学園ミステリ」とでも言うべきもので、米澤の出身地である岐阜県高山市の神山高校を舞台に展開される。「古典部」で33年前から発行されてきた「氷菓」にまつわる謎とは何か。アニメ版も有名な人気シリーズの第一作。

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 今週もKansas CityとLAでのNFLのChampionshipを楽しみに仕事に励みました。日本だとMisandryというかMan-Hater的な議論が「リベラル」と見なされがちで、フットボール文化そのものが否定されそうで恐ろしいですが、NFLはNon-Profit Organizationの代表的な成功例で、地域振興、マイノリティの支援という点でも重要な役割を果たしています。放送権の販売やシーズンチケットによる集客、グッズ販売、自前のメディア配信、オンラインのサブスクの何れも好調で、(年17試合+プレイオフで)労働分配率も高く、今週も8万人規模のスタジアムで満員の開催でした。

 バロウ君のCincinati Bengalsが33年ぶりのスーパーボウル出場。今年はカレッジもCincinatiは良いチームでした。北新宿に住んでた時、中華の出前の人がいつもBengalsのヘルメットを被っていて「(いい意味で)やばい」と思ってましたが、バロウ君の活躍で、Bengalsのメットを堂々と被れる時代が来た気がします。Cincinatiは一度行きましたが、中西部らしくフレンドリーな人が多く、いい街でした。

 基本的に弱いチームのupsetを観るのが好きなので、今年のスーパーボウルの組み合わせは好みです。デトロイトを出た、33歳のスタッフォードがLA RAMSからスーパーボウルに出るなんて予想外でした。セントルイス時代のRAMSで、37歳でスーパーボウルに出た、(スーパーマーケットで時給5ドル50セントで働きながらプロになった)カート・ワーナーを思い出します。ワーナーはNFLのGAME DAYの解説で、Arrowhead Stadiumの空気を読まず、Bengalsを推してましたが、その通りの結果となりました。

NFL Mic'd Up Championship Week "WE GOING TO THE SUPER BOWL!"

https://www.youtube.com/watch?v=0I7Vs3RPNBc

 同い年のブレディは、先週、引退っぽい発言をしてビッグニュースになりましたが、その後、2月1日に公式に引退表明。マホームズ×ブレディの18歳差のマッチアップを観たかった人は多いと思いますが、40代半ばで続けるには、きつい仕事だったのは確か(ドラフト6巡199番目の指名になったのも、skinnyな体格だったからでした)。Bostonを舞台にした「ted 2」でtedをいい感じのスパイラルで投げたのも、キャリアのハイライトです。NYとBostonでピーク時に観戦できて良かったです。2月はスーパーボウルとブレイディ関連の報道を味わいつつ、そこそこ仕事に取組んでいきたいと思います。


Thank you, Tom Brady | Celebrating the Greatest of All Time
Thank You, Tom Brady | QB Announces Retirement
Top 10 Greatest Tom Brady Moments of All Time

2022/01/24

毎日新聞「コロナ感染巡る報道 個の死、伝えた米英/日本は「匿名志向」」

 毎日新聞に新型コロナ禍の海外メディア報道に関するインタビュー記事が掲載されました。ニューヨーク・タイムズの英字テキストの定量分析と、アメリカの大学生がメンタル・ヘルスの危機を訴えている報道を踏まえた内容です。通常の新聞取材よりも長い時間、お話をしました。毎日新聞の青島さんに要点を上手くまとめて頂きました。専修大学文学部ジャーナリズム学科の澤康臣先生の談話と同時掲載です。

「コロナ感染巡る報道 個の死、伝えた米英/日本は「匿名志向」」毎日新聞(22年1月24日朝刊)

https://mainichi.jp/articles/20220124/ddm/004/040/051000c

 この原稿を入稿した後も、東大の殺傷事件などが起きています。様々な報道がありましたが、一部の報道で出ている自傷行為など予兆があった点が重要だと思います。

 極端化する世論形成の問題も同様ですが、メンタル・ヘルスについても個人と行政の間が大事で、心療内科医やカウンセラー、家族、友人、NPOが予兆の段階で果たす役割が重要だと思います。特に自傷行為や、その代替行為は未然に防ぐ必要があります。(「NPO メンタル」で検索すると、全国各地で様々な団体が無料相談に応じていることが分かります)。

 私は臨床心理学は大学2年次までしか学んでいませんが、依然としてメンタル・ヘルスの問題は、多くの人に潜在する問題としては、理解されていないと思います。症状には強弱や波がありますが、論理的・数理的思考力や、特定分野を掘り下げる力、瞬時の判断力や素直な感情表現の良さなど、ポジティブな側面を伴うこともあります。自覚していない人にも、その心的傾向があることも珍しくありません。ハイデガーが「不安」という概念を起点として『存在と時間』を記したように、「不安」や「妄想」が、世界や社会に対する存在論的な思考の条件だとも言えます。文芸の歴史に名を残した多くの作家たちが、心的な病を抱えていたことは自明です。

 メンタル・ヘルスの問題にはグラデーションがあり、再発しやすいものでも、投薬と生活習慣の改善で緩和され、支障が出にくいものもあります。生活習慣の改善(特に食事と睡眠と運動)やコミュニケーションの学び(礼節、ネット依存対策、情報リテラシーなどを含む)も重要だと思います。症状が重くなる場合は、日本では雇用義務・雇用率も明示されていますので(2018年よりメンタル・ヘルスの問題も適用)、上手く準備をすれば、安定したキャリアを形成することも可能です。私が過去に担当した演習・卒論の履修者で、この雇用枠で国家公務員に採用された人もいます。

 文筆業や公務員など、一部の業界ではよくある話ですので、冷静に役立つ情報を集め、理解のある身近な人や、心療内科やカウンセラー、NPOの窓口などに相談しながら、自分に合った問題の緩和の仕方を、「気長に」見つけることが大事だと思います。私自身も新型コロナ禍を機に、文芸批評やメディア研究に、ゆるゆると心理学の知見を取り入れていきたいと考えています。

2022/01/23

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第192回 米澤穂信『満願』

 「現代ブンガク風土記」(第192回 2022年1月23日)では、米澤穂信の『満願』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「『心の死』めぐるミステリ」です。第166回直木賞は、西田藍さんとの対談で挙げた2作が受賞でした。何れも出版不況を潜り抜けてきた作家らしい骨太の歴史小説で、読み応えがあり、嬉しく感じました。

 太宰治の小編に「満願」という作品がありますが、関係は薄く、米澤穂信の『満願』はいわゆる「イヤミス(読後に嫌な気持ちになるミステリ)」です。予想外の方向に物語が転がり、落語の人情噺のように「感情に訴えかけるような落ち」のある展開が魅力的な作品です。八溝山地にある「死人宿」など「いわくつきの場所」の描写も上手いです。

 収録されている6つの作品は、別々の土地を舞台にした、異なる物語ですが、何れも人間の「心の死」を中心的なテーマに据えている点で共通しています。人間は体が健康な状態でも、心が死の危機に瀕することがある、という現実感を生々しく伝えています。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/865901/

米澤穂信『満願』あらすじ

 交番勤務の巡査ながら、二階級特進で名誉の死を遂げたとされる巡査の職務の実態を描いた「夜警」。女性を魅了する佐原成海の妻と二人の娘の複雑な関係を描いた「柘榴」など、6つの短編から成るミステリ小説。文藝春秋、早川書房、宝島社のミステリーランキングで一位となる三冠を達成。山本周五郎賞受賞作。

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 単行本や雑誌原稿も含め、今月の締め切りの仕事がひと段落し、先々の仕事の準備で、全集本を70巻ほど発注しました。付箋を貼り、情報を整理する必要があるため、断捨離の時代に逆行しますが、ライフワークと覚悟し、購入。2年前の移籍時に千冊ぐらい本を捨て、業務用3列本棚を設置したので、収納はできますが、鈍器本約70冊はさすがに嵩張りそう。全集の値段が下落しているのも理解できます。古書店文化を守ることには、日頃、貢献しているつもりですが、新しく刊行される全集については、検索もできますし、電子版が相応しいと思います。

 NFLのプレイオフは、満員のスタジアムで好ゲームが続いています。Kansas Cityが残り13秒からの際どい逆転劇で、スタジアムから湯気が出る熱狂でした。QBのマホームズ君は父親がベイスターズのピッチャーで、横浜市にも住んでいたので応援したくなりますね(Do it KELCEが流行語になってました)。バロウ君のCincinnatiとのChampionshipはかなり楽しみ。Green Bayが毎年恒例のロシア級悪天候で、なぜか温暖なサンフランシスコに敗れ、Tampa Bayは同い年のブレディがメンタル不調っぽく、ラスト4秒での敗戦。

NFL Mic'd Up Divisional Round "I Almost Popped a Blood Vessel"

https://www.youtube.com/watch?v=5AjkZ5RL4BA

 今年のスーパーボウルは珍しくLA開催(新しいSoFi Studiam)で、ハーフタイムショーはエミネム、スヌープ・ドッグ、メアリー・J・ブライジ、ケンドリック・ラマー、ドクター・ドレで、なかなか豪華です(全くファミリー向けではない人選)。昨年のシャキーラ&ジェニファー・ロペスが中南米ノリで攻めたパフォーマンスだったので、今年も視聴者数で世界一の音楽ショーに相応しく、新しい時代を牽引する15分のステージを観たいです。

The Call | Pepsi Super Bowl LVI Halftime Show OFFICIAL TRAILER

https://www.youtube.com/watch?v=KJ2MbmrxVzg

 早く平和にアメリカをドライブしながらショービズを楽しみたいものです。体調に気を配りながら、何とか春先までの仕事を乗り切って行きたいと思います。

2022/01/18

第166回直木賞展望(西田藍さんとの対談)

 第166回直木賞の候補作について、文芸アイドルで書評家の西田藍さんと対談した記事が掲載されました。今回の対談は、明治大学国際日本学部のゼミ生に公開の上、実施しました。今村翔吾『塞王の楯』や米澤穂信『黒牢城』など今回も良い候補作が挙がっていますので、ご関心を頂ければ幸いです。

「第166回直木賞展望 直木賞はどの作品に」

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/863131/


 私が推した2作品についての対談用の評は下記です。

今村翔吾『塞王の楯』 さいおうのたて
 近江国穴太で石垣造りを生業とする穴太衆の視点を通して、関ケ原の戦いの前哨戦となった大津城の戦いを描く。戦国時代の中心は関西であり、興味深い人生を送った武将たちの城跡が多く残る。滋賀在住の作家らしく土地の描写が上手い。矛と楯だと、「矛」に重点を置いた歴史小説が多いが、「楯」に着目し、石垣が長い時をかけて物語る歴史に目を向けている。
 親族の女性たちの七光りで出世したため「蛍大名」と言われた京極高次が、家臣や領民の犠牲を避けるために心を砕く優しい側面を持つなど、人物描写に奥行きがある。終盤で描かれる鉄砲や大砲を作る国友衆との「矛楯合戦」は、小説らしい「イリュージョン」と言える表現で、見事という他ない。
 籠城戦に注目した二作品が候補になったのは、新型コロナ禍で自宅への「籠城」を強いられてきた世相に符合しているように思える。

米澤穂信『黒牢城』 こくろうじょう
 織田信長に謀反した戦国時代の大名・荒木村重の有岡城の戦い描く。尼崎の北、兵庫県伊丹市が舞台。ミステリー仕立てのエピソードを通して、死の気配が漂う戦乱の世を様々な角度から描く。名探偵役として有岡城に捕えられた黒田官兵衛を登場させ、信長に攻められ将兵が次々と寝返っていく「心理戦」が展開される。
 若き侍の謎めいた死をめぐる詮議、戦から首実検に至る城内の駆け引き、村重や官兵衛の秘めた思いも巧みにミステリー化している。「人は城」という言葉が、様々な思惑が交錯する籠城戦を通して血肉化されている。信長の逆を為すことを決めた村重の「治者」らしい内面描写が面白く、登場人物の多彩さ、道具立て、物語の構築の上手さ、戦国時代の大名の「宿命」の動きも上手く捉えられている。
 黒田官兵衛の息子で福岡藩の初代藩主・長政も、幼名の松寿丸として登場する。黒田父子の結び付きの深さと、その後の福岡の街の繁栄をもたらした史実が、終盤にかけて浮き彫りにされていて、面白い。


2022/01/16

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第191回 高樹のぶ子『マイマイ新子』

 「現代ブンガク風土記」(第191回 2022年1月16日)では、高樹のぶ子の自伝的な代表作『マイマイ新子』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「子供の感情通し描く『戦後』」です。

 子供の感情(大人が抱く子供のような感情も含む)は現代文学や現代思想にとって重要なものです。例えばドゥルーズ=ガタリが『アンチ・オイディプス』で、幼児性と資本主義社会の関係について、ベケットの遊戯的な短編や、アルトーの「器官なき身体」や、フロイトの「口唇期」の概念を引きながら、現代小説のような対話(哲学)を展開しました。ただ、生身の存在者である「私」を括弧に入れ、双数的に「私」と社会を地続きにとらえるポスト構造主義的な手法には限界もあります(この手法を先どった良作としてジョイスの『若い芸術家の肖像』などもありますが)。高樹のぶ子は自伝的な物語と歴史性を程よく融合し、長く読まれ得る「寓話」として本作を成立させています。

『マイマイ新子』はかつて周防の国の都だった国衙(現・山口県防府市)を舞台に、9歳の新子の成長を描いた作品です。北に多々良の山を擁し、南に穏やかな瀬戸内海を有する国衙には史跡が残り、かつて都だった時代の繫栄の跡が残ります。小説で描かれる時代は「もはや戦後ではない」と言われた昭和30年で、洞穴で暮らす満州帰りの傷痍軍人の生活や、ガダルカナル島から戻って来た遺骨、原爆症を患う叔母の姿など、戦争の影が社会の隅々に色濃く残っています。出来たばかりの広島の平和記念資料館、空手チョップに「冒険王」「鞍馬天狗」など、当時の社会風俗を感じさせる描写も読み所です。

 この作品は日本版の「赤毛のアン」を企図して書かれた作品らしいです。被爆した広島を訪れた新子が「戦争が悪いって言うけど、原爆落としたのはアメリカだし、どうしてみんな、アメリカに文句を言わないんだろう」と子供らしく思う一節が、当時の大人たちが押し殺してきた思いを代弁しています。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/862280/

高樹のぶ子『マイマイ新子』あらすじ

 昭和三十年の時代を背景に、著者の分身である9歳の新子の成長を描く。周防の国衙で生まれ育った新子は、単身赴任の大学教員の父を持ち、祖父母と母親の長子、妹の光子と暮らしている。戦争を経験し、復興の途上にある日本を逞しく生きる人々の姿を、子どもの視点を通して描いた高樹のぶ子の代表作。

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  新型コロナ禍ですが、「研究活動のリハビリ」のため、先週は広島に滞在していました。個人的な意見ですが、新型コロナ禍であっても、平和記念資料館は閉めないでほしかったです(近年は毎年来ていますが、リニューアルされた展示を、少人数でじっくり見るいい機会だったと考えることもできます)。長崎も含めて原爆資料館は「元旦も閉めない」というのが基本方針です。

 今週は火曜にも西田藍さんとの直木賞対談の記事が出ます(とても楽しい対談でした)。先日受けた取材記事は、来週の月曜の掲載予定です。

 あと西日本新聞とも関係の深い、東京新聞の連載:吉田戦車「かわうそセブン」が、新型コロナ禍で「伝染るんです。」の続編というお洒落な企画で、楽しんで読んでいます。かわうそがSDGsを皮肉る回など、ビゴーのように、時事的な風刺の効いた回が面白いです。

2022/01/10

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第190回 森博嗣『工学部・水柿助教授の日常』

  本年もよろしくお願いいたします。引き続き毎週日曜日に、西日本新聞朝刊とオンライン版で現代日本を代表する著者の小説について論じていきます。今週の「現代ブンガク風土記」(第190回 2022年1月9日)では、森博嗣『工学部・水柿助教授の日常』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「理工大描くミステリ私小説」です。

 森博嗣は『スカイ・クロラ』などの作品で売れっ子となりましたが、名古屋大学工学部で「生コン」の研究を行い、助教授のまま作家となった異色の経歴を持ちます。本作は、森博嗣の「私小説」と言える自伝的な作品で、森の分身と言える「水柿君」が三重大学と思しき大学の助手に採用され、名古屋大学と思しき大学の工学部に助教授として赴任する30代前半までを描いています。

 ミステリ小説に登場する饒舌な探偵について「犯人なんかよりもずっと不自然ではないか」などと批判している点も森博嗣らしくて面白いです。筒井康隆の『文学部唯野教授』や奥泉光の『桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活』のように、大学の世界の裏側を描いた系譜の小説です。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/858949/

森博嗣『工学部・水柿助教授の日常』あらすじ

 のちに作家となった、33歳のN大学工学部助教授・水柿小次郎の日常を描いた作品。「奈良の大仏が立ち上がって近鉄電車で通っているのではないか」と思わせる妙な先輩のエピソードなど、風変わりな理系の研究者を描く。ミステリ小説とは何かを考えさせる森博嗣の自伝的小説。

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 年のはじめに米国のメディア分析を少々。日本ではオミクロン株への不安が高まっていますが、アメリカではフットボールシーズンの真っ只中です。NCAAのOrange BowlやCotton Bowl、NFLのSuper Bowlを視野に入れた終盤戦が、(寒い中)8万人規模のスタジアムを満員にして行われています。年末のNew York Timesの国際版に「Colleges fear a mental health crisis」という記事が掲載されていましたが、大学教員として悲しくなる記事で、下のオンライン版の写真の「YOU don't have to be perfect to be AMAZING」という言葉が印象に残ります。マーチングバンドの音楽や観客の声援と共にBowl Gamesで躍動する学生たちの姿は、新型コロナ禍で孤独を感じている他の学生たちの心の支えになったと思います(客席のマスク着用は義務付けてほしいですが)。

https://www.nytimes.com/2021/12/22/us/covid-college-mental-health-suicide.html

 こういう状況下で行われたBowl Gamesについて、相対的に安全な側から分かりやすい批判をすることは容易です。ただNCAAやNFLはその程度の批判は織り込んでるわけで、各大学がキャンパスを有する、地域に根差したフットボール文化を守り、「コミュニティを回す」ことを優先し、学生を勇気付けることを優先したわけです。日本のメディア(翻訳報道も含む)がアメリカの大衆文化が反映する価値観をフォローできていない点については、2016年に中西部に2週間ほど滞在し、トランプの当選を事前予想した「新潮45」の原稿でも書きました。トランプの支持・不支持に関係なく「悪を引き受けて大義を成す」ことを選好したがる価値観が「他者としてのアメリカ」にあることが、日本ではほとんど理解されていません。アメリカに限らず、良い意味では山本周五郎の名作『樅ノ木は残った』や江藤淳の『成熟と喪失』にも通じる価値観です。

 新型コロナ禍で、日本でもメンタルの不調に起因する(と思われる)事件が頻発しています。しかし当事者をコミュニティに包摂し、痛ましい事件を未然に防ぐ方途に関する議論は脆弱で、「現場任せの対応」か「お役所対応」に留まっているのが現状です。私は1996年に、当時としては珍しかった臨床心理学を専攻できる学科に入学していますが(卒業は社会系)、臨床心理学者の東畑開人さんが書かれているとおり、「心の問題」は平成年間を通して一般にほとんど理解されず(その兆候が看過され続け)、新型コロナ禍の時代に深刻化したという印象が拭えません。

 近年はプロのフットボールの世界でもカレッジ時代に、精神的に苦労し、その後飛躍したQBの活躍が顕著です。ドラフト6巡199番目から這い上がり、20年近くトップ選手として踏ん張っている、同い年のトム・ブレディや、Ohio StateでスターターになれずLSUに転校して全勝優勝し、ドラフト1巡1位で入団したジョー・バロウ、ADHDを克服し、マイナーなブリガム・ヤング大(BYU)から、NYJにドラフト1巡2位の評価を受けたザック・ウィルソンなど、努力して才能を開花させたQBの繊細なプレイが光ります。

 個人的にオールタイムで最も好きなQBはスティーブ・ヤング(ブリガム・ヤングの子孫で、クイズ番組でも難問を即答するなど、瞬時の判断に秀でる)で、BYU=モルモン教系のQBの「修業感」のある我慢強いフットボールが好みです。ヤングは長い間、ジョー・モンタナの控えでしたが、彼のキャリアに目を向けると、どんな状況下でもプロとしての矜持を保ち、どのチーム・コーチの下でも通用する力を磨くことの重要性を教えてくれます。BYUはアメリカの大学で突出して学費が安い大学としても有名です。

 BYUといえば、モルモン教の首都=ソルトレイクシティを起点とした「ブック・オブ・モルモン」が近年のトニー賞で一番面白かったです。5年ぐらい前にソルトレイクに立ち寄った時、空港のレンタカー屋の受付のマダムに、この作品とスティーブ・ヤングのBYU時代の話をしたら、トヨタのYarisをFordの高級SUVに無料アップグレードしてくれたのが、いい思い出です。禁欲的な現代のモルモン教への批判は色々ありますが、米国の6大宗派ながら公然と原爆投下を批判していますし(ユタ州はトリニティ実験が行われたニューメキシコ州に近い)、ソルトレイクシティは街中でも路上生活者に優しく声をかけたり、食べ物や小銭を渡す人が多く、クリスチャンが多い長崎やナポリに雰囲気が似ています。

「ソーシャル・ディスタンス」という言葉が未だに使われ、紋切り型の正義が日本的な価値観やメディア報道に根差していますが、「コミュニティを回す」「埋もれた才能を引き出す」という観点からは不味い部分が多いと思います。新型コロナ禍が続いていますが、不確かな情報や極端な意見、他人や自身の「盛られた自己像」に踊らされず、また炎上やクレーム、キャンセル・カルチャー、マウンティングなど、「村社会的ないじめの変種」に加担して溜飲を下げるのでもなく、オープンなマインドで「コミュニティを回す」ことを心がけたいものです。この点は今週の新聞取材でも触れます。「(時間性を伴う)配慮的な気遣い(ハイデガー)」を忘れないようにしたいものです。

 今週は秋学期の教育活動の締めくくりとして、西日本新聞の直木賞対談(西田藍さんとの対談)を、学生に公開の上、明治大学中野キャンパスで実施します。今回の直木賞の候補作にも、出版不況を潜り抜けてきた、実力ある書き手の光る作品があります。

2021/12/20

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第189回 吉田修一『犯罪小説集』

 「現代ブンガク風土記」(第189回 2021年12月19日)では、綾野剛主演・瀬々敬久監督で映画化された吉田修一『犯罪小説集』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「猟奇的事件絡め迫る人間の闇」です。本作の中の2篇を原作とした映画「楽園」のパンフレットにも解説を寄稿しています。上白石萌音さんが歌う「楽園」の主題歌「一縷」も、小説の内容に相応しい素晴らしい楽曲(作詞・作曲: 野田洋次郎さん)です。昔の阿久悠作詞の歌や、中島みゆきやさだまさしの曲など、昭和歌謡(後期)のピーク時のような風格が感じられます。映画もKADOKAWAらしい良作です。

映画「楽園」解説/現代日本を生きる私たちの「こころ」の行く末を問いかける

https://makotsky.blogspot.com/2019/10/blog-post.html

『犯罪小説集』は日本の地方都市を主な舞台とした5つの犯罪事件を、事件そのものというよりは、そのプロセスを関係する人々の内面を通して描いた短編集です。

「青田Y字路」は、北関東連続幼女誘拐事件を想起させる内容ですが、この作品は、誘拐事件を描いたものというよりは、不確かな噂に振り回される人々を描いた作品だと言えます。警察の誤認捜査の結果、風評被害が拡がる「冤罪事件≒大人のいじめ」を描いた作品と考えることもできます。

「曼珠姫午睡」は、同級生の英里子の立場から、ゆう子が関与した「保険金殺人事件」を描いた作品です。裕福な家庭で育ち、幼少時から社交的で友達も多く、東京で弁護士の夫と結婚した英里子の人生は、ゆう子と対照的に一見すると幸福なものに思えますが、安全な場所に居ながら「マウントをとりたがる性格」に潜む闇が、ゆう子よりも深いことが徐々に明かされます。

 吉田修一は「犯罪小説集」の各短編を執筆するにあたり、近松門左衛門の作品を参照していたと考えられます。本作でも「曽根崎心中」「国性爺合戦」「女殺油地獄」など近松の代表作のような「五文字のタイトル」が各短編に採用され、ちょっとした感情の行き違いや思い込みが、登場人物たちの人生を一転させる点など、近松作品の核となるモチーフを継承しています。

 本連載は年内はこれが最後で、2022年1月9日より再開します。来年も現代日本を代表する小説を取り上げていきますので、ご関心を頂ければ幸いです。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/849716/

吉田修一『犯罪小説集』あらすじ

 地方都市や田舎町を主な舞台にして起きた「犯罪」を描いた短編集。立場の異なる様々な人物の視点から、事件に至る経緯が描かれる。犯罪を犯した人間と犯罪を犯さなかった人間の間に横たわる「闇」に迫る内容。吉田修一の新たな代表作。

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 2021年12月18日に、立教大学の福嶋亮大先生、神戸市外国語大学の山本昭宏先生にお越し頂き、明大生を前に「文芸批評」に関する充実した内容のゲスト講義を行って頂きました。明治大学より張競先生、伊藤氏貴先生、講談社「群像」の森川さん、文藝春秋「文學界」の長谷川さん、西日本新聞の佐々木さんにもご参加頂き、質疑応答も含め学生たちと共に密度の濃い、有意義な時間を過ごすことができました。

 山本さんのユーモラスな関西弁の講義に旅情と才覚を感じ、福嶋さんの理知的な話し方の講義に思想とビジョンを感じました。雑誌「批評空間」の認識的な枠組みを超えることが共通テーマとしてあり、色々と刺激を受けました。この日の夕方には、特別招聘教授の上野千鶴子先生の講義も開催されていましたので、フェミニズム批評も含め、国際日本学部・国際日本学研究科の学生にとって、批評について考えるいい一日になったのではと思います。

 新型コロナ禍の中、対面のゲスト講義(オンライン中継も実施)にご理解とご協力を頂き、心より感謝申し上げます。今年の最後に、多くの皆さんと対面で文芸批評の将来について考えることができ、嬉しく思いました。

2021/12/14

2021年ゼミ合宿@明治大学・山中セミナーハウス

 明治大学の山中セミナーハウスでゼミ合宿を実施しました。簡単な発表と、近隣の文学館の見学以外は、山中湖の近くを散歩しながら、雑談をするような時間でしたが、オンラインの世界と適度な距離を置き、清らかな空気を吸い、いいコミュニケーションの場ができていたように思います。将来のある学生たちには、心身の健康を第一に、極端な意見や、自己承認欲求が渦巻くSNSなど、オンライン上のコミュニケーションに囚われず、散歩や対面の会話、オフラインの読書に時間を使い、地に足の着いた想像力を育んでほしいと考えています。

 前任先からゼミ合宿では、移動中に学生一人一人と面談するようにしています。「旅」の開放感も手伝ってか、授業前後に聞けないような話や相談ごとを、学生たちから聴取することが多いです。雑談のような助言になりますが、現実の空間で一緒に移動しながら、美しい景色を眺め、談話することそのものに意味があると思っています。定期的に学生たちに取材する感じで、原稿を書く上でも参考になることもあります。

 明治大学のセミナーハウスは安くて利用しやすく、同じタイミングでゼミ合宿を行っていた他の先生方や学生も含めて、暖かい空気に包まれていたように感じました。天候に恵まれ、美しい冬の富士山に、学生たちが感動して写真を多く撮っていました。次の機会がセッティングできれば、院生や交換留学生も含めて、清里か菅平のセミナーハウスを訪れたいと考えています。



2021/12/13

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第188回 熊谷達也『邂逅の森』

 「現代ブンガク風土記」(第187回 2021年12月12日)では、直木賞と山本周五郎賞をダブル受賞した熊谷達也の『邂逅の森』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「漲る野性味 マタギの全盛期描く」です。

 熊やアオシシ、ニホンザルなどの狩猟を生業とし、アイヌ文化との関りも深い「マタギ」の里・秋田県旧荒瀬村で生まれた富治の物語です。胃腸病や婦人病などの万能薬として重宝される「熊の胆」を得るために、マタギたちは命懸けで熊を追っていました。この作品が描く明治~大正の時代には、熊の胆の一匁が米俵二俵と取引され、敷物として毛皮も人気であったため、一冬に一頭の熊を仕留めれば、数家族が冬を越すことができたらしいです。

 日本の山民=狩猟民の先祖とされる伝説上の人物・磐司磐三郎は、東北地方に多くの逸話を残し、マタギの開祖としても知られます。マタギの頭領は伝統を受け継ぎ、山言葉を用いて呪文を唱え、禁忌を守り、危険な熊の猟に臨んでいきます。マタギと熊との命懸けの戦いの場面がリアルで、マタギたちが時に意表を突かれ、時に生きたまま体を食われたり、顔の一部を引き千切られる描写が生々しいです。

 貴重な「熊の胆」をめぐる商取引の現場も、売り手と買い手の駆け引きに緊張感があります。命を懸けて人々が獲った商品が、互いを騙し合うような取引を通して描かれている点に、狩猟の現場とは異なる、商取引の現場らしい緊張感を覚えます。旅マタギの慣習や独自の信仰、夜這いの風習など、近代化の波に晒されながらも東北地方に残存してきた旧習の描写も読み所です。

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熊谷達也『邂逅の森』あらすじ

 秋田県の山奥のマタギの集落に生まれた富治は、名主の一人娘に夜這いを掛けて村を追い出される。鉱山で働く中で成長し、子分の小太郎の実家のある東北の別の村に移り住み、自らマタギの頭領となり、熊狩りに臨む。戦争の時代を背景に、貧しい人々が高価な薬の原料となる「熊の胆」を巡って命を賭ける姿を描く。直木賞と山本周五郎賞を史上初めて同時受賞した大作。

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 本連載は180回分(加筆・修正で約800枚)で単行本化の準備を進めていますが、2022年も平常通り続きます。まだ取り上げていない優れた作品も多く、例えば田辺聖子『ジョゼと虎と魚たち』や米澤穂信『満願』、古井由吉『仮往生伝試文』など、自由度の高い現代的な表現で、土地の風土や訛りを捉えた現代小説について、その内容に踏み込みながら批評していきます。
 以前にも記しましたが、本連載は、政治や社会をめぐる問題がどうであれ、有限な時空間を生きる、不完全な存在者である人間に、普遍的に付きまとう文学的な問題について論じた批評文です。念のため。

2021/12/06

西日本新聞「現代ブンガク風土記」第187回 佐藤究『Ank: a mirroring ape』

 「現代ブンガク風土記」(第187回 2021年12月5日)では、佐藤究の吉川英治文学新人賞・大藪春彦賞・W受賞作の『Ank: a mirroring ape』を取り上げました。担当デスクが付した表題は「『京都暴動』描くパニック小説」です。『テスカトリポカ』の直木賞受賞後に入稿した原稿ですが、「パンデミック小説」といえる内容でもあり、オミクロン株の流行が懸念されるタイミングでの掲載となりました。

 人類発生の起源をめぐる科学小説の趣きを持つ長編で、新型コロナウイルスの感染が拡大する以前の京都の「オーバーツーリズム」を風刺した、「知的なゾンビ映画」のような作品です。物語の軸となるのは、嵐山から京都御所、八坂神社まで「モンスター級の観光都市」を舞台に発生した「京都暴動」とAnk(古代エジプト語で「鏡」の意味)をめぐるミステリです。主人公は30代の霊長類研究者の望で、彼がシンガポールの起業家の出資で、AIが再現できない、人間の知性の謎に迫る研究所を立ち上げます。

 佐藤究は純文学出身ということもあり、人間の存在条件に迫る問いを小説に織り込むのが上手い作家です。直木賞の受賞作『テスカトリポカ』では、人間の物質性をアステカ文明の信仰と臓器売買を通して描き、超資本主義社会が持つ呪術性に迫りました。本作では、鏡に映った自己像を自分であると認識する「自己鏡像認識」の能力に着目し、それをAIが持ち得ない謎に迫ります。

「鏡に映っている像が自分」であると認識する能力は、チンパンジー・ボノボ・ゴリラ・オランウータンの4種と人類のみが持つ能力です。鏡や水面に映った自分の像を、自分自身だと認識することで、人間は進化を遂げました。ジャック・ラカンが「鏡像段階」に着目したように自己像の認識は重要なもので、霊長類研究の新しい成果を取り入れた点も面白く、佐藤究らしい人間の無意識に潜む「原ー暴力性」を浮き彫りにした作品と言えます。

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佐藤究「Ank:a mirroring ape」あらすじ

 世界的な観光地であり、観光客であふれかえる近未来の京都を舞台に「暴動」の謎に迫る小説。現代的な寓話であり、人間発生の起源をめぐる科学小説の趣きを持つ長編。吉川英治文学新人賞と大藪春彦賞をW受賞。